瞳の狩人

ミイ

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老人と猫

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眼下に広がる一面の茶畑。
深いむせ返る、緑の香り。
古い平屋の縁側で、上等な着物に身を包んだ男は目をつぶりながら茶を飲んだ。
自分で育てた茶葉は普通のものの何倍も芳しく、愛おしい。
両手で湯呑みを包む。
味わうように、惜しむように最後のひと口を飲み干しす。
ああ、帰ってきたのだな、と心底思う。

音もなく傍らに猫が座っていた。
黒い艶やかな毛並み、長いしなやかな尾。
傷のある片方の目は閉じていたが、それを抜きにしても美しい猫だった。
特に紺碧の空を宿した隻眼は。
見るものを釘付けにする、宝石のような妖しさがある。
ちりん、と首の鈴が鳴る。
陽光を弾く銀に男は目を細めた。
「そんなに見張らなくても逃げませんよ」
『どうだか』
見目に反し太い男の声が響く。
男は苦笑した。
「相変わらずつれないですねえ」
それに猫は鼻を鳴らす。
『満足したか』
「おかげさまで。焦がれてやまないこの景色を見れました。おまけにお茶もおいしくて、感謝の気持ちでいっぱいです」
男の言葉に猫は尾を揺らした。
『故郷に帰りたい、など欲がないな。お前がのぞむなら、金持ちにでも、好きな女でも抱かせてやったものを』
男は静かに笑う。
「本当の故郷は空襲で焼けてしまいましたからね。だからどうしても最期に見たかった。焼き付けておきたかった。それに私にとって抱きたい女はとっくにあちらに渡ってしまいました。でも、これでようやく会える。ありがとう、猫さん」
呼んでから、男は首を傾げた。
「そういえば名前を聞いていませんでしたね。冥土の土産に教えてくれませんか?」

一陣の風が吹く。
頬を撫でる爽やかさにめまいがする。
これが全て幻であることを、男は忘れそうになる。
「あちらにいる妻にこの不可思議な体験を話すのに、ただの猫では味気ない」

本当の男の身体は空襲で焼けた東京の片隅で、泥を食みながら、力尽きようとしていた。
古びた橋の根元。
血と垢で乾いた襤褸を纏い、寒さに凍えていた。
頭は年相応に白く、骨と皮だけの体躯。
一見すればゴミかそうでないか、判断がつかぬほどの腐臭。
しかし、不思議と惨めさはない。
この理不尽な時代を、生き抜いた。
この身ひとつで。
そんな自分が誇らしくさえある。

『ない』
太い声は無機質だった。
『そんなものはない』
「名前がない?」
猫は面倒くさそうにそっぽを向いた。
「なるほど、それでは」
男は無垢に笑う。
「僭越ながら、私がつけてさしあげても問題ないですね」
『いらぬ』
猫のあからさまな嫌悪のまなざしに男は声を上げて笑った。
「そう言わないでくださいよ。私とあなたの仲でしょう?」
猫は答えない。
「私があなたにしてさしあげられることは、もうこれくらいしかありませんから」
『願いを叶えた対価に俺はお前から「瞳」をもらう。それが仕事だ。だから気にしなくていい』
「私の目がそんなに価値があるとは驚きです」
『感覚器官の眼球ではない。肉体に宿る記憶の核。お前が生涯、その目を通して見た映像のすべてがしまわれている。その本質は精神や魂に近い』
いつも彼はそう説明しているのだろう。
慣れた口ぶりだった。

「それは死んだあとの話でしょう?私は生きてるうちにあなたに何かしてさしあげたい」
なおも男は食い下がった。
『…好きにしろ』
諦めを含んだ声に、男は満足気に目を閉じる。

「夏目」
宿る音はあたたかく優しい。
「夏目、という名前はどうですか?あなたの瞳はまるで夏の夜を閉じ込めたようだ」
素敵でしょう?と男は少年のように目を細めた。
『名をつけたところで、お前が死ねばもう呼ぶ者などいないではないか』
「あらわれますよ。あなたの名を呼んでくれる人が、きっと」
『戯言だな』

男の傍は心地よかった。
だからつい姿を現さなくてもいいのに、姿を見せ、声をかけてしまう。
この時代には不釣り合いな清廉な魂。
それを今から猫は狩る。
正確には男の記憶が宿された『瞳』を。
魂から切り離し、その記憶を保管するために。
猫は世界の記憶を管理する歯車の一部だった。
だから。
これはいつものことなのだ。
と、自分に言い聞かせた。

「また会いたいですねえ」
男の言葉に猫は泣きたくなる。
その膝に駆け寄りたくなる、すがりたくなる。
やはり名前など、もらうんじゃなかった。
後悔しても遅いのだ。
名前は呪いだ。
それを忘れたわけじゃなかったのに。

「そろそろ時間ですね」
肉体の寿命が尽きようとしていた。
男は居住まいを直し、猫に向き直った。
「夏目」
『なんだ』
「ありがとう、私の我儘をきいてくれて」
猫は鼻を鳴らした。
『仕方がない。お前と俺の仲だからな』

その言葉が合図だったように。
男の姿が空気に溶け、滲んでゆく。
輪郭がぼやけ、男の声が聞こえなくなる。
だがその唇は、微笑みながら何度も猫の名をえがいた。
いつまでも男はまっすぐに猫を見つめていた。
まばゆい光があたりを包む。
思わず猫は目を閉じた。
次に目を開けた時。
男の姿は跡形もなく消えていた。

残されたのは虹色の『玉』。
口に咥えると、
猫はしずかにそれを飲み込んだ。
茶葉の香りが小さな胸に優しく響いた。



end

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