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第3章 胡蝶堂
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目が覚めると、部屋の天井が妙に白く見えた。
起き上がろうとして体を起こすと、スーツのスカートがしわくちゃになっているのが目に入った。
そうだった。
メイクも落とさず、着替えもせず、昨日は泥のように眠ってしまったのだ。
「……最悪」
呟きながらバスルームに向かい、シャワーを浴びた。
ぬるま湯が肩を流れ落ちるうちに、ようやく頭が少しずつ冴えてくる。
酔いは残っていない。
むしろ、あれだけ疲れていたはずなのに、目覚めは悪くなかった。
朝食をとり、洗濯機を回しながら、リビングのローテーブルにタブレットを置いてSNSを開いた。
流れるようにタイムラインをスクロールする。
……何かがおかしい。
それに気づいたのは、わずかな“違和感”からだった。
いつもなら、最初に目に入るのは彩度の高い「キラキラ女子」たちの自撮りや、新作コスメのレビュー動画、カフェ巡りの報告だったはずだ。
だが、今日のフィードは、まるで違った。
控えめなメイクに地味なブラウスを着た女性たちが、「堅実女子」「ナチュラル系」として好意的なコメントを集めていた。
よく見れば、服装も髪型も、どれも千夜の普段着とそう変わらない。
「えっ……?」
関連動画をいくつか開いてみると、再生数が伸びているのは、華やかなメイクよりも“生活感”のあるものばかり。
仕事の合間に作るお弁当、リネンのシャツを着てベランダで本を読む姿、観葉植物の手入れをする静かな動画。
どれも、派手さとは無縁の風景だ。
(……アルゴリズムがおかしい?)
そう思って一度アプリを閉じ、動画サイトを開いてみる。
だが、そちらも同じだった。
まるで“地味”であることが、価値として逆転しているようだった。
洗濯機のブザーが鳴り、千夜は立ち上がった。
バスタオルを手に取りながらも、頭の中には薄く靄がかかっているようだった。
月曜日、千夜は出勤のため電車に乗った。
改札を抜け、オフィスビルへ向かう通勤路。
いつもと変わらない道のはずなのに、どこかで視線を感じる気がした。
いや、正確には――見られているような気配。
すれ違う男性たちが、ちらりと千夜を見ている。
その視線に、妙な悪意はなかった。
むしろ……好意すら混じっているように思えた。
「……え?」
わずかに首を傾げながらエレベーターに乗り、経理課のフロアへ到着する。
「おはようございます」
千夜が何人かの男性社員に挨拶すると、彼らはこれまでにない反応を示した。
「お、おはよう。今日もスーツ、似合ってるね」
「その眼鏡、ちょっと知的で素敵ですね」
言われ慣れていない言葉に、思わず戸惑い、曖昧な笑みを浮かべた。
自席に着いてからも、千夜は落ち着かなかった。
視線が自分に集まっているように感じる。
それは決して被害妄想ではなかった。
彼らの言葉や表情が、明らかに“こちらを見ている”ことを示していたからだ。
しばらくして、後ろの席が音を立てた。
振り返ると、佐倉葵が出社してきたところだった。
「おはようございます」
千夜が声をかけたが、すぐに言葉が詰まった。
葵の姿が、あまりにも――違ったからだ。
彼女は、グレーのパンツスーツに白いブラウスという、地味でフォーマルな装いをしていた。
ネイルもアクセサリーもなく、メイクも薄く、髪はひとつにまとめられている。
昨日のSNSで見た“堅実系女子”の典型だった。
「……佐倉さん、その服……どうしたの?」
葵は不思議そうな顔をして、目を瞬かせた。
「え? 普通じゃないですか?」
その一言に、千夜は返す言葉を失った。
千夜の中で、何かが静かにひっくり返る音がした。
課長に呼び出され、金曜の夜に提出した資料について短い打ち合わせを済ませたあとも、千夜の頭はぼんやりしていた。
確かに、あの資料を作ったのは自分だった。
間違いなく、金曜の夜にひとりで残って仕上げた。
そこに何の異常もない。
けれど、今目の前で起きている出来事は、明らかに“いつもの月曜”とは違っていた。
周囲の人間の態度、価値観、流行、空気――それらすべてが、千夜にとって都合が良すぎる形に変わっていた。
そして、何よりも気になっていたのは――
「胡蝶堂」の缶酎ハイのこと。
あれを飲んだのは、確かに金曜の夜だった。それ以外に特別なことは何もなかった。
だが、それを口にした瞬間から、世界がなだらかに別の色に染まっていった気がしてならなかった。
その正体はまだ掴めない。
けれど、確かなことがひとつだけある。
――この世界は、何かが違う。
