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第三部
第十九章 野分、吹き荒ぶ 其の三
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「ととさま、じじさま、おむすび~。」
栄太郎が嬉しそうな声で握り飯を手に走ってきた。立ち止まって、かぶりつく。
「栄太郎! ちゃんと座って食べなさい!」
蓋のついた笊笥を抱えた美津が、ささやかだが勢いのある声で叱る。
小さな息子はパタパタと走って、父と祖父の間に隠れた。
「叱られたか。」
嘉衛門がニッと笑って、息子の頭にポンと手を置く。
「よし、向こうで食べるか。」
少し離れたところに置かれた笊笥の中には、きれいに並べられた握り飯となめ味噌、なすの浅漬けが入っていた。
「栄太郎がとったの。」
なすの浅漬けを指差して、誇らしそうに報告する。
「そうか。では、いただこうかな。」
嘉衛門と栄嘉が手を合わせた。
「朝、採ったものか?」
栄嘉は、畑のものを支柱に結ぶついでに収穫をしていたが、静の騒ぎに黙って勝手口に置いたままにしていた。
「はい。なにもできなかったので、今ちょいと塩揉みだけ。」
「充分じゃ。」
「才兵衛殿は、おむすびだけ持っていったようです。」
栄太郎がこぼした米粒をつまみながら、美津が恐縮する。
「よいよい。充分じゃ。」
にこやかに頷きながら、舅は同じ言葉を繰り返した。
潜めてはいるが、楽しそうで賑やかな声が静の耳に届き、ゆっくり意識が戻される。小さな目が何度かしばたいて開いた。
(……ここは……)
細い目がぐるりと動く。
由良の声と共に寝入ったと思っていた静は、薄暗い部屋がどこなのか、一瞬理解できなかった。
栄太郎の笑い声や、小さくても華やかな美津の声が聞こえる。
(…母屋…)
(…なにゆえ……)
静は、ぼんやりと動かない頭を無理に働かせた。頭の中に真っ赤な海がよみがえる。
(あ……赤子が……)
静の目に涙が滲んだ。
(なぜ、気づかなかったのだろう…)
(…辱しめられたから?)
(嘉衛門さまをあまりに思うていたから?……)
焦点も合わず天井を向いていた静の眼が、一ヶ所を捕らえて止まった。
(………ここにいるということは……!)
誰かに運ばれてきたのだ。それが嘉衛門か才兵衛というのは考えなくても明らかである。
(知られて、しまった……)
静は消え入りたくなった。嘉衛門には知られたくなかった。誰よりも嘉衛門には知られたくなかった。器量は悪いけれど、せめて我が身がお清のままだと思っていてほしかった。
堪えきれずに涙が溢れる。
「ん?おひづちゃん?!」
雨音の中に聞こえた静の幽かな嗚咽に美津が気づいた。おむすびを頬張ったまま、枕元へ飛んでくる。
「気がついた? 気がついたのね? 分かる?」
慌てて口の中のものを飲み込み、胸を叩いている美津に、静が弱々しく頷いた。
「よかったぁ。」
美津が涙をにじませ、心底ほっとした笑顔を見せた。手拭いで静の涙を拭き、自分の涙をぬぐって、それでもまだ涙声で「エヘヘ」と笑った。
「おばうえ?いたいいたい?」
隣で栄太郎が食べかけのおむすびを持ったまま、心配そうな顔をする。
静が布団から弱々しく手を伸ばし、栄太郎を撫でた。
「ううん。ありがとう。」
仄かな笑顔をつくり、微かな声で静は栄太郎を安心させる。
「ごめんね、お美っちゃん。」
「なに言ってるの。アタシが子を亡くしたとき、お静ちゃんはずーっとついててくれたじゃない。」
美しい眼に翳りをたたえていたが、美津は明るく微笑んだ。
美津には栄太郎と糸の間にもう一人、子がいた。しかし月足らずで生まれた女の子は、乳を吸う力もなく、僅か二日で召されていったのだった。
ちょうど静がお城に上がる前の年の暮れ間近で、静は美津を気にしながらお城に上がったのだった。
そんなことがあった美津は、静の涙は子を亡くしたためのものだと思い込んでいる。
「それに、アタシは、『義姉上』だから。ねっ。」
気取ってポンと胸を叩いた美津に、静は精一杯の微笑みで頷き返す。
「お腹は空いてない? 喉は?」
「これこれ美津。まだそのような調子ではなかろうて。」
「……義父上様……」
「まだ顔色も今一つじゃ。ゆっくり眠れ。お局様には、今しばらく預かると、取り急ぎじゃが文を出したゆえな。」
静の涙をにじませた顔に、栄嘉はウンウンと頷いた。
「栄太郎、叔母上は病を負うておられる。今しばらく静かにせよ。」
「はい!」
幼子の元気のよい返事に、誰も叱ることができずに苦笑した。
◇◆
それから、二刻半ほど経っても、ただ強い雨が降るだけだった。
「むぅ…、まだ風が吹かぬか…。大きいかもしれぬのぅ。」
「はい。今のうちにもう一度外を見回ってまいります。美津、今日は寝ずの番になるかもしれぬ。蝋燭を用意しておけ。」
「はい。」
大人たちの緊迫が伝わるのか、糸もぐずりだす。栄太郎は所在なさげに大人たちの後ろをついて回るが、相手にされず半ベソをかいていた。
静はなんとか自力で体を起こせるようになった。
美津は蝋燭の確認をしながらも、静に(なにか滋養のあるものを……)と思っているが、この天候では火を使えない。
「そうだ! そうだわ!」
お勝手の棚から桐箱を出すと、箸を数本持って居間へと戻った。
居間では栄嘉がぐずる糸をあやし、栄太郎はやはり落ち着きなくウロウロしていた。
「栄太郎、怖いの?」
「うん。」
「じゃぁ、豪気になるお薬をあげましょう。叔母上にもね。お静ちゃん、起きられる?」
美津は静の横に桐箱を置き、蓋を開けた。中には小壺が入っている。
「おくすり? いや。」
箱を覗き込んでいた栄太郎が首を振った。
「あら、そう? じゃぁ、叔母上に。」
「あ、これは……」
何かを言おうをした静に、美津はいたずらっぽい目配せをし、唇の前で一本、指を立てた。
美津は重々しく壺の蓋を開けると、箸に水飴を取り、真面目くさった顔でぐるぐると回した。
「おくすり?」
栄太郎は、なんだかそれが美味しそうなものに見えた。
「おおっ、よいお薬じゃな。それは……爺がいただこうかな。」
するすると近寄った栄嘉が壺を覗いて嬉しそうにおどける。
「ダメッ、おばうえと栄太郎の。」
栄太郎の言葉に大人たちが笑った。
「そうか。では、爺がぐるぐるしてやろう。」
栄嘉は二本の箸を器用に使って水飴を取り、箸を回して練った。栄太郎は飽きることなく、その様子を見ていた。
*****
【蓋のついた笊笥】浅く大きい竹製ざる。寿司バラ、ショケ
【二刻半】 5時間と少し。秋分の頃には一刻が約2時間ですが、昼が長い時期は、日中の一刻は少し長い。
【水飴】 当時、甘味をつける調味料として一般的だったのは水飴。ただ、この水飴は 静が宿下がりの時に大姥局からいただいたお土産。上等もの
栄太郎が嬉しそうな声で握り飯を手に走ってきた。立ち止まって、かぶりつく。
「栄太郎! ちゃんと座って食べなさい!」
蓋のついた笊笥を抱えた美津が、ささやかだが勢いのある声で叱る。
小さな息子はパタパタと走って、父と祖父の間に隠れた。
「叱られたか。」
嘉衛門がニッと笑って、息子の頭にポンと手を置く。
「よし、向こうで食べるか。」
少し離れたところに置かれた笊笥の中には、きれいに並べられた握り飯となめ味噌、なすの浅漬けが入っていた。
「栄太郎がとったの。」
なすの浅漬けを指差して、誇らしそうに報告する。
「そうか。では、いただこうかな。」
嘉衛門と栄嘉が手を合わせた。
「朝、採ったものか?」
栄嘉は、畑のものを支柱に結ぶついでに収穫をしていたが、静の騒ぎに黙って勝手口に置いたままにしていた。
「はい。なにもできなかったので、今ちょいと塩揉みだけ。」
「充分じゃ。」
「才兵衛殿は、おむすびだけ持っていったようです。」
栄太郎がこぼした米粒をつまみながら、美津が恐縮する。
「よいよい。充分じゃ。」
にこやかに頷きながら、舅は同じ言葉を繰り返した。
潜めてはいるが、楽しそうで賑やかな声が静の耳に届き、ゆっくり意識が戻される。小さな目が何度かしばたいて開いた。
(……ここは……)
細い目がぐるりと動く。
由良の声と共に寝入ったと思っていた静は、薄暗い部屋がどこなのか、一瞬理解できなかった。
栄太郎の笑い声や、小さくても華やかな美津の声が聞こえる。
(…母屋…)
(…なにゆえ……)
静は、ぼんやりと動かない頭を無理に働かせた。頭の中に真っ赤な海がよみがえる。
(あ……赤子が……)
静の目に涙が滲んだ。
(なぜ、気づかなかったのだろう…)
(…辱しめられたから?)
(嘉衛門さまをあまりに思うていたから?……)
焦点も合わず天井を向いていた静の眼が、一ヶ所を捕らえて止まった。
(………ここにいるということは……!)
