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第四部

第二十一章 薄、尾花に変ず 其の五

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◆◇◆

「母上、次はどういたしまする?」 
 江のぼんやりした頭に、勝の声が響いた。 
「ん?ああ。そうじゃな。次は、こうして、こうじゃ。」 
 江は勝の手から布を取り、娘に分かりやすく見せながら、ゆっくり針を刺した。 
「ここも同じようにな。やってみよ。」 
「はい。」 
 布を受け取った勝は、針と一緒に顔も動かしながら、一目一目刺繍をしていく。 
 江はそのような娘をほほえましく、いとおしく見ていた。 

「勝はなかなか上手じゃな。母はなかなか上手うもうなれなんだ。」 
「でも、お上手にございます。」 
 勝が、母の手元をキラキラした目で見る。江が気恥ずかしそうに微笑んだ。 
「そうか?うもうなりとうて励んだからかの。」 
「何故でございまするか?」 
「誉めていただきとうての。」 
「父上にですか?」 
「まぁ、……そうじゃ。」 
 少し言葉を濁しながら、ほんのりと頬を染め微笑む母に、勝姫は見とれた。 
 江はその娘の瞳に、羨ましさと不安が入り交じっているのを感じる。 

「勝、父上と母上も最初から仲がよかったわけではないぞ。」 
 刺繍する手を動かしながら、さりげなく江は娘に話し出した。 
「御台様っ、そのような。勝姫さんのひめ様が余計に気に病まれするぞ。」 
「よい。教えておかねばならぬ」 
 民部卿みんぶきょうが慌てて止めようとしたが、江はゆったりとそれを退しりぞけた。江は、針山に針を置くと、きちんと娘の方に向き直り、勝姫を見つめる。 
 勝姫は母譲りの美しい目をじっと江に返した。

「勝、母が父上の元へ嫁いだとき、年下の父上を母は邪険にした。ゆえに、父上の思いも母には見えなんだ。」 
「それで、どうなったのでございますか?」 
「ん?あるときな、父上の思いが見えたのじゃ。不器用じゃが母をよう想うてくれるお気持ちがの。」 
 また少し頬を染め、気恥ずかしそうに優しく江が微笑む。しかし、すぐになにやら悔いるような顔を見せた。 
「じゃが、思えば私も不器用であった。いろいろな思い出もあって意地を張っておった。 ……そなたは、私によう似ておる。お転婆なところも、まっすぐなところも。ゆえに、意地の張り合いだけはしてはならぬぞ。」 
 江は、娘の艶やかな髪をなで、微笑んで言い聞かせた。 
「忠直殿の父君ちちぎみの秀康様は、勇猛な武将であったらしい。忠直殿もそうじゃと聞き及んでおる。不器用なお方かもしれぬが、勝のまっすぐな心をぶつければよい。」 
いさかいになりませぬか?」 
 勝が疑問をまっすぐ訊く。 
「そうじゃのう。んー、なるじゃろうな。」 
 きれいな黒目をクリンと動かし、少しとぼけたように江が微笑む。 
「母上」 
 それでは解決にならぬとばかりに、額にしわ寄せ、勝が困ったような声で江を責めた。 
「謝ればよい。そのようなときはの。先に謝ってしまうのじゃ。」 
 少しいたずらっぽく微笑んだ江が、勝の手をとる。 
「そして、寂しいときは忠直殿に素直に甘えなされ。素直にの。」 
 母親はもう片方の手で、娘の柔らかな頬を撫でた。 
「そなたが物心ついたときには、千も珠も、もうここにはおらなんだ。ゆえに、そなたは一番上の姉として、育ったようなものじゃ。難しいかもしれぬが、まずは、たんと甘えるがよい。忠直殿を兄上じゃと思うてな。」 
「兄上…」 
 長子のように育った勝は、今一つ思い描けないのか、不安げである。 
「国松がそなたに甘えるように甘えればよいのじゃ。」 
「はい。」 
 にっこり笑った勝の明るい返事に、江は頷いた。 

