緋色の月

八助のすけ

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緋色の月3

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「准教授おはようございます」

「やあ、おはよう」

今日は土曜の為、本来の受講は休みの講座は多いが、各自研究やレポートを書く為に学生もそこそこ入っていた。
この大学で数学科を教えている倉本誠司は、後数ヶ月で二度目の成人式を迎える歳だ。結婚は学生の頃、同じ大学の2つ下の後輩と恋に落ちそのまま結婚した。二人の間に子供が出来る事も無く、15年連れ添ったある日、家に帰るとテーブルんの上に1枚の紙と小さなメモが置かれていた。

確かに、周囲から自分は色々な事に関して淡白だと言われ続けていたが、今更それを理由に離婚届けを突きつけられるとは思っても居なかった。

後に知った事だったが……

元妻は、職場の男と何年も不倫関係を続けており、その不倫相手との子を妊娠したと言う事らしい。
知らなかった……何年も不倫されていただなんて……
当時はそれなりにショックっだったが、離婚の真相を家裁へ申請すれば離婚も成立しなかっただろうしあちらから金も請求出来ただろうが……
しかし、倉本はそれをせず無条件で離婚を受け入れた。

妻の変化に気づけず放置したのは事実で、きっと彼女も苦しんだのだろうと思ったからだ。

元々涼しげで少し謎めいた雰囲気と180と言う高身長で年齢を感じさせないセンスとルックスの為、離婚した後はあからさまに恋人の座を狙う女性も現れ、中には講座の生徒まで自分に好意を向ける者も居たが。
倉本自身、自分は恋愛には向いていないと言う気持ちと、何故かどれだけ美しく魅力的な女性を前にしても性的興奮を覚えない為、そのアプローチをサラリとかわしてきている。
それがまた逆に女心をくすぐると、構内では密かに倉本のファンは多かった。

「倉本准教授」

「どうした?」

声をかけて来たのは数学科の生徒で、自分の講座でも常に前の席に座り成績も良い生徒だ。

「レポートで少し解らない場所があるんですが、後で伺っても良いですか?」

今期が最後で卒業をする彼女は既に父親が経営する一流企業への就職も決まっており、就活に奔走する他の生徒とは違い余裕がある。

「ああ、構わないが14時過ぎになるよ?」

「はい!大丈夫です」

女性が少し意味ありげな視線を残し、講堂から出て行った。

いつも露出の多い服だと思っていたが、今日はオフショルダーにミニスカートと言う特別肌の露出が多いと感じた。
あんなに肩や脚を出して風邪引かないのだろうか……若いって凄いな。
倉本がそう思いながら女生徒の去った方を見ていたが、その時に頭に浮かんだのは対照的に肌の露出をしていないあの購買の店のアルバイト店員の姿だった。

あれから次の日にはもうあの少年らしき人物を見かけなかった。

それから毎日前を通る時に覗いたが、あの少年ではなく違う男で
そのアルバイトに聞いても派遣で来たから知らないと返された。
もう出会う事も無いだろうと諦め、今日も何となく売店の前を通りチラリと店を見ると、何時もは開いてる時間にも関わらずまだ開店準備中になっており、檻の様なシャッターが半分だけ上がっていた。


〈おや……〉


倉本が一歩下り身体をずらして中を覗くと、中で商品を並べている細い腕が見える。
その腕はこの暑い日にも関わらず長袖シャツを着込み、手首まできっちりとボタンを止めている。


〈彼だ!〉


倉本が檻のシャッターの前まで移動し

「おはよう」

自分からそう声をかけた。

「まだ準備中……」

ボソっと力の無い声で棚のから顔を出したのは間違いなくあの少年だった。
少年もシャッター越しに立つ倉本の顔を見て「あっ」っと小さく声を出した。

「石けん……?」

「ああ、いや石鹸はまだあるよ、しばらく顔を見なかったからもう辞めてしまったのかと思ってね」

「……オレに、何か用?」

ふらりと立ち上がりシャッターの近くまで来たが、決して手が届く場所までは近づかず片手で片腕の肘の辺りを掴み、明らかに何かを警戒してる目で倉本の喉の辺りを見ている、恐らく目を合わせない為の事だろうがそれよりも少年の姿に息を飲む。

