【完結】照葉輝く~静物語

みなわなみ

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第二部

第十五章 うつせみ割れる 其の一

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 「心を沿わせる」 
 静は春のあの日以来、百人一首集を読むのではなく、じっと見つめることが増えた。 
 小さな頃から慣れ親しんだ風景が、やわらかに心に浮かぶときもある。そして、いつかしら静は再び、恋の和歌うたを見つめては、そっと指で触り、「おまえさま」と呟くようになった。 
 そのたびに心の奥が揺さぶられ、喜びや悲しみが沸き上がって来る。いや、喜びであることはごく稀で、大抵は悲しみが襲ってきた。 
 『和歌うたは、今も昔も人の心は変わらないのを教えてくれます。よく楽しみなされ。』 
 静は、見性院の言葉を今更ながらに思い出し、冊子を胸に抱いた。 

 顔を見るだけで胸踊らせた方がいた。
 声を聞くだけで心ときめいた方がいた。
 片恋かたこいで十分だった。
 その届けられない思いは思いとして、私のような女子おなごでも望んでくださる方がいれば、よろこんで嫁に行くつもりであった。それがどのようなお方でも。けれど、自分に声がかかることはなかった。 
 だからこそ、届けられない思いは胸に膨らんでいった。それで幸せだったのだ。自分は女子として見つめられない。そんな切なさもあったが、それはいつも心の奥底に沈めてきた。それさえも家を離れ、城での楽しい日々の中、忘れてしまえた。それなのに……。 
 片恋の男があの日以来、静の心の中でうごめいている。そして、静を襲うのであった。 


 静は女主人に何かあったときに備えて、大姥局が呼べば聞こえる小部屋で寝るのを常としていた。 
 夜更けまで針仕事を進める。そして灯りが消える頃、主の部屋との隔てのふすまをほんのわずかにそっと開け、暗闇に耳を澄ます。大姥局の安らかな寝息を聞くと、安堵して音を立てないようにふすまを閉め、火の始末をして、自分の床に身を滑らせる。 
 今までなら、そのまま眠りに落ちていた。 
 しかし、春の日以来、静は夜具の中でそっと自分の足をこすり合わせる。片恋の男が和歌うたを思い起こさせる。そして、和歌うたを思い出すとそうせずにはいられない。 
 自分がなんとはしたないことをしているか、みだらになっているか、静は恥ずかしさに眉間に皺を寄せ、唇を噛み締めて、足を擦り合わせるのを止める。それでも、の疼きが自分をさいなんだ。実の疼きが、自分が女であることを思い知らせる。 
 女の悦びを覚えたからだいていた。 


 そうやって幾晩も幾晩もえた。
 ある夜、こらえきれず、着物の合わせ目から静は手を滑らせた。 
 シャラリとした自分の茂みは、わずかにしっとりとしている。柔かな水をたたえたふちを指でなぞり、端にある小さな実をゆっくりとでた。体に湧き上がる心地よさに、なぜか心は落ち着く。 
 女の軆が片恋の男を動かす。静は息を殺し、声を出さないですむ程度の悦びにふけっていた。 
 夜に響くふくろうの声で静は我に返り、暖かさを増した空気の中、我が身を抱きながら眠りに落ちる。そんな日が少しずつ増えていった。 

◇◆◇

 今年の梅雨は嫋々じゃくじゃくとした梅雨である。細かな雨が絶え間なく降り続いていた。 
 静は、梅雨空の下、今まで以上に笑顔を見せて働いていた。 
 (体を動かしていた方が気が紛れる。) 
 実際、じっとしていると和歌うたが頭を駆け巡る。 
 (旦那様をお助けしてしっかり働くのじゃ。)
 静は侍女仲間と言葉を交わしながら、休む間もなく働いていた。体を忙しく動かしては、静はフッとため息をついた。 

 静の増えた溜め息に気づかない大姥局ではない。笑顔もどことなく以前の静と違う。憂いを秘めた眼差しを時々みせ、それがほんの少しずつ増えているのも気づいていた。 
「静、少し休んではどうじゃ。働きづめでは体を壊すぞ。」 
「ありがとうございまする、旦那さま。したが、私は達者だけが取り柄ですゆえ。」 
 静は、えくぼの浮いたいつもの笑顔でにっこり笑った。 
「そうか…。ならよい。」 
 大姥局は柔らかな目で僅かに微笑んだ。 
「明後日、また見性院さまのところへ行ってくれぬか。暑中のお見舞いをしたいが雨続きで足元が悪い。見性院さまもそなたを気に入られて待ちわびておられるようじゃ。」 
「もったいないことでございます。喜んでいつでもお伺いいたしまする。」 
 静は、にっこりと微笑みながら礼をする。その笑顔に、やはり大姥局はどこか憂いを感じた。 
 (上様との間で何があったやら……。見性院さまのところで、少し気を晴らしてきてくれればよいが……) 
 大姥局は、静に手を合わせながら、部屋子のことを思いやった。 

 初めて訪れた昨年の秋以来、静は幾度か北の丸の尼の元を訪れていた。大姥局の供が多かったが、二度ほど、取り急ぎの使いで一人で出かけた。 
 見性院は、静一人であっても丁寧に客人きゃくじんとしてもてなしてくれた。静が恐縮して控えの間から話をしようとしても、 
「私も話をしたいゆえ、近う寄って茶の相手をしてくだされ。」 
 と、品のよい微笑みで老尼がいう。静は、その微笑みにつられて近くへと進むと、いつの間にか話が弾んでしまうのであった。 
 見性院は家康からの文と、大姥局からの申し出で、静が秀忠のお手付きなのを知っている。 
 最初は、いずれ関わるかも知れない静がどのような女なのか、その興味から話をしていた。しかし、静の素直さ、邪気のない笑顔に、見性院も自身の心がほぐれるのに気づいた。戦乱の世の興亡こうぼうを間近で見てきた見性院だから、なおさらそう思うのかもしれない。 
 (有り難き女子じゃ……) 
 老尼は、静が帰ったあとに、自分の顔にも微笑みが残っているのをいつも嬉しく感じていた。 


 その静の笑顔が今日はどこか違う。外の梅雨空の気をどこかにまとったような感じがする。 
「お静、なにか悲しいことでもありましたか?」 
 尼はお茶を差し出しながら、包みこむように微笑んで、やんわりと尋ねた。 
「いいえ。」 
 静は目を伏せ、ゆっくりとかぶりを振る。 
「ホホ、嘘がつけぬお人じゃ。」 
 見性院は柔らかに言うと、微笑んだまま、スッと黙った。
 しとしとと降る雨の軒端を叩く音が聞こえる。 
 見性院が自分のお茶に手を伸ばし、口に運んだ。
 静も同じように黙ったままお茶を口にした。
 緑の風のように爽やかな甘味が、静の身に染む。 

和歌うたを思うと切のうなりまする。」 
 いくらか微笑みを作り、静は見性院に報告した。 
「ほう。」 
 穏やかな優しい目を細め、興味深そうに老尼は相槌を打つ。 
「見性院様が仰せになられた『いつの世も人の心は変わらない』というのが解りましてございます。」 
 笑顔のまま、静は報告を終えた。静のその言葉だけで、尼は静が女としての哀しみを心に持ったのを悟った。 
「そうですか……。和歌うたの深みに触れたのですね。」 
 見性院の目には、悲しみと慈愛が溢れている。 
「そうなのでしょうか。」 
 静の自問するような問いかけに、見性院は微笑んで頷いた。 
「なかなかその深みに触れることはできませぬ。大事にしなされ。それが辛い気持ちでも。いつか癒えるときが来ましょう。」 
「はい。」 
 静は、浅茅あさじたちに聞かされた見性院の生い立ちを思い起こしていた。 
 実家の武田家は戦いで絶え、夫も、武田を継ぐ一人息子も早くに亡くし、迎えた養子にさえ先立たれている。そんな見性院の言葉が、静の心にゆっくり染み込んでいった。 
「そなたの笑顔は、みなを明るうしておりましょう。いつもの笑顔でおられよ。」 
「はい。」 
 見性院はにっこり笑って、静に笑顔を促す。
 静も『そなたの笑顔は宝じゃ』と言う大姥局の言葉と、『女は愛嬌ぞ』と言う父の言葉を思い出してにっこり笑った。 
 見性院は、その素直でけなげな笑顔に頷く。そして微笑んだまま、笑顔の静をじっと見つめ、穏やかな声で語りかけた。 

「お静、泣きたいときはここで泣けばよいのですよ。」 
 悲しみを宿した静の目から、知らずについと涙が落ちる。静は慌てて自分の頬を袖で隠した。 
「遠慮せずともよい。泣けぬと笑えぬものです。私の前では遠慮のう泣きなされ。そなたのまことの笑い顔を一番に見たいゆえ。…な。」 
 見性院の言葉に、静の涙は止まらなくなった。止めようとしてもポロポロと涙がこぼれる。 
「案ずるな。誰にも言わぬゆえ。」 
 見性院の細い両手が、静のふっくりした片手を取って包んだ。静はこらえきれず、片袖で目を押さえ、嗚咽おえつを漏らした。 
 雨蛙の声が聞こえる。まだしばらく雨が続くようであった。 
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