「さぁ、続きをしてみよ。」 
「はい。」 
 小さな手に針を持ち、勝姫はまた針と一緒に顔を動かし始めた。 

 江は、勝姫が心配であった。

 千や初のように、姉の元へやるわけではない。珠も他家にやったが、秀忠の言う通り、物心つかぬうちであったゆえ、今は前田の姫として馴染んでいよう。 
 しかし、此度は違う。 
 忠直殿の父の秀康様は、兄である自分を差し置いて、秀忠うえ様が嫡男となったことをずいぶん恨んでいたときく。 
 そのような思いを忠直殿が引き継いでいたとしたら……。 
 自分の方が将軍の筋だと想うていたら……、勝にどう接するであろう。 
 徳川の身内とはいえ、宗家を恨んでいたとしたら、この国のなかで一番危うい嫁入り先かもしれぬ。 
 その思いを解きほぐせるか、勝が愛されるかどうかは、もう勝自身に託すしかすべがないのだ。まっすぐにいてほしい。 

 江は、そう願う。 

 そして、忠直がそろそろ大人の仲間入りをする歳を迎えているのに対し、乙女らしくなったとはいえ、勝はやっと十になろうとする少女であることも、江の心に影を落としていた。 
 (勝が大人になるまで忠直殿が待ってくださるとよいが……) 
 幼くして他家にやった娘たちのことを深く思う度、自分が幼い頃に嫁いだ一成を思い出す。 
 (あのように大事に待ってくださるだろうか……。そして、秀勝さまのように優しゅう教えてくだされるだろうか……) 
 江は、娘たちが何より女として幸せ・・・・・・であってほしいと望んでいた。 
 (私は女としては幸せなのやも知れぬ。一成さまに無理強いされず、秀勝さまに優しゅうされ、秀忠さまには深く愛され、子もたんと成した。そして、今のところは皆、無事に育っている。) 
 せめて同じような幸せを娘達に得てほしい。と江は思う。 
 大名、いや将軍の娘として、まつりごとの渦の中に嫌でも放り込まれてしまうのだから。 
 江は、目の前の勝姫を見ながら、嫁ぐ日までにしてやれることをあれこれ考えていた。 

 十三夜の尾花で作られたふくろうが、回廊のあちらこちらに飾られている。 
 静がひとつ作ったものを、皆が「かわいい」と真似して作った。それを大姥局と民部卿が差配して飾らせたのである。 
 ふわふわとしたその風貌ふうぼうは、子供や侍女たちを喜ばせるだけでなく、江の憂いや勝姫の不安を和らげていた。 

 キャッキャッという笑い声と、トタトタという足音が聞こえる。 
 松姫が梟の前で立ち止まっては、息を吹き掛けて遊んでいた。 
「かかしゃま。」 
 松姫は江を見つけると一目散に駆け寄り、ドンと抱きついた。 
「あれあれ、元気なこと。」 
 江が優しい笑みをすると、松姫は母の膝の上に陣取った。 
 もうすぐ髪置きを迎えるとはいえ、まだ2回目の誕生月も迎えない松姫は、やっと最近言葉らしい言葉を話すようになった。 
「ちい姫様が三の姫様の後を継ぎましょうな。」 
 民部卿おかしそうに口許を押さえながら、懐かしそうな顔で言う。 
「私のあと?」 
「お転婆に育つということじゃ。のっ。」 
 勝姫の問いに、江が答え、松姫のぷにぷにした頬をさわる。 
「あーい。」 
 松姫の愛らしい声に、華やかな笑い声が起きた。 
 笑いながら、江は自分が守るべきものが増えたと、しみじみ思い至る。 
 (姉上も……) 
 茶々に、そして秀忠に、江は思いを寄せる。 
 風が尾花の梟から二粒ほど種を巻き上げた。
 
