3 / 7
第3章 胡蝶堂
しおりを挟む
目が覚めると、部屋の天井が妙に白く見えた。
起き上がろうとして体を起こすと、スーツのスカートがしわくちゃになっているのが目に入った。
そうだった。
メイクも落とさず、着替えもせず、昨日は泥のように眠ってしまったのだ。
「……最悪」
呟きながらバスルームに向かい、シャワーを浴びた。
ぬるま湯が肩を流れ落ちるうちに、ようやく頭が少しずつ冴えてくる。
酔いは残っていない。
むしろ、あれだけ疲れていたはずなのに、目覚めは悪くなかった。
朝食をとり、洗濯機を回しながら、リビングのローテーブルにタブレットを置いてSNSを開いた。
流れるようにタイムラインをスクロールする。
……何かがおかしい。
それに気づいたのは、わずかな“違和感”からだった。
いつもなら、最初に目に入るのは彩度の高い「キラキラ女子」たちの自撮りや、新作コスメのレビュー動画、カフェ巡りの報告だったはずだ。
だが、今日のフィードは、まるで違った。
控えめなメイクに地味なブラウスを着た女性たちが、「堅実女子」「ナチュラル系」として好意的なコメントを集めていた。
よく見れば、服装も髪型も、どれも千夜の普段着とそう変わらない。
「えっ……?」
関連動画をいくつか開いてみると、再生数が伸びているのは、華やかなメイクよりも“生活感”のあるものばかり。
仕事の合間に作るお弁当、リネンのシャツを着てベランダで本を読む姿、観葉植物の手入れをする静かな動画。
どれも、派手さとは無縁の風景だ。
(……アルゴリズムがおかしい?)
そう思って一度アプリを閉じ、動画サイトを開いてみる。
だが、そちらも同じだった。
まるで“地味”であることが、価値として逆転しているようだった。
洗濯機のブザーが鳴り、千夜は立ち上がった。
バスタオルを手に取りながらも、頭の中には薄く靄がかかっているようだった。
月曜日、千夜は出勤のため電車に乗った。
改札を抜け、オフィスビルへ向かう通勤路。
いつもと変わらない道のはずなのに、どこかで視線を感じる気がした。
いや、正確には――見られているような気配。
すれ違う男性たちが、ちらりと千夜を見ている。
その視線に、妙な悪意はなかった。
むしろ……好意すら混じっているように思えた。
「……え?」
わずかに首を傾げながらエレベーターに乗り、経理課のフロアへ到着する。
「おはようございます」
千夜が何人かの男性社員に挨拶すると、彼らはこれまでにない反応を示した。
「お、おはよう。今日もスーツ、似合ってるね」
「その眼鏡、ちょっと知的で素敵ですね」
言われ慣れていない言葉に、思わず戸惑い、曖昧な笑みを浮かべた。
自席に着いてからも、千夜は落ち着かなかった。
視線が自分に集まっているように感じる。
それは決して被害妄想ではなかった。
彼らの言葉や表情が、明らかに“こちらを見ている”ことを示していたからだ。
しばらくして、後ろの席が音を立てた。
振り返ると、佐倉葵が出社してきたところだった。
「おはようございます」
千夜が声をかけたが、すぐに言葉が詰まった。
葵の姿が、あまりにも――違ったからだ。
彼女は、グレーのパンツスーツに白いブラウスという、地味でフォーマルな装いをしていた。
ネイルもアクセサリーもなく、メイクも薄く、髪はひとつにまとめられている。
昨日のSNSで見た“堅実系女子”の典型だった。
「……佐倉さん、その服……どうしたの?」
葵は不思議そうな顔をして、目を瞬かせた。
「え? 普通じゃないですか?」
その一言に、千夜は返す言葉を失った。
千夜の中で、何かが静かにひっくり返る音がした。
課長に呼び出され、金曜の夜に提出した資料について短い打ち合わせを済ませたあとも、千夜の頭はぼんやりしていた。
確かに、あの資料を作ったのは自分だった。
間違いなく、金曜の夜にひとりで残って仕上げた。
そこに何の異常もない。
けれど、今目の前で起きている出来事は、明らかに“いつもの月曜”とは違っていた。
周囲の人間の態度、価値観、流行、空気――それらすべてが、千夜にとって都合が良すぎる形に変わっていた。
そして、何よりも気になっていたのは――
「胡蝶堂」の缶酎ハイのこと。
あれを飲んだのは、確かに金曜の夜だった。それ以外に特別なことは何もなかった。
だが、それを口にした瞬間から、世界がなだらかに別の色に染まっていった気がしてならなかった。
その正体はまだ掴めない。
けれど、確かなことがひとつだけある。
――この世界は、何かが違う。
そして、その“違い”が、今の自分にとって心地よい。
そんな実感を、千夜は初めて味わっていた。
起き上がろうとして体を起こすと、スーツのスカートがしわくちゃになっているのが目に入った。
そうだった。
メイクも落とさず、着替えもせず、昨日は泥のように眠ってしまったのだ。
「……最悪」
呟きながらバスルームに向かい、シャワーを浴びた。
ぬるま湯が肩を流れ落ちるうちに、ようやく頭が少しずつ冴えてくる。
酔いは残っていない。
むしろ、あれだけ疲れていたはずなのに、目覚めは悪くなかった。
朝食をとり、洗濯機を回しながら、リビングのローテーブルにタブレットを置いてSNSを開いた。
流れるようにタイムラインをスクロールする。
……何かがおかしい。
それに気づいたのは、わずかな“違和感”からだった。
いつもなら、最初に目に入るのは彩度の高い「キラキラ女子」たちの自撮りや、新作コスメのレビュー動画、カフェ巡りの報告だったはずだ。
だが、今日のフィードは、まるで違った。
控えめなメイクに地味なブラウスを着た女性たちが、「堅実女子」「ナチュラル系」として好意的なコメントを集めていた。
よく見れば、服装も髪型も、どれも千夜の普段着とそう変わらない。
「えっ……?」
関連動画をいくつか開いてみると、再生数が伸びているのは、華やかなメイクよりも“生活感”のあるものばかり。
仕事の合間に作るお弁当、リネンのシャツを着てベランダで本を読む姿、観葉植物の手入れをする静かな動画。
どれも、派手さとは無縁の風景だ。
(……アルゴリズムがおかしい?)
