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束の間の帰宅

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 ハル君は、何も言わず、私を家まで送った。だいたいの場所を、爽香経由で杏奈ちゃんから聞いたのだろう。気持ちを整理してた私が、それに気づいたのは、近所の公園に来てようやくだった。

 残りの道案内をしながら、家に寄らないかと誘ったが、彼は首を横に振った。となると、私にできることは「気を付けて帰って」と言葉をかけることくらいだ。

 離れ離れは気が気でない。私一人が何かできるとは思わないけれど、何もしないなんてもっとできない。
 車を見送りながら、いざとなったら、周りを敵に回してでも、ゴーストの事を暴露するんだと誓った。
 
 わずかに照らされた夜の玄関と廊下は、私が小さかった頃の光景と同じだ。つまり、その頃は、夜にトイレや寝床に一人で行くのが怖くて、走ってこの景色を通り過ぎていた。今日も、走るまで行かなくとも、急ぎ足で光の差し込むリビングに向かう。扉の奥から漏れる声に、みんなの顔を見たいという思いは強くなった。

 眩い光の向こうには、いつもと変わらぬ顔が勢ぞろいだ。皆で杉のテーブルを囲み、夕食をとっていた。

「おっ、玲禾帰ってきたか!その服どうしたんだ?」パパが第一声を上げる。服の事は無警戒だったから、汚れて着替えたことをそれとなく言った。

「楽しかった?」ママによる簡単な質問に、力強くうなずいた。行きのドライブとか、海辺での遊びとか楽しかったのは事実だ。
 パパは、テレビ正面の特等席で、それは良かった、とご満悦になった。

「どこに行ってたの?」爽香が言った。遅刻作戦のこともある。喧嘩両成敗の精神から、追及の色は少し弱かった。
「海よ」素気なく言ったけれど、海という答えがそうはさせない。「この時期なのになんで海?」「海ではどうしたの?」彼女は質問攻めを始めた。
 私は、嘘を考える余裕もなかったし、事実を必要最低限にまとめて耐えしのぐ道を選んだ。

 ただ、一向に終わりは見えない。ドライブ中の会話とか、ハル君の運転とか、車やゴーストのことを想い出させる質問に移行していく。全身に先程の感覚が刻み込まれ、苦しみ悶えた先で「そんなことまで覚えてないわよ」と声を荒げるしかなかった。
 
 爽香もママもパパも、デートが上手くいかなかったのだと捉えただろうけれど、そっとしておいてくれれば、それで十分だった。

 一人は不安だし、できるだけリビングにいようと思った。この状況で、食も進むわけもないし、みんなの中で自分の時間を作りたかった。ママが洗い物も済ませていたから、何もすることが無い。気まずいのを我慢して、テレビの近くに座った。

 ‘街角の若者が親から教えてもらった名曲を紹介する’という音楽番組の企画らしい。パパは懐かしの音楽にご機嫌になり、「ママ、この曲覚えてるか?」って一人で盛り上がるけれど、ママは逃げるようにお風呂に向かった。
 曲が終わるたびに、若者のインタビューが差し込まれ、タイミング悪く、車をバックにしたカップルが映った。今日の私とハル君に重ね合わせるなという方が無茶で、自分の部屋に逃げ込んだ。

 家にいても、ゴーストのニュースは一切聞かないし、本当に私とハル君だけの問題になるかもしれない。近隣の海辺で何か災害があったと、ママやパパが耳にしていれば、私に何か訊いてくるはずだった。

 空白の時間には、悪い方に想像力を発揮してしまう。どうせならと、例の件を思い出したくなくて、私達の憂鬱が晴れた明日を想像した。

 ニュースでゴーストせめて竜巻が取り上げられ、世間が対策を打ち始める。私とハル君でメディアの高層ビルに行き、決定打となる情報を提供する。大理石の部屋で、白髪で背の高いおじさんに表彰される私達。そしていつも通りの毎日いや、まだ始まったばかりの新しい毎日を過ごす。

 どんどん明るい妄想は、広がっていっていき、ゴールを迎えると虚しさと共に全てが崩れ去った。
 完璧な未来は見るのも、崩れるのも一瞬だけど、悪夢はまだ漂い続ける。
 ゴーストのことを忘れようとすればするほど、その鮮明な記憶がよみがえり、私の身を蝕んだ。ゴーストは、こうして私が一人でいる時を狙っている。窓の外に広がる暗闇に何もない、とこの目で確認しないではいられなかった。

 日が明けるまでの長い間は、真っ暗の中一人で耐えなければならない。部屋を暗くして外と同化すれば、一続きの空間になり、ゴーストがおびえる私を見つけ出すような気がする。あの忌々しい口に吸い込まれたり、冷気の肌にがんじがらめにされ、見知らぬ場所に連れ去られる。

 何かあった時のために、家族に伝言を残したり、助けを求めたりしたいのに、連続する奇妙な出来事に何の相談もできない。私だって、もし爽香から同じ体験を聞いても、信じられないと思うし、きっとみんなもそうだ。

 しっかり者のママでも、ちょっと抜けてるパパも、お調子者の爽香も、現実離れした告白に、私がおかしくなったとしか思わないだろう。
 今日だけでなく、ゴースト事件が解決するまで毎日、私はこの部屋で毎晩一人うなされることになる。未解決のまま終わり、今日のような夜が無限に続くかもしれない。

 振り返ると、昨夜がハル君のデートの期待と不安に揺れながら眠りに落ちるという、幸せの象徴で、これから続く悪夢への暗示に思えてならなかった。

 不吉な予感に支配された私は、逃げ込むようにハル君宛のメールを開いた。今の私を分かってくれるのは彼しかいない。きっとハル君も一人で不安なはずだから、私も彼の力になれる。

‘玲禾です。やっぱり、一人だと不安でどうしたらよいか分からない。早くハル君に会いたい。駅のデッキの上で待ってる。私は今すぐ向かいます。’

 急いで打つと、返事を確かめるまでもなく、上着を羽織って外に飛び出した。家にいてもどうしようもないし、早く彼に会いたいしで、外を出るのにためらいもなくなっていた。
 私の気持ちを押し付けるだけで、向こうの都合はお構いなしになった。けれど、彼なら分かってくれるはずだ。
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