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涙のキッス

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 なるべく明るい所を選んだ。酒場通りを周りに目もくれず、駆け抜ける。真っ暗な空に似合う、ゴーストは忘れて、ハル君と私の姿を思い描いた。

 エスカレーターを小走りで、デッキに上がる。今朝の待ち合わせ場所、電光広告板の前で再び足を止めた。足元だけ肌寒いのは、下がグレーのパジャマのままのせいだ。

 電光広告板から少し離れた所は、黒い空がそのまま堕ちて影になっている。これなら、公共の場のど真ん中でも、駅からの人は、私に見向きもせず通り過ぎる。
 かといって、竜巻が海沿いや平原と結びつき、駅前とは結び付かないように、ゴーストもここには来ないはずだ。大勢の前で自分の存在を知らしめて、わざわざ寿命を縮めるようなことはしないだろう。

 人の列が伸びるエスカレーターから交番までグルッと見回しても、彼の姿は見えない。
 私の家のほうが駅から近いうえに、走ってきたわけだから、当たり前ではあるけれど、迷子の子供みたいに止められなかった。正面では、地上からデッキの上までそびえるモノトーンなコンクリートの壁がそんな私を見下ろしている。

 彼を信じているとはいえ、不安も消えない。
 それもそのはず、来てくれるかどうか返事を確認して来なかった。そして彼が来たとして、二人でどうすれば良いのだろうか。ずっと二人でいれれば、最善だけれど、一緒に泊まるのは想像もつかないし、現実のものではないことくらい分かっていた。彼と会う前から、別れが近く、暗闇の中に一人で戻ることは確定していた。

 不思議なことが起こった。そうやってハル君の意識が遠のいていくのに、さっきまでコンクリートの壁だったデパートの脇から彼が近づいてくる。目新しい白の上着が薄暗闇の中、光っていた。彼の非現実的な美しさは、この世界に説得力を与えている。

「ごめんね、一人にしちゃって。大丈夫?」
「うん、ちょっと寂しくなっただけだから。ハル君は悪くないの」
「じゃあ、家で何か見たってわけじゃないよね?」
「うん。ただ、その・・・忘れられなくて」すべてをぶちまけたいのに言い淀んでしまう。「何か」というのはゴーストのことで、当たり前のようにそんな会話をしてる自分達が信じられなかった。
「うん」彼はうなずくと、私の手を握って引っ張った。

 私達は空中デッキを線路に沿って歩き、デパートの別館に接合してる石のモニュメントの横に腰を下ろした。モニュメント上の時計を背にし、右手にはのっぽな交番の頭が飛び出している。
 デパートは閉まっているし、交番も近いしで、誰一人として私たちの空間には入ってこない。じっくり話すには良いけれど、現実に向き合わなければいけないから、怖さもあった。

「結局、杏奈にも親にも言い出せなかったんだ」ハル君が開口一番に白状する。
「私もよ」
「自分でも信じられないくらいだし、聞き流されるだけだよなって」
「うん」
「だけど、やっぱ、家族と相談すべきなのかな」ハル君は、ためらいがちに言った。
「でも、一旦言おうと決めても、いざ皆を目の前にすると、諦めてしまうの」
「みんなじゃなくていい、誰か一人にでも、言えれば楽になるかも。近いところに分かってくれる人がいた方がいい」
「ハル君と私は近くないの?」ハル君の言葉に、ママの顔が浮かんだけど、素直に受け止められなかった。

「もちろん、俺たちは近いさ。でも、ずっと一緒に入れるわけじゃないだろ?」
「まるで会いたくないみたいに聞こえる」
「そんなことない、ずっと一緒だよ」彼は手を重ねてきた。絹のような滑らかな肌触りに自然と力が入る。彼は私の抵抗を無視して、もう片方も捕まえると、最後にぎゅっと握りしめた。
 今まで抱え込んでいたものと一緒に、涙があふれる。ハル君のたくましい肩に寄り掛かった。
「約束してくれる?」
「もちろんだよ」ハル君は私の肩を抱き寄せる。体が彼の腕の中にすっぽり収まった。できるだけ胸に寄り添いながら、彼を見上げた。
 涙でにじんだレンズには、鏡のように、とろんとした瞳が映っている。私にも、彼を自分と同じようにする力があったなんて信じられない。彼は表情で何やらサインを送ると、顔を近づけて・・。

 目をぎゅっとつむり、唇でハル君の甘酸っぱさを必死に受け止める。全身を力ませたけど、甘美で濃厚な味に、私のすべてが崩れ落ちるのを悟った。

 公共の場にしては、破廉恥が過ぎる。近くに誰もいなかったらいいな、誰も見てなければいいなという願いは、まぶたを開いた瞬間に吹き飛んでいた。
 目の前にあるはずの黒い空は消え去って、青と銀の炎がうごめいている。大きな波に飲み込まれたみたいに、私のすべてをつつみ込んで、宙ぶらりんになった。

 逃げ道はどこにもない。いつの間にかハル君の感覚もなくなっていて、代わりに身に覚えのある冷気が私を突き抜けた。裸の魂は、冷たい炎の激流に身を任せるだけだ。あまりの早さに、自分は同じ場所にとどまって、周りだけ光のように通り抜けていく感覚になる。
 風になびかれた洗濯物みたいに体はパタパタいって、ついに耐えられなくなると、破片になって解き放たれた。
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