そう思って一度アプリを閉じ、動画サイトを開いてみる。
だが、そちらも同じだった。
まるで“地味”であることが、価値として逆転しているようだった。
洗濯機のブザーが鳴り、千夜は立ち上がった。
バスタオルを手に取りながらも、頭の中には薄く靄がかかっているようだった。
月曜日、千夜は出勤のため電車に乗った。
改札を抜け、オフィスビルへ向かう通勤路。
いつもと変わらない道のはずなのに、どこかで視線を感じる気がした。
いや、正確には――見られているような気配。
すれ違う男性たちが、ちらりと千夜を見ている。
その視線に、妙な悪意はなかった。
むしろ……好意すら混じっているように思えた。
「……え?」
わずかに首を傾げながらエレベーターに乗り、経理課のフロアへ到着する。
「おはようございます」
千夜が何人かの男性社員に挨拶すると、彼らはこれまでにない反応を示した。
「お、おはよう。今日もスーツ、似合ってるね」
「その眼鏡、ちょっと知的で素敵ですね」
言われ慣れていない言葉に、思わず戸惑い、曖昧な笑みを浮かべた。
自席に着いてからも、千夜は落ち着かなかった。
視線が自分に集まっているように感じる。
それは決して被害妄想ではなかった。
彼らの言葉や表情が、明らかに“こちらを見ている”ことを示していたからだ。
しばらくして、後ろの席が音を立てた。
振り返ると、佐倉葵が出社してきたところだった。
「おはようございます」
千夜が声をかけたが、すぐに言葉が詰まった。
葵の姿が、あまりにも――違ったからだ。
彼女は、グレーのパンツスーツに白いブラウスという、地味でフォーマルな装いをしていた。
ネイルもアクセサリーもなく、メイクも薄く、髪はひとつにまとめられている。
昨日のSNSで見た“堅実系女子”の典型だった。
「……佐倉さん、その服……どうしたの?」
葵は不思議そうな顔をして、目を瞬かせた。
「え? 普通じゃないですか?」
その一言に、千夜は返す言葉を失った。
千夜の中で、何かが静かにひっくり返る音がした。
課長に呼び出され、金曜の夜に提出した資料について短い打ち合わせを済ませたあとも、千夜の頭はぼんやりしていた。
確かに、あの資料を作ったのは自分だった。
間違いなく、金曜の夜にひとりで残って仕上げた。
そこに何の異常もない。
けれど、今目の前で起きている出来事は、明らかに“いつもの月曜”とは違っていた。
周囲の人間の態度、価値観、流行、空気――それらすべてが、千夜にとって都合が良すぎる形に変わっていた。
そして、何よりも気になっていたのは――
「胡蝶堂」の缶酎ハイのこと。
あれを飲んだのは、確かに金曜の夜だった。それ以外に特別なことは何もなかった。
だが、それを口にした瞬間から、世界がなだらかに別の色に染まっていった気がしてならなかった。
その正体はまだ掴めない。
けれど、確かなことがひとつだけある。
――この世界は、何かが違う。
そして、その“違い”が、今の自分にとって心地よい。
そんな実感を、千夜は初めて味わっていた。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました
佐倉穂波
恋愛
転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。
確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。
(そんな……死にたくないっ!)
乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。
2023.9.3 投稿分の改稿終了。
2023.9.4 表紙を作ってみました。
2023.9.15 完結。
2023.9.23 後日談を投稿しました。
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
女神に頼まれましたけど
実川えむ
ファンタジー
雷が光る中、催される、卒業パーティー。
その主役の一人である王太子が、肩までのストレートの金髪をかきあげながら、鼻を鳴らして見下ろす。
「リザベーテ、私、オーガスタス・グリフィン・ロウセルは、貴様との婚約を破棄すっ……!?」
ドンガラガッシャーン!
「ひぃぃっ!?」
情けない叫びとともに、婚約破棄劇場は始まった。
※王道の『婚約破棄』モノが書きたかった……
※ざまぁ要素は後日談にする予定……
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる