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第四部

第二十一章 薄、尾花に変ず 其の六

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◆◇◆

 秀忠は忙しかった。 
 五月の初めに高次たかつぐが死去し、秀忠の段取りは大きく変わっていた。 
「利勝、すべての大名を徳川に味方に引き入れれば、淀の方様は諦めてくれるであろうか。」 
「孤立無援が分かれば、そうなさるやもしれませんな。堀を埋めまするか。」 
「江には恨まれるであろうの。」 
 将軍ひでただの口からは、またもや溜め息が漏れる。 
 しかし、国松と奈阿なあ姫の縁組みが段取りできないのであれば、まずは他の手を考えねばならない。 
 親父が黙っているうちに…… 
 親父が動かぬうちに……。 
 家康が諸侯を徳川方に引き込もうとしているのを秀忠は黙って支えた。 

「幕府は豊臣を公家として丁重に扱え。」 
 秀忠は豊臣の扱いに気を配り、確認を怠らなかった。 
 勝姫の縁組みが決まった頃は、忙しいとはいえ、まだ時々子どもたちと遊ぶ時間も取れたし、寝所で江に体をのんびり揉んでもらえていた。 
 ところが、文月に宮中で醜聞が露見し、それが伝わってきてからは、今まで以上にまつりごとに手をとられる時間が増えていった。 

◇◇

 主上おかみ逆鱗げきりんに触れた事件が書かれた報告文を見ながら、秀忠の手はワナワナと震えていた。 
 そこには、このようなことが書かれていた。 
 前左近衛少将さきのさのこのえのしょうしょう猪熊教利いのくまとしのりが中心となり、主上の寵愛をうける高級女官や公卿を手引き。あらゆるところで入り交じり、乱行を繰り返していた。 
 それが露見するやいなや、首謀者の猪熊はいずこかへ逃亡。 
 主上は関係したものすべてに厳罰を望んでいる。 

 読みながら、秀忠は呆れ返るとともに、どうしようもなく怒りが込み上げてきた。 
 禁中とはそうも乱れたところなのか。物語より酷いではないか。そのように乱れたところに松姫むすめをやるわけにはゆかぬ。 
「徹底的に調べ、すべて報告せよ。」 
 秀忠は家康に命じられ、すでに調べを行っていた京都所司代板倉勝重いたくらかつしげに、さらなる檄文げきぶんを飛ばした。 
 主上の怒りも収まらなかった。寵愛する女官たちに手を出され、顔に泥を塗られた主上は、乱行に関わったもの全てを極刑とすることを望んだ。 
 しかし、公家に死罪はない。死や血をけがれと忌み嫌った文化を受け継いでいたからである。 

 が、主上は覚えていた。 
 関白であった秀次ひでつぐが切腹させられたことを。 
 むろん、豊臣は元々が武家である。しかし、関白となっていた以上、公家でもある。 
 あの時は秀吉が命じた。ならば幕府に処刑させればよい。 
 そして事件の内容と主上の意向が、勝重から家康に伝えられ、秀忠にも伝えられたのである。 
 以来、都からの報告と家康の意向が、ことある事に入ってくる。乱行に加わったものは芋づる式に出てきて、あっという間に思いの外の人数となった。 
 猪熊はまだ捕らえられていない。 
 主上の怒りは収まらず、全員を厳罰にと繰り返した。 
 できなければ、家康が推した春宮とうぐうを廃し、弟宮を皇太弟として譲位するとも言い出した。 
 しかし、家康は最初から主上のいう通りにするつもりはなかった。 
「そのようなことに目くじらたてずとも……。」 
 と、溜め息をついた。
 ただ、春宮を廃されても困るので、主上の意向を聞いたふりをしながら、いつものように、のらりくらりとかわしている。それが秀忠をイライラさせていた。 
 暦の上では秋とはいえ、まだなんとなく蒸し暑いことも秀忠の苛立ちを増していた。 