そして、その“違い”が、今の自分にとって心地よい。
そんな実感を、千夜は初めて味わっていた。
起き上がろうとして体を起こすと、スーツのスカートがしわくちゃになっているのが目に入った。
そうだった。
メイクも落とさず、着替えもせず、昨日は泥のように眠ってしまったのだ。
「……最悪」
呟きながらバスルームに向かい、シャワーを浴びた。
ぬるま湯が肩を流れ落ちるうちに、ようやく頭が少しずつ冴えてくる。
酔いは残っていない。
むしろ、あれだけ疲れていたはずなのに、目覚めは悪くなかった。
朝食をとり、洗濯機を回しながら、リビングのローテーブルにタブレットを置いてSNSを開いた。
流れるようにタイムラインをスクロールする。
……何かがおかしい。
それに気づいたのは、わずかな“違和感”からだった。
いつもなら、最初に目に入るのは彩度の高い「キラキラ女子」たちの自撮りや、新作コスメのレビュー動画、カフェ巡りの報告だったはずだ。
だが、今日のフィードは、まるで違った。
控えめなメイクに地味なブラウスを着た女性たちが、「堅実女子」「ナチュラル系」として好意的なコメントを集めていた。
よく見れば、服装も髪型も、どれも千夜の普段着とそう変わらない。
「えっ……?」
関連動画をいくつか開いてみると、再生数が伸びているのは、華やかなメイクよりも“生活感”のあるものばかり。
仕事の合間に作るお弁当、リネンのシャツを着てベランダで本を読む姿、観葉植物の手入れをする静かな動画。
どれも、派手さとは無縁の風景だ。
(……アルゴリズムがおかしい?)
そう思って一度アプリを閉じ、動画サイトを開いてみる。
だが、そちらも同じだった。
まるで“地味”であることが、価値として逆転しているようだった。
洗濯機のブザーが鳴り、千夜は立ち上がった。
バスタオルを手に取りながらも、頭の中には薄く靄がかかっているようだった。
月曜日、千夜は出勤のため電車に乗った。
改札を抜け、オフィスビルへ向かう通勤路。
いつもと変わらない道のはずなのに、どこかで視線を感じる気がした。
いや、正確には――見られているような気配。
すれ違う男性たちが、ちらりと千夜を見ている。
その視線に、妙な悪意はなかった。
むしろ……好意すら混じっているように思えた。
「……え?」
わずかに首を傾げながらエレベーターに乗り、経理課のフロアへ到着する。
「おはようございます」
千夜が何人かの男性社員に挨拶すると、彼らはこれまでにない反応を示した。
「お、おはよう。今日もスーツ、似合ってるね」
「その眼鏡、ちょっと知的で素敵ですね」
言われ慣れていない言葉に、思わず戸惑い、曖昧な笑みを浮かべた。
自席に着いてからも、千夜は落ち着かなかった。
視線が自分に集まっているように感じる。
それは決して被害妄想ではなかった。
彼らの言葉や表情が、明らかに“こちらを見ている”ことを示していたからだ。
しばらくして、後ろの席が音を立てた。
振り返ると、佐倉葵が出社してきたところだった。
「おはようございます」
千夜が声をかけたが、すぐに言葉が詰まった。
葵の姿が、あまりにも――違ったからだ。
彼女は、グレーのパンツスーツに白いブラウスという、地味でフォーマルな装いをしていた。
ネイルもアクセサリーもなく、メイクも薄く、髪はひとつにまとめられている。
昨日のSNSで見た“堅実系女子”の典型だった。
「……佐倉さん、その服……どうしたの?」
葵は不思議そうな顔をして、目を瞬かせた。
「え? 普通じゃないですか?」
その一言に、千夜は返す言葉を失った。
千夜の中で、何かが静かにひっくり返る音がした。
課長に呼び出され、金曜の夜に提出した資料について短い打ち合わせを済ませたあとも、千夜の頭はぼんやりしていた。
確かに、あの資料を作ったのは自分だった。
間違いなく、金曜の夜にひとりで残って仕上げた。
そこに何の異常もない。
けれど、今目の前で起きている出来事は、明らかに“いつもの月曜”とは違っていた。
周囲の人間の態度、価値観、流行、空気――それらすべてが、千夜にとって都合が良すぎる形に変わっていた。
そして、何よりも気になっていたのは――
「胡蝶堂」の缶酎ハイのこと。
あれを飲んだのは、確かに金曜の夜だった。それ以外に特別なことは何もなかった。
だが、それを口にした瞬間から、世界がなだらかに別の色に染まっていった気がしてならなかった。
その正体はまだ掴めない。
けれど、確かなことがひとつだけある。
――この世界は、何かが違う。
そして、その“違い”が、今の自分にとって心地よい。
そんな実感を、千夜は初めて味わっていた。
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