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序幕 回顧
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「……ん、ああ良かった。来てくれないんじゃないかと思っていたよ、燈」
――――もう何度目かも分からない問いを、頭の中で呟く。あの時、自分の判断は正しかったのか、と。
さあさあと降り頻る雨の中、俺は立ち尽くす。
視線の先に映るのは、一人の男だ。頭に青く澄んだ角を二本生やし、金青の単に、京紫の狩衣を纏った優男。まるで女と見間違うくらいに長い髪を、緩く髪紐で一つに結った其奴は、確りとした男の低い声で、俺へとそう言葉を投げかけた。
「……斗爾」
その男の名前を口にすると、其奴――斗爾は、ただ静かににこりと笑みを浮かべた。
ポタリ、と、髪を伝って雨粒が地面へ落ちる。不自然なほどに、この周辺は静かだ。雨の音と、斗爾の声と、俺の吐く息遣いの音しか聞こえない。……その事実に、無性に腹が立った。
「……なんでだよ、お前……っ」
獣の気配も、鳥の囀りも、人の声も。ここには何も感じない。……いや、そんなはずはないのだ。だってここは、ここには、一つの村があったはずなのだから。
俺の言葉に、斗爾はきょとん、と目を瞬かせた。長い前髪のせいで、左目しか見えないけれど。青みを含んだ白いその瞳は、この状況でもなお、皮肉なくらいに澄んだ色をしていた。
「何故、って……可笑しなことを言うね、君は」
くすり、と、薄い唇を緩めてまた静かに笑う斗爾に、俺は言葉を詰まらせる。
違う。違うだろう。お前は、そんな風に笑う奴じゃなかったはずだ。
記憶の中にある眼前の男の、くしゃりと目元を緩ませ、少し困ったように眉を下げて笑うその笑顔が……まるで、雨に侵食されていくようにじわりじわりと滲んでいく。
「言っただろう、燈。人間は、私たち竜族が正しく管理する必要がある。不用意に甘やかしてはいけない。付け上がらせてしまうからね。だから、少しの過ちも見過ごしてはいけないんだ」
それが、竜族の責務なんだよ。そう言って笑う斗爾のその手からは、雨水によって、毒々しいまでの赤い液体が滴り落ちていた。
ああ、分かっていた。気付いていたさ。この森一帯に立ち込める血の臭いに、俺が気付かないはずがない。それでも、信じたくはなかった。
「責務、って……っ。お前の方こそ、何言ってんだよ! 人間は弱いから庇護するべきだって、そう言ったのはお前だろ⁉︎ 管理だのなんだの言ってる爺連中の考え方は、傲慢で嫌いだって、お前言ってたじゃねぇか!」
語尾が無意識に強まっていく。それは、怒りからくるものじゃない。おそらく、焦り。何よりも大切で、かけがえのない記憶、その全てが塗りつぶされてしまうことへの焦りだ。
『なぁ、燈。人は脆く、儚い。それは確かだ。……でも、彼らは時に利他的に、自分ではない誰かの為に、行動を起こすことができる。それは、効率主義者の多い私たち竜族には、あまり見られない心理だ。私は、それがとても尊いことだと思う。だからこそ、私たちが守らないといけない。……そう思わないかい?』
それは、斗爾とまだ出会って間もない頃。他でもない斗爾自身が、そう言った。弱きを助け、強きを挫く。それが、正しい力の使い方っていうものさ、と、そう諭すように。
「お前が……っ! お前が、それを言うのかよ……っ」
記憶の中のお前は、優しく笑う。その顔が、俺は何よりも好きだった。今だって、ずっと。
そんな俺の心情を知ってか知らずか、斗爾は俺の言葉に、仕方がないといった様子でふぅと息を吐いた。その仕草は、表情は、今までにも幾度となく俺へと向けられた表情だ。……それも、俺の好きな顔だ。
けれど、お前はその表情で、あの頃とは全く違う言葉を紡ぐ。
「燈……あの頃は、私もよく分かっていなかったんだ。人間の醜悪さ、欲の深さ。それが、今なら身に染みて理解できる。なるほど、だからこそ龍翁様方は、人間を管理しようと躍起になっていたんだ、ってね」
以前のように、斗爾は俺を諭すよう、ただ静かにそう語る。一切の躊躇いや罪悪感を感じさせないその言葉に、俺の心臓はどくどくと忙しなく脈動する。
――――なぁ、斗爾。あの日、もし俺がお前を外に連れ出さなければ、お前はこうならなかったか? それか、もっと自分のことばかりじゃなくて、お前自身の話を聞いてやれば良かったのか? ……いや、そもそも、俺がお前の森に足を踏み入れなければ良かった?
――――そうすれば、お前はこうならずに済んだんじゃないかって、そんな無意味な考えが、頭に過っては消えていく。
さあさあと、雨は静かに降り注ぐ。斗爾が降らせているのだろうその雨は、この状況には不釣り合いなほどに、ただ、優しく辺りを包んでいる。全てを洗い流すように、大地へ、自然へと還すように。
「……お前が言う、過ちって、なんだ? お前が……、他でもないお前が……っ! こんなやり方で命を摘み取らねぇといけないようなこと、本当にここの奴らがやったってのかっ?」
自分の胸に翻る、この感情は何だろう。怒り? 恐れ? それとも、悲しみ?
分からない。分からないけれど、それでも、今のお前を放っておいてはいけないと、それだけは分かるから、なおも語りかけた。
…………けれど。
「そうだよ」
返ってきた答えは、俺の欲しい言葉ではなかった。単調で、それでいて一切心のこもっていない肯定。その瞳は、ひどく冷え切っていた。
「彼らは罪を犯したんだ。それも、私にとっては捨ておけない、ね。……けれど、それは君には関係のないことだよ」
加えて斗爾は、そうやって、最後には俺を突き放した。そう言った口元はにこやかな笑みを湛えていたけれど、視線はふい、と逸らされてしまい、斗爾の心の内を読むことは叶わなかった。
――――何が正解だったかなんて分からない。そもそも、正解があったかも分からない。…………それでも。
――――俺は、問い掛ける。俺自身と……他でもないお前に、今も問い続けている。
***
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