◇◇

「禁中を掃除する良い機会ではないか」 
 扇子をせわしなくばたつかせながら、秀忠が苦い顔をする。 
 なかなか動かないいえやすへの不満が爆発した。
「さようにございまするな。」 
 涼しげに筆を走らせながら、あるじも見ずに利勝は答える。 
「流罪など、罰にもならぬ。」 
 扇子を畳み、秀忠はパンパンと肩を叩いた。 
「武士はそうでありしょうな。」 
 やはり利勝は書状を見たまま、さらりと答える。 
 それを片膝を立て、首に扇子を当てた秀忠が、ギロリと見た。 
「利勝、なにか言いたいことがあるのか。」 
「大御所様は、太閤殿下の二の舞は避けたいと思うておられるのでしょう。」 
 利勝はまだ書状から目を話さない。 
「太閤殿下の二の舞? 秀次殿を罰したことか。」 
 主君の問いに、利勝はやっと顔をあげた。 
「さようにござりまする。あのとき、太閤殿下は私情により、秀次殿に連なる妻子、お手付きにもならなかった女性にょしょうまで皆殺しにされました。」 
「うむ。」 
「その時、世の中がどれほど殿下をそしったか、その後の豊臣がいかな道をたどったか。」 
此度こたび主上おかみの私情と申すか。」 
「御意。私情も私情。ご寵愛の女官たちの不義密通にお怒りなのでございますゆえ。」 
「まぁ、そうだな。」 
 秀忠は、扇子を開いてパタパタと扇ぐ。少し考え込んで、言葉を継いだ。 
「確かに、殿下は秀次殿や皆を処罰した後、なにかに怯えていたと聞く。戦場いくさばを渡り合ってきた殿下でさえそうじゃ。主上など肝を冷やしてお隠れになるやもしれぬ。」 
「そのようなことになれば、そしられるのは誰でありましょう。」 
「う~む。」 
「まだ世が泰平になっておりませぬ。ここで見誤れば、再び、天下取りに名乗りをあげる者が出るやも知れません。」 
「なるほどな。寛大な処置をとっていれば、主上はともかく、公家連中に恩を売ることができるか。」 
 秀忠は扇子をシャッと畳み、それでパンと手のひらを叩いた。 
「御意。殺してしまうのは簡単ですが、生かして使うこともできまする。」 
「親父のやり方だな。」 
 秀忠はふっと片方の口角だけを上げる。そして、自分より父の考えをよく理解している利勝をちらりと見た。 
「公家が束ねやすくはなるか。しかし、それだけでは足らぬ。今のうちに公家の役割をはっきりさせておかねばならんな。」 
 秀忠はまっすぐ前を向き、キリッと口許を引き締めた。 
「は?」 
まつりごとに関わるわけでもなく、無為に過ごさせるゆえ、いらぬ事件ことが起こるのじゃ。此度の仕置きは父上の考える通りにするが、そこは言上ごんじょうしよう。」 
「ご自分からご用を増やさずとも。」 
 利勝は呆れたように言いながらも、一歩先を見るようになってきた秀忠に、ほんの少し頬が緩んだ。 

 この事件の仕置きは、家康の意向を全面的に酌み、秀忠は都の公家の規律を整え始めた。 
 無論、豊臣を、せめて淀の方様を大坂城から出すことも諦めていない。 
 江も秀忠に力を貸しているが、そんな江への淀の方からの文は少しよそよそしくなっている。そのことが、江の悲しみを深めていた。 
 江を慰めながらも、将軍は次の手を考える。 
 秀忠は忙しいからこそ、少しでも時間を作り江と過ごした。夕餉ゆうげしか一緒にいられないのが分かれば、少しゆっくり時間をとって江の話を聞いた。 
 豊臣や子供たちのことのみではない。人質として江戸にいる者たちと接した、江のたわいない話でさえ、時として将軍にとっては重要だった。
 そのような合間を縫って、秀忠は野分の後は見廻りにも精を出した。長月になる頃には、夜も自分の部屋で文を書いたり、規律をまとめたりの日が続く。休憩と思って寝転がったまま、寝入ってしまうこともしばしばあった。 

◆◇

 猪熊は長月ながつきの中頃に、日向ひゅうがの国で捕らえられた。 
 取り調べのあと、京都所司代の板倉勝重は、駿府へ赴き、大御所と最終の相談をした。市姫の髪置きの儀もあり、秀忠も駿府に出向いていたが、仕置きについては口を挟まなかった。 

 主上おかみは、あくまで「関わったものすべてを斬首」とお望みのようである。 
 「やれやれ」というような顔の父と、渋い表情の勝重のやりとりを、秀忠はただじっと聞いていた。  
 紆余曲折を経たが、国母こくもである新上東門院しんじょうとうもんいんの願いもあり、死罪は、中心人物の猪熊と発端の手引きをした牙医歯医者兼安頼継かねやすよりつぐ、二名のみとなる。 
 処刑が行われたのは、神無月十七日。猪熊が捕らえられて、一月後ひとつきのちであった。 
 処刑が遅れたのは、主上が処分に納得なさらなかったのもあるが、神無月朔日さくじつに市姫の髪置きが盛大に行われ、十五日に松姫の髪置きが行われたからでもある。 
 家康や秀忠にしてみれば、まだ幼い我が子に死のけがれがつかないようにしてやりたいとの親心であった。 

