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水飛沫

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 校長の贈り物は、お気に入りのお菓子だけではない。メッセージカードも一緒だ。表紙の左下にはミズミア・ウォーターズの紋章型の花が咲いている。
 花びらの一枚が、立体的に飛び出しており、自らを引っ張るよう、誘いかけているも同然だった。
 私が誘いに乗ると、カード一面がシールのように剥がれた。下にはメッセージがある。

 ‘見事な戦いっぷりだったそうだ。湖庵二校の校長として、また双穴そして湖庵の民の一人として、改めて感謝の意を表したい。本来なら健康回復とご多幸をも願う所かもしれんが、その必要はないだろう。この手紙から顔を上げ、周りを見渡せばわかる…’

 手紙から顔を上げた。目の前には、戸惑うお母さんがいる。首を振って、続きに入った。

 ‘君がどこに、誰といるかという事じゃ。答えは身近な所にある。君はいつも通りの光景の中にいる。心の中には、遠くの家族、友もおる。
 彼ら彼女らが、君の足元、周りに土台を築いてくれる。そこに道を敷くのは君自身だ。まぁ、これはワシと似たところじゃが、君は茨の道を選ぶ傾向にあってだな…困難にぶつかりがちだ。自分が病室にいた(いる)わけだから、今は身に染みてわかるだろう。
 そんな君の行いは、多くの人を救ったり、喜びを与える一方で、近くにいる人たちを不安にするかもしれない。そこで、最後に一つ教えておきたい事がある。これまで、校長先生らしく何か教えてあげる事があまりなかったから丁度良い。
 基本的に、放課後のゲル練は無断でやってはいかん。必ず許可を取るように。今までは、意欲ある新入生の意思を尊重し、私が上手い事やったが、これからはそうはいかんぞ。たしかに、今回は君がスパイを倒したから賞賛されたが、必ずしも事が上手く行くとも限らん。無謀な行いが正当化されるのは、結果を残した時のみじゃ。それが毎回続く事が訳ではないと理解できる者ならば、もう少し節度を持って行動するじゃろう。
 間違えて欲しくないのは、ワシが一律に思いつきの行動を批判してる訳ではない事だ。向こう見ずと、勇気は紙一重だからな。しかる時に、マリア氏とも話し合い反省しなさい。’

 校長が私達の秘密を知っていた事にびっくりで、文の追跡が一時停止した。

 観客席の裏に隠れている所を見られたと思うと、冷や汗が出る。最後の方で真剣に怒っていないと分かり、とりあえずは救われた思いがした。
 この告白で、校長も自分が身近な誰かのうちの一人と伝えたかったのかもしれない。私達の行為を見逃したところに、校長の本音が出ている。

 追伸が二つ添えられていた。
 説教の後に追伸があれば一つは見たくない内容だと予想し、その通りになった。反省文の催促ではなかったが、もっと悪いと言えるかもしれなかった。

‘追伸一 近々、老木に寄るかもしれない。ちょっと用があってな。ワシも大人の対応をするから、その時はよろしく頼むのう。

追伸二 この手紙は他の人に見られたくないかもしれない。目の前の人には特にじゃ。私も嫌がらせをしたい訳ではない。意思を示せば、全てを水に流す事にした。花びらを元に戻す。これだけだ。ではまた会おう。’

 もう一つの追伸は、今の私に、とっておきの物だった。これ以上お母さんに心配をかけたくないし、お叱りも手紙だけで充分だ。カードの裏にめくった花びらを、急いで表に戻した。

 何が起きるか考える暇もなかったけれど、手紙の文字通りになったから、その必要もなかった。手紙は私の手からするりと抜け落ち、床に落ちた。水しぶきが飛んだ。
 ウォーターズの花びらも、紙自体もなくなり、ちょっとした水たまりに変わっていた。手紙は水になり、他の人が見ることはできなくなったのだ。

 母だけでなく、私も唖然とした。頭の中には北別府校長のすました顔だけが浮ぶ。

 ただ、校長の狙い通りに、手紙の消失とともに、不満や不安も消えた訳ではなかった。
 お母さんに手紙の内容を聞かれて、ごまかす為に水浸しの処理を買って出るしかなかった。
 それに、校長は老木に来るという。彼はお母さんの前で直々に説教するかもしれない。そしたら、お母さんまで加担してきて、立ち直れなくなるだろう。

 実は校長が来ると嫌なだけではないから、逃げ出すわけにもいかなかった。話し合いは、ハル君の事に触れ機会でもある。校長には、彼の功績や現状を知って欲しかった。

「ねぇ、お母さん。明るいうちに、ハル君のお見舞いに行かない?」まずは私が彼の事を一番に知らなきゃだめだ。‘明るいうち’というのは、どんよりした曇り空で説得力を欠いたけれど、お母さんは頷いた。

 いつもの病室に、彼はいない。
 代わりにベッドが二つあり、それぞれに、包帯を巻いた男が仰向けになっている。顔だけが入り口を向き、別人である事がはっきりした。

「失礼しました」
「朝比奈君は下の階に移動したわ」頭を下げ、部屋を出ようとした時、後ろから聞き覚えのある声がした。「役場で負傷でされた患者さんは、地上病院にも、来てるのよ」

 紗江先生は、沈んだ顔で言ってから、瞼をパチクリ動かし私を見た。
 誇らしさと照れ臭さが、表情に出ないよう努めた。

「すごいじゃない!その顔は噂は本当って事ね」紗江女史は元ハル君の部屋の扉が閉まるのを待って、肩や頭をポンポンしてくれた。
「もちろんです」
「良くやったわ。無謀な行為すれすれだったとしてもね。もう無理したらダメよ」
「はい」
 手放しに褒めてくれる訳じゃないのは、自分でも納得がいった。幼馴染と二人だけで戦場に殴り込み、一歩間違えれば死んでいたかもしれない。練習をしたのもマリアとふたりだし、頼りにした情報も、もう一人の幼馴染このみからの物だ。幽谷の間に張った一本の綱を渡り切ったようなものだった。
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