3 / 12
第3話 旧友からの連絡
しおりを挟む
翌朝の文久大学キャンパスは、どんよりとした曇り空の下、寒風が吹き抜けていた。
石畳の中庭を抜け、尚子は慣れた足取りで経済学部棟の階段を上る。
構内に入り、研究棟の重たい木製のドアを押し開けると、ひんやりとした冷気が肌を撫でた。
「おはようございます、教授」
助手の若い女性が丁寧に頭を下げる。
尚子は小さく頷きながら、研究室の扉を開けた。
部屋には書籍が天井まで積み重なり、白いデスクの上にはプリントアウトされた論文、政府資料、経済指標グラフなどが整然と並んでいた。
壁にはハーバードやMITで撮影された写真が額に収まって飾られており、その中に、笑顔の尚子ともう一人、ブロンドの女性が並んで写っていた。
マリア・ヴァンダービルト。
尚子がMITの研究員を務めていた時代に、偶然食堂で隣り合ってから不思議と話が弾み、親交を深めた数少ない外国人の友人である。
――あと、数時間で定頼が帰ってくる。
尚子は、デスクに置いたスマートフォンに格納してある息子の写真を眺めながら、思わず頬を緩めた。
日頃の多忙さに呑まれがちな彼女にとって、息子と過ごす時間はほんの数少ない“私的な幸せ”だった。
その時、デスク横の内線電話が鳴った。
受話器を取ると、少し懐かしい声がスピーカー越しに弾んだ。
「尚子? ヴァンダービルトよ。お久しぶり!」
思わず顔が綻ぶ。声の主はやはり、マリアだった。
「マリア。まさか、日本に戻っていたの?」
「ええ、例のプロジェクトでしばらく滞在しているの。ちょうど今、面白いものを仕上げたところでね。もし良ければ、あなたの記憶を少し貸してもらえないかしら?」
唐突な提案に、尚子は眉をひそめた。
「私の、記憶?」
「説明するより、見てもらった方が早いわ。少しだけでいいの。今日、お時間ある?」
尚子は一瞬迷った。
だが、息子に会える喜びに気分は高揚しており、研究に集中できるほどではなかった。
今日は仕事が手につかないと割り切るべき日だと、自分に言い聞かせる。
「……いいわ。そっちに向かうわね」
「大歓迎よ。楽しみにしてるわ!」
通話が切れると、尚子はため息まじりに笑った。
相変わらず、マリアはマリアだ。
奔放で突拍子もないが、その天才性は誰もが認めるところだった。
バッグを手に取り、研究室を出ようとしたとき、机の端に置かれた家族写真が視界に入った。
そこには、晴れ着姿の尚子と定征、そしてまだ十代前半だった定頼の姿がある。
尚子は一瞬それを見つめた後、静かに扉を閉めた。
その扉の向こうで、何かが大きく動き始めていることに、まだ気づいていなかった。
石畳の中庭を抜け、尚子は慣れた足取りで経済学部棟の階段を上る。
構内に入り、研究棟の重たい木製のドアを押し開けると、ひんやりとした冷気が肌を撫でた。
「おはようございます、教授」
助手の若い女性が丁寧に頭を下げる。
尚子は小さく頷きながら、研究室の扉を開けた。
部屋には書籍が天井まで積み重なり、白いデスクの上にはプリントアウトされた論文、政府資料、経済指標グラフなどが整然と並んでいた。
壁にはハーバードやMITで撮影された写真が額に収まって飾られており、その中に、笑顔の尚子ともう一人、ブロンドの女性が並んで写っていた。
マリア・ヴァンダービルト。
尚子がMITの研究員を務めていた時代に、偶然食堂で隣り合ってから不思議と話が弾み、親交を深めた数少ない外国人の友人である。
――あと、数時間で定頼が帰ってくる。
尚子は、デスクに置いたスマートフォンに格納してある息子の写真を眺めながら、思わず頬を緩めた。
日頃の多忙さに呑まれがちな彼女にとって、息子と過ごす時間はほんの数少ない“私的な幸せ”だった。
その時、デスク横の内線電話が鳴った。
受話器を取ると、少し懐かしい声がスピーカー越しに弾んだ。
「尚子? ヴァンダービルトよ。お久しぶり!」
思わず顔が綻ぶ。声の主はやはり、マリアだった。
「マリア。まさか、日本に戻っていたの?」
「ええ、例のプロジェクトでしばらく滞在しているの。ちょうど今、面白いものを仕上げたところでね。もし良ければ、あなたの記憶を少し貸してもらえないかしら?」
唐突な提案に、尚子は眉をひそめた。
「私の、記憶?」
「説明するより、見てもらった方が早いわ。少しだけでいいの。今日、お時間ある?」
尚子は一瞬迷った。
だが、息子に会える喜びに気分は高揚しており、研究に集中できるほどではなかった。
今日は仕事が手につかないと割り切るべき日だと、自分に言い聞かせる。
「……いいわ。そっちに向かうわね」
「大歓迎よ。楽しみにしてるわ!」
通話が切れると、尚子はため息まじりに笑った。
相変わらず、マリアはマリアだ。
奔放で突拍子もないが、その天才性は誰もが認めるところだった。
バッグを手に取り、研究室を出ようとしたとき、机の端に置かれた家族写真が視界に入った。
そこには、晴れ着姿の尚子と定征、そしてまだ十代前半だった定頼の姿がある。
尚子は一瞬それを見つめた後、静かに扉を閉めた。
その扉の向こうで、何かが大きく動き始めていることに、まだ気づいていなかった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
アガルタ・クライシス ―接点―
来栖とむ
SF
神話や物語で語られる異世界は、空想上の世界ではなかった。
九州で発見され盗難された古代の石板には、異世界につながる何かが記されていた。
同時に発見された古い指輪に偶然触れた瞬間、平凡な高校生・結衣は不思議な力に目覚める。
不審な動きをする他国の艦船と怪しい組織。そんな中、異世界からの来訪者が現れる。政府の秘密組織も行動を開始する。
古代から権力者たちによって秘密にされてきた異世界との関係。地球とアガルタ、二つの世界を巻き込む陰謀の渦中で、古代の謎が解き明かされていく。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
サイレント・サブマリン ―虚構の海―
来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。
科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。
電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。
小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。
「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」
しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。
謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か——
そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。
記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える——
これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。
【全17話完結】
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる