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第二部
第十四章 蛙、鳴き騒ぐ 其の二
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夕餉の席でも江は泣きはらした目で初の心配をしていた。
「初姉上は食べておられるだろうか。」
秀勝を亡くしたときを思いだし、ぼんやりとした江の箸は進まない。
秀忠は忙しなく箸を進めながら、そのような妻の様子をチロリと見ていた。
「仲のよい夫婦であられたのに……。お辛かろう……」
江は、手に持った茶碗からご飯を口に運ぶこともなく、そのまま膳の上に戻した。
パクパクと口を動かしていた秀忠は、侍女に茶碗を差し出しておかわりを催促する。一息ついた秀忠は向かい合った膳を見、口を開いた。
「その蕗の煮付けは食べぬのか? 食べぬのなら私が食うぞ。」
蕗の煮付けは秀忠の好物であった。そして、今日のように油揚げと煮てあるのは、江の大好物でもあった。
「食べまする。」
茶碗持って江は口を尖らせる。
「なら、さっさと食え。考え事は後からにしろ。」
ふっくらと盛られた飯茶碗を受け取りながら命令すると、秀忠は再び一心に膳と向き合った。
秀忠の冷たい言葉に固い顔を見せた江は、しばらく夫を睨み付けていたが、夫が動じないのをみると、怒りに任せて箸を進めはじめた。
夕餉に江の大好物が出されたのは偶然ではない。昼時、秀忠は奥へ来て大姥局にこう命じていた。
「民部に伝えよ。しばしの間、必ず江を夕餉の席に連れてくるようにと。そして、しばらくは夕餉に江の好物を切らさぬよう、そちと民部で御膳部を差配せよ。」
京極高次死去の知らせは既に大姥局のところへも届いている。また江がふさぎこむのは大姥局も容易に想像でき、心配の種となっていた。
「かしこまりましてございます。ちょうど御台様にお見舞いを申し上げに参ろうと思うておりましたゆえ、民部殿にそうお伝えいたしましょう。」
どこか険しい顔で大姥局は答え、秀忠の顔を見てすかさず付け加えた。
「わかっております。御台様には御内密で。」
「うむ。頼んだぞ。」
部屋の隅で控えていた静は、秀忠の優しさに感動しながらも、(何故ご内密になさるのだろう。)と思った。
そんな事情があったなど、江はもちろん知らないでいる。
夕餉の後も秀忠は政務を執り、蛙がやっと静かになった頃、首をぐるぐると動かしながら、寝所に入ってきた。江は慌てて手巾で涙を拭き取り、礼をすると秀忠に声をかける。
「お揉みいたしましょう。」
「いや、今日はよい。そのような顔で。今日はやすめ。」
「……はい……」
そのような日が二日続いた。三日目、江は赤く泣きはらした目を隠さず、寝所で秀忠を待ち構えて平伏した。
「あなたさま……、近江へ、京極へ行かせてくださりませ。」
泣きつかれて病人のようにか細くなった声で、江は懇願した。
「できると思うてか?」
秀忠は江を見下ろし、疲れた声で言い放つ。
(どいつもこいつも無茶な注文ばかりを……)と思いながら、秀忠はフッと息を吐いた。
「難しいことは承知しておりまする。したが…、行かせてくださりませ。……夫を亡くした辛さはようわかりまするゆえ、初姉上を慰めて差し上げとうございます。」
江は、秀勝を亡くしたとき、魂の脱け殻のようになった自分を思い出していた。
「高次さま、高次さま」と慕っていた初も、きっと同じように落胆しているだろう。そう考えるだけで、あの頃の自分が重なり合い、涙が溢れてくるのである。
「確かに、そなたもそうであったな。」
秀忠は自分の夜具に足をいれながら、そう呟いた。
「では。」
「ならぬ。」
江の顔が一瞬明るくなったが、秀忠は即座にきつく却下した。江の顔が強ばり、眉間にくっきりと皺がよる。
「……何故にござりまするか。」
「将軍御台所ゆえじゃ。」
間髪をいれず、秀忠は低い声できっぱり言いきった。
