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第三章
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マーサは今日も萩岡先生の近くにいた。ホームルームを進める先生の教卓に座ったマーサは、何を言うでもなく、沈黙を保ちながら先生を見つめる。目は口よりも雄弁に、先生への恋情を語り続ける。
「魚沼~。ぼーっとすんなー」
「せんせーよく見てますねぇ……」
マーサには気付かないくせに。
内心の皮肉を飲み込み、へらりと笑う。先生をじっと見つめていたマーサは、ゆっくりと俺を瞳に映した。真っ黒な瞳は俺をぎゅるりと飲み込む。底知れない黒の深さに、冷や汗が背筋を冷やした。マーサの口が、はくりと動く。
なんで。
音のない呟きは、確かに俺の耳に届いた。マーサはふらりと教卓から飛び降り、教室を出ていく。地に足を付け、生者のように振る舞うマーサは、どこか不安定さを感じさせた。唐突に開いた扉に、クラスメイトは顔をぎょっとさせる。つられるようにして立ち上がった俺に、隣の席の堀さんが声をかける。
「魚沼くん、何か見えたの?」
いたずらっぽく言う堀さんに冷静さを取り戻し、にやりと笑う。
「まさか。堀さんだって見えなかったでしょ」
肩を竦める俺に先生は座るよう促し、扉を閉める。首を傾げる先生に、残酷だなと小さく呟いた。見えない者は幸運だ。そして、知らない者は幸福だ。死者の思いを好きに解釈するのは見えない者の特権だ。死者を正しく理解する必要なんて、今を生きとし生ける者にある筈もない。結局こうして立ち上がってしまうのは、好き勝手に解釈することを許されない俺だけなのだ。
思い詰めた様子のマーサを一人にすることができなくて、俺はふらりと席を離れる。無造作に扉を開け、教室を出ていこうとする俺を先生は呼び止めた。
「おい魚沼っ! まだホームルーム終わってないぞ!」
「心臓痛くなったから保健室行きまーす」
「はっ? 心臓!?」
へらりと笑い扉を閉める。マーサの行く先には見当がついた。恐らく、俺とマーサが初めて会ったあの教室だろう。先生とマーサはかつてその教室で同級生として過ごしていたのだから。いや、正確には恋人か。
ご丁寧に自分の心を抉る思考に苦笑する。目当ての教室の扉を開け、中に入る。今は空き教室として捨て置かれている教室の窓際にマーサはいた。さながらあの日のように日を浴び薄く透けているマーサは、涙の膜の張った目を、静かにこちらに向けた。瞳に映るのは、落胆の色。
先生は来ないと分かっていただろうに、性懲りもなく期待したのだろう。ここはいつもよりマーサの青春の近い場所だから。
「ごめん」
「……、」
いつもであれば入れられるフォローの言葉はなく、マーサの瞳はまた窓へと戻る。相当に堪えているのだろう。
マーサもまた、思い知らされたのだ。死者と生者は交わらない。そんな当たり前の理を。思い知っては期待し、溺れる。救いの道がない限り、俺たちはどうしようもなく繰り返す。今日思い知ったところで、またマーサは期待し、先生の傍に侍るのだろう。例えば、視線の交錯といった、気のせいに過ぎないそんな交流たった一つで。
マーサに声をかけようと口を開いた俺は、マーサの表情一つでそれを飲み込んだ。マーサの見つめるのは、俺の後ろ、教室の扉。
アキヒロ。
微かに名を紡ぐマーサに、誰がいるかを理解する。振り向いた先には、正しく予期した人がいた。
「魚沼」
マーサの見えない先生は迷いなく俺の名を呼ぶ。怒ったように俺の腕を引いた先生に、マーサは今度こそ言葉を飲み込む。マーサの傷ついた顔が怖くて振り返ることができない。
「先生、どうしてここに?」
「流石にホームルーム中に抜け出されたら説教せん訳にいかないからなぁ」
「追いかけてきた」と言う先生に、ああと内心嘆息する。本当に追いかけて欲しかったのは俺ではなくマーサの方なのに。死者生者は、こんなにもうまくいかない。いくら死者に近いとは言っても、俺は生者で、マーサはどこまでも死者だ。
なんで。
呟きがまた聞こえる。
「なんでケーチなんだ」
ここにいるのに、なんで。
ひゅっと息を呑み黙り込んだ俺に、先生は不可解そうな顔をする。
「うお、ぬま?」
先生の声に応える余裕などなかった。振り返った先のマーサが、俺ににじり寄っていたからだ。
「……なぁケーチ。約束したよな」
「なに、を」
「アキヒロが、俺を見るまでって」
「……ああ」
「じゃあ、約束通り叶えてもらおうか」
不意に笑ったマーサは、ぞっとするほど色香を湛えていて。伸ばされた腕が俺の体にずぷずぷと飲み込まれていくのを、俺は呆然と見つめてしまった。