 が、これが主上の神経を逆撫でした。 
 自分の意向をまったく無視し、思うような仕置きをしなかったのを「不遜ふそんである」と言い、「即刻譲位」を口にするようになった。 
 なんとか「弟宮に譲位を」と主上は思われたが、春宮とうぐうになんの落ち度もなく、廃せなかった。 

 「それならば」と帝は、春宮の元服と同時の譲位を大御所に申し出た。 
 帝がこだわったのは理由がある。 
 平安の世に、元服と同時に帝位についた天子、醍醐帝だいごのみかど。醍醐帝は、摂関を置かず、自分自身でまつりごとを行っていた。 
 つまり春宮を同じようにし、「政の頂きは皇家である」と威信を示し、横暴な徳川幕府、不敬な家康に抵抗する心意気を天下に示そうとしたのである。 

 とはいえ、譲位をするには様々な支度が必要で、金銭的には幕府に頼らねばならない。 
 よって、主上はいちおう形として大御所に「よいか?」と諮詢しじゅんなされたが、実質は勅命を出したつもりであった。 
 ところが、家康が「うん」と言わなかったのである。 
「私は隠居の身ですから、なんとも言えません。」 
 と、そらとぼけたのである。 
 矛先は幕府に向いた。 
 間に立たされるのは、すなわち秀忠である。やっと醜聞事件が終わったと思ったら、今度は譲位問題。 
「いいかげんにしろ。」 
 と叫びたくなるのをグッとこらえ、将軍は利勝と額を合わせながら、大御所からの命令に片をつけようとしていた。 

◆◇

 秀忠は長月ながつきになった頃は休憩と思ってうたたねをしても、夜の冷え込みで目覚めることがあった。が、近頃は疲れのせいで、ぐっすり眠り込んでいる。
 それでも体の痛みに目が覚めると、頭には枕が、体には夜具がかけられていた。そして、必ず静が少し離れたところで控えていた。 

「うっ。」 
 秀忠が体を起こすと、静がすかさず飛んできて、夜具と枕をける。 
「うーん。ああ。」 
 大きく伸びをし、ぐるりと首を回す秀忠に、静は濡れた手拭いを差し出す。 
「ああ、すまぬな。」 
 秀忠はその手拭いで顔を拭いた後、しばらく顔の上に手拭いを乗せる。まだ曙の光さえ見えない中での、目覚めのための儀式のであった。 

 その間に、静は茶を入れる準備をする。 
「濃いのをな。」 
「はい。」 
 秀忠が手拭いを外すと、まだ眠そうな声で静に注文する。秀忠はもう一度、グッと目をつぶり、頭を反らせて天井を仰いだ。 
「今日もついておったのか。」 
「はい。」 
「茶を入れたら下がってやすめ。」 
「はい。」 
 静は柔らかに、にこやかに返事をする。 
 静は、ただ秀忠の世話ができるだけで嬉しかった。 
 秀忠から少し離れた灯の元で、秀忠の寝息を感じながら、秀忠の着物の針を動かす。
 時々、亡くした我が子に語りかける。 
 一人起きている静にとって、それはささやかな団欒だんらんの時といってもよかった。 

 秀忠は、このところ、夜なべするほどの用を抱えていた。が、つい居眠りというか、たまらず仮眠をしてしまう。 
 短い時間だが、ぐっすり眠ったあと、目覚ましに濃い茶を一杯飲むのが、静が戻ってきてからの秀忠の習慣になりつつあった。 

「うむ。よい。目が覚める。」 
 秀忠がそういうと、静は闇の中でにっこりと微笑んだ。その柔らかな気が秀忠にも伝わる。
 ちいさな息とともに秀忠はわずかに微笑み、また首をぐるりと回した。 
「下がって休め。大姥が案ずるゆえな。」 
「はい。では、失礼いたしまする。」 
 秀忠の優しい言葉を聞いて下がる。それが静の幸せであった。 


[第二十一章 薄、尾花に変ず 了]
*****
【諮詢】諮問。相談。
【勅命】主上からの命令
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