◆◇◆

 大姥局は、静が尾花で作った梟にそっと手を合わせていたのを見ていた。静は、我が子の供養の思いで梟を作ったのである。 
 ただ、他の人に気づかせず、静は機嫌良く働いていた。

「旦那様、見ていただいてよろしゅうございましょうか。」 
 静が秀忠の鳶色とびいろ綿わた入れを持って入ってきた。 
「もうできたのか?」 
 目が薄くなった大姥局は指先に神経を集め、仕上がりを確認する。指に触るようなところはなく、糸を使ってあるのかと思うほど、なめらかに縫い上がっていた。 
「見事な出来じゃ。上様も喜ばれよう。」 
「ありがとうござりまする。」 
「しかし、昨日しつけていたのではないか。無理はならぬぞ。体は辛うないのか。」 
「はい。もうすっかり。」 
 次々に心配する言葉を発する主人を安心させるように、静はにっこり笑った。 
「宿直は止めてもよいのだぞ。」 
 皺を深めた大姥局が少し小声になる。 
「いいえ、私が一番年若でございますのに。皆様にご負担はかけられませぬ。」 
 目に優しい光を称え、えくぼを浮かべた穏やかな微笑みのまま、静はきっぱりと言いきった。 
「静…」 
「よいのです、旦那様。私は旦那様に、しかとお仕えするのが幸せと思うておりまする。皆様が頼りにしてくださるのが嬉しいのでございます。」 
 頼りにされるところ、そこが自分の居場所と思うのは、大姥局もよく解る。 
 しかしあのようなことがあった後、笑顔で言い切るとは……。 
 大姥局はやはり静が無理をしているのではないかと思う。 
「さようか。しかし、月に一度は見性院さまのところへ参れ。そして、赤子ややを供養してやるがよい。」 
「はい。ありがとうござりまする。」 
 やはり小さな声での大姥局の命令に静は頭を下げた。その静の頭の上で、大姥局はどこか苦しそうな顔を見せ、小さく呟く。 
「静…、お側には侍れぬぞ。」 
 頭をあげた静は、えくぼを浮かべて柔らかな笑みを返した。その微笑みに大姥局はドキリとする。 
「はい。承知しておりまする。」 
「さようか。」 
「はい。」 
 仏のように慈愛に満ちた微笑みであった。 
 大姥局は秀忠の母、西郷局を思い出す。 
 (あの方も優しいお方であった。) 
 しかし、静の気持ちが大姥局には量りかねた。 
 これほど水になった赤子を思っているのなら、次にはらんだ時、自ら水にするとは考えにくい。 
 それはそれで大御所様のめいを全うできるが……。 
 側に侍れぬというのがわかっていて、お情けをかけられてもよいと思うておるとは……。 
 役目だと割りきっておるのか、それとも、もう手がつかぬと思うているのだろうか。 
 (静、何を考えておる…。自分で自分を傷つけるのではないぞ。) 
 大姥局は下がっていく静を見て、眉間の皺を深めた。 
 (しかし、まぁなるようにしかならぬ。静が気持ちよう仕えてくれているのならば、まずはそれでよしとしておこう。) 
 大姥局もにこっと笑ってみた。 
 (女は愛嬌じゃ。) 
 脇息に置かれた尾花の梟も、愛嬌のある顔を見せている。大姥局がうんうんと頷いた。 
 (懸念ごとの多い上様のためにも、このつぼねは明るうしておかねば。そのためには、静が必要じゃ。) 
 大姥局はもう一度、梟を見てにっこり笑ってみた。 
 「フフフフフ」 
 老乳母の頭にあどけない長丸ひでただの笑顔が浮かび、つい、嬉しそうな声を立てた。 
 侍女たちがそんな主人の笑い声に、一瞬驚いたが、遠慮なく高らかに笑い声を立てる。 
 今日も局は賑やかな笑い声に満ちていた。 


*****
【鳶色】 鳶の羽のような赤みがかった濃茶色。小豆色に茶色を足したような色
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