体の感覚が徐々に奪われる。そして。
マーサは悲願を達成した。先生は今やマーサを心配そうに見つめていた。俺の体を乗っ取ったマーサを。
「魚沼~。ぼーっとすんなー」
「せんせーよく見てますねぇ……」
マーサには気付かないくせに。
内心の皮肉を飲み込み、へらりと笑う。先生をじっと見つめていたマーサは、ゆっくりと俺を瞳に映した。真っ黒な瞳は俺をぎゅるりと飲み込む。底知れない黒の深さに、冷や汗が背筋を冷やした。マーサの口が、はくりと動く。
なんで。
音のない呟きは、確かに俺の耳に届いた。マーサはふらりと教卓から飛び降り、教室を出ていく。地に足を付け、生者のように振る舞うマーサは、どこか不安定さを感じさせた。唐突に開いた扉に、クラスメイトは顔をぎょっとさせる。つられるようにして立ち上がった俺に、隣の席の堀さんが声をかける。
「魚沼くん、何か見えたの?」
いたずらっぽく言う堀さんに冷静さを取り戻し、にやりと笑う。
「まさか。堀さんだって見えなかったでしょ」
肩を竦める俺に先生は座るよう促し、扉を閉める。首を傾げる先生に、残酷だなと小さく呟いた。見えない者は幸運だ。そして、知らない者は幸福だ。死者の思いを好きに解釈するのは見えない者の特権だ。死者を正しく理解する必要なんて、今を生きとし生ける者にある筈もない。結局こうして立ち上がってしまうのは、好き勝手に解釈することを許されない俺だけなのだ。
思い詰めた様子のマーサを一人にすることができなくて、俺はふらりと席を離れる。無造作に扉を開け、教室を出ていこうとする俺を先生は呼び止めた。
「おい魚沼っ! まだホームルーム終わってないぞ!」
「心臓痛くなったから保健室行きまーす」
「はっ? 心臓!?」
へらりと笑い扉を閉める。マーサの行く先には見当がついた。恐らく、俺とマーサが初めて会ったあの教室だろう。先生とマーサはかつてその教室で同級生として過ごしていたのだから。いや、正確には恋人か。
ご丁寧に自分の心を抉る思考に苦笑する。目当ての教室の扉を開け、中に入る。今は空き教室として捨て置かれている教室の窓際にマーサはいた。さながらあの日のように日を浴び薄く透けているマーサは、涙の膜の張った目を、静かにこちらに向けた。瞳に映るのは、落胆の色。
先生は来ないと分かっていただろうに、性懲りもなく期待したのだろう。ここはいつもよりマーサの青春の近い場所だから。
「ごめん」
「……、」
いつもであれば入れられるフォローの言葉はなく、マーサの瞳はまた窓へと戻る。相当に堪えているのだろう。
マーサもまた、思い知らされたのだ。死者と生者は交わらない。そんな当たり前の理を。思い知っては期待し、溺れる。救いの道がない限り、俺たちはどうしようもなく繰り返す。今日思い知ったところで、またマーサは期待し、先生の傍に侍るのだろう。例えば、視線の交錯といった、気のせいに過ぎないそんな交流たった一つで。
マーサに声をかけようと口を開いた俺は、マーサの表情一つでそれを飲み込んだ。マーサの見つめるのは、俺の後ろ、教室の扉。
アキヒロ。
微かに名を紡ぐマーサに、誰がいるかを理解する。振り向いた先には、正しく予期した人がいた。
「魚沼」
マーサの見えない先生は迷いなく俺の名を呼ぶ。怒ったように俺の腕を引いた先生に、マーサは今度こそ言葉を飲み込む。マーサの傷ついた顔が怖くて振り返ることができない。
「先生、どうしてここに?」
「流石にホームルーム中に抜け出されたら説教せん訳にいかないからなぁ」
「追いかけてきた」と言う先生に、ああと内心嘆息する。本当に追いかけて欲しかったのは俺ではなくマーサの方なのに。死者生者は、こんなにもうまくいかない。いくら死者に近いとは言っても、俺は生者で、マーサはどこまでも死者だ。
なんで。
呟きがまた聞こえる。
「なんでケーチなんだ」
ここにいるのに、なんで。
ひゅっと息を呑み黙り込んだ俺に、先生は不可解そうな顔をする。
「うお、ぬま?」
先生の声に応える余裕などなかった。振り返った先のマーサが、俺ににじり寄っていたからだ。
「……なぁケーチ。約束したよな」
「なに、を」
「アキヒロが、俺を見るまでって」
「……ああ」
「じゃあ、約束通り叶えてもらおうか」
不意に笑ったマーサは、ぞっとするほど色香を湛えていて。伸ばされた腕が俺の体にずぷずぷと飲み込まれていくのを、俺は呆然と見つめてしまった。
体の感覚が徐々に奪われる。そして。
マーサは悲願を達成した。先生は今やマーサを心配そうに見つめていた。俺の体を乗っ取ったマーサを。
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