誰かに運ばれてきたのだ。それが嘉衛門か才兵衛というのは考えなくても明らかである。
(知られて、しまった……)
静は消え入りたくなった。嘉衛門には知られたくなかった。誰よりも嘉衛門には知られたくなかった。器量は悪いけれど、せめて我が身がお清のままだと思っていてほしかった。
堪えきれずに涙が溢れる。
「ん?おひづちゃん?!」
雨音の中に聞こえた静の幽かな嗚咽に美津が気づいた。おむすびを頬張ったまま、枕元へ飛んでくる。
「気がついた? 気がついたのね? 分かる?」
慌てて口の中のものを飲み込み、胸を叩いている美津に、静が弱々しく頷いた。
「よかったぁ。」
美津が涙をにじませ、心底ほっとした笑顔を見せた。手拭いで静の涙を拭き、自分の涙をぬぐって、それでもまだ涙声で「エヘヘ」と笑った。
「おばうえ?いたいいたい?」
隣で栄太郎が食べかけのおむすびを持ったまま、心配そうな顔をする。
静が布団から弱々しく手を伸ばし、栄太郎を撫でた。
「ううん。ありがとう。」
仄かな笑顔をつくり、微かな声で静は栄太郎を安心させる。
「ごめんね、お美っちゃん。」
「なに言ってるの。アタシが子を亡くしたとき、お静ちゃんはずーっとついててくれたじゃない。」
美しい眼に翳りをたたえていたが、美津は明るく微笑んだ。
美津には栄太郎と糸の間にもう一人、子がいた。しかし月足らずで生まれた女の子は、乳を吸う力もなく、僅か二日で召されていったのだった。
ちょうど静がお城に上がる前の年の暮れ間近で、静は美津を気にしながらお城に上がったのだった。
そんなことがあった美津は、静の涙は子を亡くしたためのものだと思い込んでいる。
「それに、アタシは、『義姉上』だから。ねっ。」
気取ってポンと胸を叩いた美津に、静は精一杯の微笑みで頷き返す。
「お腹は空いてない? 喉は?」
「これこれ美津。まだそのような調子ではなかろうて。」
「……義父上様……」
「まだ顔色も今一つじゃ。ゆっくり眠れ。お局様には、今しばらく預かると、取り急ぎじゃが文を出したゆえな。」
静の涙をにじませた顔に、栄嘉はウンウンと頷いた。
「栄太郎、叔母上は病を負うておられる。今しばらく静かにせよ。」
「はい!」
幼子の元気のよい返事に、誰も叱ることができずに苦笑した。
◇◆
それから、二刻半ほど経っても、ただ強い雨が降るだけだった。
「むぅ…、まだ風が吹かぬか…。大きいかもしれぬのぅ。」
「はい。今のうちにもう一度外を見回ってまいります。美津、今日は寝ずの番になるかもしれぬ。蝋燭を用意しておけ。」
「はい。」
大人たちの緊迫が伝わるのか、糸もぐずりだす。栄太郎は所在なさげに大人たちの後ろをついて回るが、相手にされず半ベソをかいていた。
静はなんとか自力で体を起こせるようになった。
美津は蝋燭の確認をしながらも、静に(なにか滋養のあるものを……)と思っているが、この天候では火を使えない。
「そうだ! そうだわ!」
お勝手の棚から桐箱を出すと、箸を数本持って居間へと戻った。
居間では栄嘉がぐずる糸をあやし、栄太郎はやはり落ち着きなくウロウロしていた。
「栄太郎、怖いの?」
「うん。」
「じゃぁ、豪気になるお薬をあげましょう。叔母上にもね。お静ちゃん、起きられる?」
美津は静の横に桐箱を置き、蓋を開けた。中には小壺が入っている。
「おくすり? いや。」
箱を覗き込んでいた栄太郎が首を振った。
「あら、そう? じゃぁ、叔母上に。」
「あ、これは……」
何かを言おうをした静に、美津はいたずらっぽい目配せをし、唇の前で一本、指を立てた。
美津は重々しく壺の蓋を開けると、箸に水飴を取り、真面目くさった顔でぐるぐると回した。
「おくすり?」
栄太郎は、なんだかそれが美味しそうなものに見えた。
「おおっ、よいお薬じゃな。それは……爺がいただこうかな。」
するすると近寄った栄嘉が壺を覗いて嬉しそうにおどける。
「ダメッ、おばうえと栄太郎の。」
栄太郎の言葉に大人たちが笑った。
「そうか。では、爺がぐるぐるしてやろう。」
栄嘉は二本の箸を器用に使って水飴を取り、箸を回して練った。栄太郎は飽きることなく、その様子を見ていた。
*****
【蓋のついた笊笥】浅く大きい竹製ざる。寿司バラ、ショケ
【二刻半】 5時間と少し。秋分の頃には一刻が約2時間ですが、昼が長い時期は、日中の一刻は少し長い。
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