初のことばかり考え、江は我が身にかかる危険など思いもしていない。御台所が城から出たとなると、反徳川の者達の格好の標的となる。御台所として行こうが、お忍びでいこうが危険なのには変わりない。千姫が婚礼したときより、今の方が危うさはずっと増している。それを江はわかっていなかった。
大事な人には一所懸命になる江らしいと言えば江らしいが、秀忠は、そんな命を失うかもしれない旅に、最愛の妻を出すわけにはいかなかった。
「初がおろう。そなたの代わりに。」
「初はまだ十にもなりませぬ! あなたさまがそのように冷たい方だとは思いませなんだ。」
プイと横を向いて江が言う。
「武士達が死ぬのをいちいち気にしていては、大将は務まらぬ。ましてや将軍なぞ務まらぬわ。」
売り言葉に買い言葉であった。秀忠の言葉は自嘲でもある。しかし、江にはそれがわからず、(なんと冷たい)ときりっと唇を噛んだ。
「今そなたが行くと、それこそ『京極は徳川についた』と言われるぞ。」
最後に秀忠は、ぼそりと江の言葉で江を黙らせた。
「……わかりました。おやすみなさいませ。」
怒りと悲しみが綯い交ぜになった江は、無表情な声で挨拶をした。
江はそそくさと秀忠に背を向けて寝転び、夜具の中に顔を隠した。江の忍び泣きが秀忠の耳に聞こえる。憔悴しきった江の泣き声は、囁く声よりずっと小さかった。
秀忠は灯りを吹き消すと、座ったまま暗闇に目を慣らすように睨んでいる。
牛蛙の野太い声が遠くに聞こえ、名残の蛍が一匹、幽かな光を放ちながら、窓際に止まった。
「初殿は髪を落とされるじゃろうな。そうなると身軽になられるゆえ、江戸へ来ていただくのも容易かろう。」
秀忠がまだ座ったまま、暗闇の中にいる誰かに話すようにまっすぐ見て、少し優しい声を出した。江の泣き声が止まり、夜具から白い顔が覗く。
「それは……初姉上がこのお城へ来るということですか。」
「他に何がある。」
秀忠はチラリと江を見て、ただそう答えた。
「まことにございますか?」
江は思わず身を起こす。暗闇の中であったが、秀忠には江がどのような顔をしているか、はっきり見えていた。
「まことじゃ。私もお願いしたきことがあるゆえ。」
仄かな溜め息と共に、秀忠は再び宙へと呟いた。
江の黒い目がみるみる生気を取り戻した。江は夜具をはねのけ、いきなり秀忠の背中に抱きつく。涙に濡れたままの頬が秀忠の乾いた頬に寄り添った。
「まことでございますね。」
「くどい。」
「ありがとうござりまする。」
自分の肩に置かれた華奢な江の手を、端正な大きな手で秀忠は包む。
高次も懇意な徳川と、命を助けてもらった豊臣の間で心を痛めていたのを秀忠は思い出していた。
(初殿にもきっと思いを託されておるじゃろう)。
「高台院さまもお年を召された。初殿には、徳川と豊臣を繋いでいただかねばならぬゆえな。」
「はい。」
「早くお元気になってそうしていただこう。もう泣くな。」
暗闇の中、江の夜着の袖は同じほど白い江の顔を押さえていた。
「初姉上が心配なのです。『高次様がおられなんだら生きてはいけぬ』といつも言うておられましたゆえ。」
江の思いはまた元に戻っていた。秀忠は(やれやれ)と思いながら、話を少し逸らした。
「高次殿は、武士として戦場で死ねなかったのは口惜しかったじゃろうが、初殿に看取られて幸せだったやもしれぬな。」
「あなたさまは、戦場で死にたいのですか?」
江の黒い瞳が見開き、またほろほろと涙がこぼれる。
「わからぬ。」
秀忠は素っ気ない。
秀勝のように、離れた地で江に思いを残しながら死ぬなど、秀忠は考えたくもなかった。が、その気概を持たないのは、武士として恥ずべきことだと解っているし、武士として秀勝に劣ると思った。
「私は、…あなたさまに抱かれて死にとうございます。」
江は袖で目頭を押さえると、小さな声でぽつりと呟いた。秀忠はギクリとして、思わず大声を出す。
「埒もないことを申すな!」
「もう、残されるのは嫌にございまする。」
ポロポロと涙をこぼす江は、今や高次を亡くした初を思うだけでなく、秀勝やお市をはじめ、数々の人と別れを思い出している。
こんな幼女のように気弱な江を秀忠は初めて見た。秀忠にふつふつと湧いてきたのは、(守ってやらねばならぬ。)という思いであった。秀忠は江をそっと抱き寄せる。
「そなたが大姥ほど長生きしたら、考えてやってもよい。」
ぶっきらぼうに秀忠は冗談のような本気を言った。
「できるでしょうか。」
暗闇に溶け込む真っ黒な目を秀忠に向けると、涙声で江はそう訊いた。秀忠は江の髪を優しく撫でながら命令した。
「するのじゃ。もう休め。」
秀忠は江の体をゆっくりと自分の横に寝かせた。そして自分も横になりながら、夜具をひっぱり、江にもかけてやる。
「初姫に文を書いておいた。『義父上を亡くしてそなたも悲しいであろうが、義母上をよくよく慰めてさしあげるように』と。」
「あなたさま……」
秀忠とひとつ布団に収まった江が、厚い胸に手を当て、夫の顔を見つめる。
「父上を亡くすと書くは、なにやらおかしな心持ちであったがな。」
秀忠は少し明るい声で苦笑した。それは江に、いつも笑っていた秀勝の笑顔を思い出させる声であった。
「あなたさま……ありがとうござりまする。私は幸福者にござります。」
江は秀忠の広い胸に顔を埋め、やはりほろほろと泣いた。(一人ではない。私にはこの方がいる)。姉たちに申し訳ないと思いながらも、江は泣いた。
秀忠は、江の温かい涙を胸に受けながら、はかなげな様子の妻の髪に口づけすると、ひたすらその髪を撫でていた。
◆◇◆
翌々日はやっと見事な五月晴れとなった。
昼間は少し蒸し蒸しとしたが、夕方には爽やかな風がさやさやと吹いてきた。
奥の中庭でなにやら賑やかな声がしている。秀忠が竹千代や国松と相撲を取っていた。風疫が落ち着いてからこの方、秀忠は時間を作っては息子たちの相手をするよう心がけていた。
江は松姫を膝に乗せ、勝を隣に座らせてその様子を見ている。時おり見せる江らしい笑顔に、そばで控える民部卿はホッと胸を撫で下ろしていた。
「よ~し、最後じゃ。二人まとめてかかってこい。」
グッと腰を落とした秀忠に、着物に汗をにじませ、あちこち泥にまみれている竹千代と国松が一気に突っ込む。
二人が顔を真っ赤にしながら、ウンウンと押したが、秀忠はびくともせず、ひょいと国松を片腕で肩に担ぎ上げる。国松がじたばたするが父親は平気な顔で、片腕でまっすぐ押してくる竹千代の力を受け止めていた。しかし、秀忠が半歩下がって体を捻ると、竹千代は力の行き場を失い、自ら地面へ突っ込んでいった。
秀忠は国松を下ろし、竹千代を起こしてやる。福が飛んできて、竹千代の泥をぬぐった。
「竹千代、まっすぐ攻めることも肝要じゃが、まっすぐばかりでは道を見誤るぞ。じゃが、よう喰らい付いてきた。」
秀忠はポンポンと竹千代の頭を撫でる。
竹千代は顔を真っ赤にしたまま、父を睨み付けるように見、黙って父の言葉を聞いていた。
国松は、もう江のもとにいる。
江は、夫と子供たちの中で、柔らかな笑顔を取り戻していた。
秀忠が二人を相手に相撲をとっているとき、静が離れた回廊の掃除をしていた。
賑やかな声に誘われて目を向けると、咲き誇る紫陽花の花のずっと向こうに、ほのぼのとした将軍一家が目に入った。秀忠が楽しそうに若君たちと戯れ、江も周りに姫たちを置いて、きっと美しい笑顔なのだろう、時おり、袖で口許を隠しながら父子を見ている。
(なんとお幸せそうな……)
そう思って目を細めたときに、静の胸にふいに片恋の男が浮かんだ。
つばめが二羽、静の前をツイと飛んでいく。
(……私には、ご縁がなかったということじゃ。)
静の目から、涙が知らずにポトリと落ちる。静は、袖でグイと目を擦ると、廊下を磨くのに精を出した。
力を込めて、糠袋を円に動かしながら廊下を磨いていく。それは自分の心を平らかにしようという動きのようでもあった。