「君、その顔は?」

少年は大きなマスクをし顔を隠しているが、そこから覗く左の目は、紫色に腫れ上がりっている。

「か……階段で転けた」

スっと視線を横に泳がせ、傷のある左側を隠す様に顔も背けた。

「そうか、頭は打って無いのか?」

「……たぶん」

「病院は?」

「……病院行くほどじゃないから、って用が無ければ仕事したいんだけど」

少年が所在なさげにソワソワとし始める。

「ああ、すまなかったね。君にこれを渡そうと思ってたんだ」

倉本が自分の鞄から薄いファイルを取り出しシャッター越しから中のカウンターへと乗せると、少年が一瞬躊躇いながらもそのファイルを手にした。

「これ、なに?」

そう言って少年がパラパラと中を見る

「君へのプレゼントだ、勘違しないで欲しいんだが決して皮肉でそれを渡す訳じゃ無い。私はここで数学科を担当している倉本誠司と言う者なんだが、この前君と話しててどうやら君が計算が苦手みたいだったから、もし君が学びたいと思うならそれを解いてみると良い。ちゃんと解き方の手順も書いてあるから、その通りにやってみなさい。それでも解らない所があれば、いつでも私に声をかけてくれて良いよ」

少年が心底驚いた様に倉本の顔を見る。

「え?あんたが?」

「ああ、これでも一応専門だからね」

少年がもう一度手にしたファイルを見て

「オレにくれる為に……わざわざ作ったの?」

「そうだよ、小学生で習う基本の問題ばかりだ出来たら提出しなさい」

「宿題?」

「そう言う事だね、嫌なら……」

倉本がその続きを言う前に――。

「うれしい」

そう言って初めて目を合わせほんの少し顔を綻ばせた。
その仮面からチラリと覗く僅かな素顔が、彼をより一層幼く見せ、それが倉本の庇護欲を刺激する。

「今日も17時までかい?」

「うん」

「そうか、じゃその時に出来た所まで答え合わせをしよう」

「うん」

倉本の言葉を聴きながら少年は手したファイルをまるで宝物の様に何度も大切そうに撫でていた。







◇ ◇ ◇  






その場から倉本が去った後も少年は暫くファイルを見つめていた。

オレンジ色のファイルの中はルーズリーフになっており、そこには計算問題が書いてあった。次にこれを解く為の手順と、何故そうなるのかと言う事が細かく丁寧にわかりやすく噛み砕いて書いてあり、その通りに数字を当てはめて行くと、正解に辿りつくような一種ゲームの様な作りとなっていた。

自分の為に自分だけの物を他人から貰った……

その事実が初めての事で嬉しいかったが、その反面これを受け取った事はそれなりの代償を払わなければならいと言う怖さもあった。

――タダで貰える物などこの世には存在しない――

食べ物も、住む場所も、そして愛情さえ対価を払うのが当たり前だと叩き込まれている。だから、何を対価に奪われるのかは解らないが、そんな事より目の前のプレゼントが嬉しくて仕方がなく、早くやりたいと急く気持ちを抑えながら開店の準備を急いだ。
今日は休講も多い休日だが、午前中はそれなりに客も来る為その合間を見つけてはファイルを開き、店内で使う為のポールペンで書き込んで行く。

それは面白い様に理解出来た。

これまで謎だった点が一本の線で繋がって行くのが面白くて仕方がなかった。
どんどんと解いて行き、気がつくと昼過ぎには全て終わってしまいまた最初からやり直す事を夢中で繰り返して、いつしか夢中になって行った。



少年の中での一番古い記憶は母親らしき女性に突き飛ばされた事から始まる。
古い団地の一階で家には何時も違う大人の男が入れ替わり立ち代り出入りしていた。それでも母の事は好きだったし、日替わりで変わる新しい父にも笑顔で接し、殴られても蹴られても泣きながらでも笑顔でいた。

【笑顔】が唯一自分の身を守る手段であり盾でもあった。

学校へ行く様になって、しばらくしてからやってきた何十人目の父親は、はえらく太った男で、その日少年は初めて笑顔になる事も出来ず、泣き叫び辞めてと懇願する出来事が起こった……何度も犯され、最後には人形の様に感情も涙も声すら出ずに、ただ揺さぶられる視界で天井を見つめるだけだった。

助けを求めた母は、自分の惚れた男を寝取った恋敵の少年を捨て家を出て行ってしまった。
それから、血の繋がりの無い男がそのまま自分の父と名乗り、一緒に暮らす様になったが、やがて定期的に客を取らされる様になり、少年はろくに小学校にも通えずにそのまま今に至っている。

タダで飯が食えると思うな

タダで学校に通えると思うな

タダで可愛がってもらえると思うな

タダで優しさが得られると思うな

その繰り返される呪文の言葉は、少年の人としての尊厳も権利も奪い去って行った。
何かを差し出す前に好意的な態度で何かを与えられる。
それがどれほど貴重で奇跡的な事か……
全身の至る所がずくずくと疼き痛む事も忘れるほど、ただただ嬉しくて何度も何度も時計を確認しながら、久しぶりにマスクの下で顔が綻んでいた。
だが、少年はそれを自覚していなかった。




「く ら も と  せ い じ …」




問題集を5回繰り返した後、その最期のページにある名前を指でなぞり何度もその名前を口にした。








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