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第6章 夢を越えて
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土曜の朝
千夜は、まるで誰かに引き戻されたかのように、目を覚ました。
窓の外には柔らかな陽光が差し込み、ベッドの上に薄く影を落としている。
(……夢は見なかった)
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
金曜の夜、「胡蝶堂」を手に取らなかった自分を、ほんの少し誇らしく感じていた。
洗濯物を干し、トーストとヨーグルトの簡単な朝食を終えると、千夜はタブレットを手に取ってSNSを開いた。
表示されるのは、相変わらず華やかな世界だ。
カフェのスイーツ、海外旅行、カラフルなネイル。フィードは一面、“キラキラ女子”のオンパレード。
(戻ったんだな、やっぱり)
千夜は静かにスクロールしながら、ふと、自分のことを思った。
現実の中で、地味で、目立たなくて、でも誠実に生きている自分。
夢のような一週間で味わった、あの甘くて、心地よくて、でもどこか空虚だった感覚
は、今でも脳裏の奥に残っている。
けれど、それはもう過去の幻だ。
今の彼女は、それを追いかけるつもりはなかった。
午後、近くの商店街へと出かけた。
手に入れるのは特別なものではない。
歯ブラシの替えと、お米と、安売りしていた冷凍野菜。
でも、そういう何気ない日常のなかに、自分の「現実」があると、今なら少しわかる気がした。
(私は、私のままで、ちゃんと生きてる)
道端に咲いていた名もなき小さな花に、少しだけ目を留めた。
そして、それが“ささやかな肯定”のように感じられた。
帰り道。
経堂駅前のコンビニに立ち寄った。
酒類コーナーを何気なく見やったその瞬間、視界の片隅にうっすらとした紫がよぎる。
――「胡蝶堂」
また、一本だけ残っていた。
前回と同じ、棚の端の隅っこ。
誰かがそこに“わざと”置いたかのように。
夜はしばらく立ち止まって、それを見つめた。
(もし、今夜また飲んだら、あの世界に戻れるのかな)
ふと、そんな誘惑が胸をよぎる。
だけど、すぐに首を横に振った。
夢の中の自分は、自分じゃなかった。
褒められ、愛される自分は、ただ都合よく脚色された理想像でしかなかった。
「……いいの。もう、大丈夫だから」
小さく微笑みながら、千夜は棚の缶に触れることなく、店をあとにした。
帰宅して、いつものようにお風呂に入り、部屋着に着替えた。
ソファに腰かけて、ビールを開ける。
今夜は、キッチンで焼いた冷凍の餃子がつまみだった。
誰かに見せるわけでもない、普通の夜。
それでも、千夜の表情には、先週までにはなかった穏やかさがあった。
――夢の中で、ほんの少し「自分を許す方法」を知ったのかもしれない。
テレビをぼんやり眺めながら、千夜はふと天井を見上げた。
そのときだった。
部屋の中を、一羽の蝶がふわりと舞うのが見えた。
薄紫色の羽。
あの日と同じ、美しくも儚い影。
(……見間違い、かもしれない)
でも、千夜はそれを否定しなかった。
夢か現か、それを決めるのは自分自身だから。
蝶は、やがて静かに消えていった。
まるで、「もう、大丈夫だね」とでも言うように。
千夜は目を閉じて、静かに、深く息を吐いた。
明日も、仕事はある。
上司も、部下も、変わらずそこにいる。
それでもきっと、自分の歩幅で、歩いていける。
そう信じられるだけの、ささやかな強さが、今の千夜にはあった。
――夢は、夢のままに。
それを選んだのは、自分自身だった。
千夜は、まるで誰かに引き戻されたかのように、目を覚ました。
窓の外には柔らかな陽光が差し込み、ベッドの上に薄く影を落としている。
(……夢は見なかった)
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
金曜の夜、「胡蝶堂」を手に取らなかった自分を、ほんの少し誇らしく感じていた。
洗濯物を干し、トーストとヨーグルトの簡単な朝食を終えると、千夜はタブレットを手に取ってSNSを開いた。
表示されるのは、相変わらず華やかな世界だ。
カフェのスイーツ、海外旅行、カラフルなネイル。フィードは一面、“キラキラ女子”のオンパレード。
(戻ったんだな、やっぱり)
千夜は静かにスクロールしながら、ふと、自分のことを思った。
現実の中で、地味で、目立たなくて、でも誠実に生きている自分。
夢のような一週間で味わった、あの甘くて、心地よくて、でもどこか空虚だった感覚
は、今でも脳裏の奥に残っている。
けれど、それはもう過去の幻だ。
今の彼女は、それを追いかけるつもりはなかった。
午後、近くの商店街へと出かけた。
手に入れるのは特別なものではない。
歯ブラシの替えと、お米と、安売りしていた冷凍野菜。
でも、そういう何気ない日常のなかに、自分の「現実」があると、今なら少しわかる気がした。
(私は、私のままで、ちゃんと生きてる)
道端に咲いていた名もなき小さな花に、少しだけ目を留めた。
そして、それが“ささやかな肯定”のように感じられた。
帰り道。
経堂駅前のコンビニに立ち寄った。
酒類コーナーを何気なく見やったその瞬間、視界の片隅にうっすらとした紫がよぎる。
――「胡蝶堂」
また、一本だけ残っていた。
前回と同じ、棚の端の隅っこ。
誰かがそこに“わざと”置いたかのように。
夜はしばらく立ち止まって、それを見つめた。
(もし、今夜また飲んだら、あの世界に戻れるのかな)
ふと、そんな誘惑が胸をよぎる。
だけど、すぐに首を横に振った。
夢の中の自分は、自分じゃなかった。
褒められ、愛される自分は、ただ都合よく脚色された理想像でしかなかった。
「……いいの。もう、大丈夫だから」
小さく微笑みながら、千夜は棚の缶に触れることなく、店をあとにした。
帰宅して、いつものようにお風呂に入り、部屋着に着替えた。
ソファに腰かけて、ビールを開ける。
今夜は、キッチンで焼いた冷凍の餃子がつまみだった。
誰かに見せるわけでもない、普通の夜。
それでも、千夜の表情には、先週までにはなかった穏やかさがあった。
――夢の中で、ほんの少し「自分を許す方法」を知ったのかもしれない。
テレビをぼんやり眺めながら、千夜はふと天井を見上げた。
そのときだった。
部屋の中を、一羽の蝶がふわりと舞うのが見えた。
薄紫色の羽。
あの日と同じ、美しくも儚い影。
(……見間違い、かもしれない)
でも、千夜はそれを否定しなかった。
夢か現か、それを決めるのは自分自身だから。
蝶は、やがて静かに消えていった。
まるで、「もう、大丈夫だね」とでも言うように。
千夜は目を閉じて、静かに、深く息を吐いた。
明日も、仕事はある。
上司も、部下も、変わらずそこにいる。
それでもきっと、自分の歩幅で、歩いていける。
そう信じられるだけの、ささやかな強さが、今の千夜にはあった。
――夢は、夢のままに。
それを選んだのは、自分自身だった。
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