「ご縁が、なかったのじゃ。」
糠袋を動かしながら、静は何度かそう呟いていた
[第十四章 蛙、鳴き騒ぐ 了]
「初姉上は食べておられるだろうか。」
秀勝を亡くしたときを思いだし、ぼんやりとした江の箸は進まない。
秀忠は忙しなく箸を進めながら、そのような妻の様子をチロリと見ていた。
「仲のよい夫婦であられたのに……。お辛かろう……」
江は、手に持った茶碗からご飯を口に運ぶこともなく、そのまま膳の上に戻した。
パクパクと口を動かしていた秀忠は、侍女に茶碗を差し出しておかわりを催促する。一息ついた秀忠は向かい合った膳を見、口を開いた。
「その蕗の煮付けは食べぬのか? 食べぬのなら私が食うぞ。」
蕗の煮付けは秀忠の好物であった。そして、今日のように油揚げと煮てあるのは、江の大好物でもあった。
「食べまする。」
茶碗持って江は口を尖らせる。
「なら、さっさと食え。考え事は後からにしろ。」
ふっくらと盛られた飯茶碗を受け取りながら命令すると、秀忠は再び一心に膳と向き合った。
秀忠の冷たい言葉に固い顔を見せた江は、しばらく夫を睨み付けていたが、夫が動じないのをみると、怒りに任せて箸を進めはじめた。
夕餉に江の大好物が出されたのは偶然ではない。昼時、秀忠は奥へ来て大姥局にこう命じていた。
「民部に伝えよ。しばしの間、必ず江を夕餉の席に連れてくるようにと。そして、しばらくは夕餉に江の好物を切らさぬよう、そちと民部で御膳部を差配せよ。」
京極高次死去の知らせは既に大姥局のところへも届いている。また江がふさぎこむのは大姥局も容易に想像でき、心配の種となっていた。
「かしこまりましてございます。ちょうど御台様にお見舞いを申し上げに参ろうと思うておりましたゆえ、民部殿にそうお伝えいたしましょう。」
どこか険しい顔で大姥局は答え、秀忠の顔を見てすかさず付け加えた。
「わかっております。御台様には御内密で。」
「うむ。頼んだぞ。」
部屋の隅で控えていた静は、秀忠の優しさに感動しながらも、(何故ご内密になさるのだろう。)と思った。
そんな事情があったなど、江はもちろん知らないでいる。
夕餉の後も秀忠は政務を執り、蛙がやっと静かになった頃、首をぐるぐると動かしながら、寝所に入ってきた。江は慌てて手巾で涙を拭き取り、礼をすると秀忠に声をかける。
「お揉みいたしましょう。」
「いや、今日はよい。そのような顔で。今日はやすめ。」
「……はい……」
そのような日が二日続いた。三日目、江は赤く泣きはらした目を隠さず、寝所で秀忠を待ち構えて平伏した。
「あなたさま……、近江へ、京極へ行かせてくださりませ。」
泣きつかれて病人のようにか細くなった声で、江は懇願した。
「できると思うてか?」
秀忠は江を見下ろし、疲れた声で言い放つ。
(どいつもこいつも無茶な注文ばかりを……)と思いながら、秀忠はフッと息を吐いた。
「難しいことは承知しておりまする。したが…、行かせてくださりませ。……夫を亡くした辛さはようわかりまするゆえ、初姉上を慰めて差し上げとうございます。」
江は、秀勝を亡くしたとき、魂の脱け殻のようになった自分を思い出していた。
「高次さま、高次さま」と慕っていた初も、きっと同じように落胆しているだろう。そう考えるだけで、あの頃の自分が重なり合い、涙が溢れてくるのである。
「確かに、そなたもそうであったな。」
秀忠は自分の夜具に足をいれながら、そう呟いた。
「では。」
「ならぬ。」
江の顔が一瞬明るくなったが、秀忠は即座にきつく却下した。江の顔が強ばり、眉間にくっきりと皺がよる。
「……何故にござりまするか。」
「将軍御台所ゆえじゃ。」
間髪をいれず、秀忠は低い声できっぱり言いきった。
初のことばかり考え、江は我が身にかかる危険など思いもしていない。御台所が城から出たとなると、反徳川の者達の格好の標的となる。御台所として行こうが、お忍びでいこうが危険なのには変わりない。千姫が婚礼したときより、今の方が危うさはずっと増している。それを江はわかっていなかった。
大事な人には一所懸命になる江らしいと言えば江らしいが、秀忠は、そんな命を失うかもしれない旅に、最愛の妻を出すわけにはいかなかった。
「初がおろう。そなたの代わりに。」
「初はまだ十にもなりませぬ! あなたさまがそのように冷たい方だとは思いませなんだ。」
プイと横を向いて江が言う。
「武士達が死ぬのをいちいち気にしていては、大将は務まらぬ。ましてや将軍なぞ務まらぬわ。」
売り言葉に買い言葉であった。秀忠の言葉は自嘲でもある。しかし、江にはそれがわからず、(なんと冷たい)ときりっと唇を噛んだ。
「今そなたが行くと、それこそ『京極は徳川についた』と言われるぞ。」
最後に秀忠は、ぼそりと江の言葉で江を黙らせた。
「……わかりました。おやすみなさいませ。」
怒りと悲しみが綯い交ぜになった江は、無表情な声で挨拶をした。
江はそそくさと秀忠に背を向けて寝転び、夜具の中に顔を隠した。江の忍び泣きが秀忠の耳に聞こえる。憔悴しきった江の泣き声は、囁く声よりずっと小さかった。
秀忠は灯りを吹き消すと、座ったまま暗闇に目を慣らすように睨んでいる。
牛蛙の野太い声が遠くに聞こえ、名残の蛍が一匹、幽かな光を放ちながら、窓際に止まった。
「初殿は髪を落とされるじゃろうな。そうなると身軽になられるゆえ、江戸へ来ていただくのも容易かろう。」
秀忠がまだ座ったまま、暗闇の中にいる誰かに話すようにまっすぐ見て、少し優しい声を出した。江の泣き声が止まり、夜具から白い顔が覗く。
「それは……初姉上がこのお城へ来るということですか。」
「他に何がある。」
秀忠はチラリと江を見て、ただそう答えた。
「まことにございますか?」
江は思わず身を起こす。暗闇の中であったが、秀忠には江がどのような顔をしているか、はっきり見えていた。
「まことじゃ。私もお願いしたきことがあるゆえ。」
仄かな溜め息と共に、秀忠は再び宙へと呟いた。
江の黒い目がみるみる生気を取り戻した。江は夜具をはねのけ、いきなり秀忠の背中に抱きつく。涙に濡れたままの頬が秀忠の乾いた頬に寄り添った。
「まことでございますね。」
「くどい。」
「ありがとうござりまする。」
自分の肩に置かれた華奢な江の手を、端正な大きな手で秀忠は包む。
高次も懇意な徳川と、命を助けてもらった豊臣の間で心を痛めていたのを秀忠は思い出していた。
(初殿にもきっと思いを託されておるじゃろう)。
「高台院さまもお年を召された。初殿には、徳川と豊臣を繋いでいただかねばならぬゆえな。」
「はい。」
「早くお元気になってそうしていただこう。もう泣くな。」
暗闇の中、江の夜着の袖は同じほど白い江の顔を押さえていた。
「初姉上が心配なのです。『高次様がおられなんだら生きてはいけぬ』といつも言うておられましたゆえ。」
江の思いはまた元に戻っていた。秀忠は(やれやれ)と思いながら、話を少し逸らした。
「高次殿は、武士として戦場で死ねなかったのは口惜しかったじゃろうが、初殿に看取られて幸せだったやもしれぬな。」
「あなたさまは、戦場で死にたいのですか?」
江の黒い瞳が見開き、またほろほろと涙がこぼれる。
「わからぬ。」
秀忠は素っ気ない。
秀勝のように、離れた地で江に思いを残しながら死ぬなど、秀忠は考えたくもなかった。が、その気概を持たないのは、武士として恥ずべきことだと解っているし、武士として秀勝に劣ると思った。
「私は、…あなたさまに抱かれて死にとうございます。」
江は袖で目頭を押さえると、小さな声でぽつりと呟いた。秀忠はギクリとして、思わず大声を出す。
「埒もないことを申すな!」
「もう、残されるのは嫌にございまする。」
ポロポロと涙をこぼす江は、今や高次を亡くした初を思うだけでなく、秀勝やお市をはじめ、数々の人と別れを思い出している。
こんな幼女のように気弱な江を秀忠は初めて見た。秀忠にふつふつと湧いてきたのは、(守ってやらねばならぬ。)という思いであった。秀忠は江をそっと抱き寄せる。
「そなたが大姥ほど長生きしたら、考えてやってもよい。」
ぶっきらぼうに秀忠は冗談のような本気を言った。
「できるでしょうか。」
暗闇に溶け込む真っ黒な目を秀忠に向けると、涙声で江はそう訊いた。秀忠は江の髪を優しく撫でながら命令した。
「するのじゃ。もう休め。」
秀忠は江の体をゆっくりと自分の横に寝かせた。そして自分も横になりながら、夜具をひっぱり、江にもかけてやる。
「初姫に文を書いておいた。『義父上を亡くしてそなたも悲しいであろうが、義母上をよくよく慰めてさしあげるように』と。」
「あなたさま……」
秀忠とひとつ布団に収まった江が、厚い胸に手を当て、夫の顔を見つめる。
「父上を亡くすと書くは、なにやらおかしな心持ちであったがな。」
秀忠は少し明るい声で苦笑した。それは江に、いつも笑っていた秀勝の笑顔を思い出させる声であった。
「あなたさま……ありがとうござりまする。私は幸福者にござります。」
江は秀忠の広い胸に顔を埋め、やはりほろほろと泣いた。(一人ではない。私にはこの方がいる)。姉たちに申し訳ないと思いながらも、江は泣いた。
秀忠は、江の温かい涙を胸に受けながら、はかなげな様子の妻の髪に口づけすると、ひたすらその髪を撫でていた。
◆◇◆
翌々日はやっと見事な五月晴れとなった。
昼間は少し蒸し蒸しとしたが、夕方には爽やかな風がさやさやと吹いてきた。
奥の中庭でなにやら賑やかな声がしている。秀忠が竹千代や国松と相撲を取っていた。風疫が落ち着いてからこの方、秀忠は時間を作っては息子たちの相手をするよう心がけていた。
江は松姫を膝に乗せ、勝を隣に座らせてその様子を見ている。時おり見せる江らしい笑顔に、そばで控える民部卿はホッと胸を撫で下ろしていた。
「よ~し、最後じゃ。二人まとめてかかってこい。」
グッと腰を落とした秀忠に、着物に汗をにじませ、あちこち泥にまみれている竹千代と国松が一気に突っ込む。
二人が顔を真っ赤にしながら、ウンウンと押したが、秀忠はびくともせず、ひょいと国松を片腕で肩に担ぎ上げる。国松がじたばたするが父親は平気な顔で、片腕でまっすぐ押してくる竹千代の力を受け止めていた。しかし、秀忠が半歩下がって体を捻ると、竹千代は力の行き場を失い、自ら地面へ突っ込んでいった。
秀忠は国松を下ろし、竹千代を起こしてやる。福が飛んできて、竹千代の泥をぬぐった。
「竹千代、まっすぐ攻めることも肝要じゃが、まっすぐばかりでは道を見誤るぞ。じゃが、よう喰らい付いてきた。」
秀忠はポンポンと竹千代の頭を撫でる。
竹千代は顔を真っ赤にしたまま、父を睨み付けるように見、黙って父の言葉を聞いていた。
国松は、もう江のもとにいる。
江は、夫と子供たちの中で、柔らかな笑顔を取り戻していた。
秀忠が二人を相手に相撲をとっているとき、静が離れた回廊の掃除をしていた。
賑やかな声に誘われて目を向けると、咲き誇る紫陽花の花のずっと向こうに、ほのぼのとした将軍一家が目に入った。秀忠が楽しそうに若君たちと戯れ、江も周りに姫たちを置いて、きっと美しい笑顔なのだろう、時おり、袖で口許を隠しながら父子を見ている。
(なんとお幸せそうな……)
そう思って目を細めたときに、静の胸にふいに片恋の男が浮かんだ。
つばめが二羽、静の前をツイと飛んでいく。
(……私には、ご縁がなかったということじゃ。)
静の目から、涙が知らずにポトリと落ちる。静は、袖でグイと目を擦ると、廊下を磨くのに精を出した。
力を込めて、糠袋を円に動かしながら廊下を磨いていく。それは自分の心を平らかにしようという動きのようでもあった。
「ご縁が、なかったのじゃ。」
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