夜に咲く花

増黒 豊

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第五章 伊東と近藤

多摩の月

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 山南の死について、章をまたいで描くことは、あえてせぬ。
 死とは、ひとつの点であり、連続するものではないからだ。その死の与えるささやかな、あるいは大いなる波は、それを受けた人の中で育つものである。
 ゆえに、これからの彼らの進んでいく道を、生きる者としての彼らの生命の燃焼を通じて描く上に、山南の死をまだしつこく描くならば、主題の重複となり目障りこの上なく、筆者はそれを好まぬからだ。

 さて、月が変わり、三月になると、かねてから計画されていた屯所の移転が行われた。更にその引っ越しが落ち着いた四月にはまた改元があり、元号は慶応となった。幕末史において、あるいは日本史において、最も速く流れたであろう時間のことを、どうか目を離さずに見守って頂きたい。考えてもみよ、慶応四年とは、明治元年である。今からほんの百六十年ほど前のことでしかなく、元号という単位で考えるならば、あとに続くそれは大正、昭和、平成、令和しかない。以前にも同じようなことを述べた記憶があるが、バブル経済の頃のあなたは、このようにしてインターネットを用いて小説を読むことを想像しただろうか。二十一世紀を迎えたばかりの頃のあなたは、今のようにスマートフォンに話しかけて操作をしたり、ものごとを調べたりすることを想像しただろうか。五年前のあなたは、今あなたがそうして今のあなたとして過ごしていることを想像しただろうか。そして、今から四年後、今の政府も国家機構も価値観も社会風俗も全く別のものに置き換わり、別の時代、別の文化の中で生きている自分を、想像できるだろうか。
 同じように、久二郎や土方らも、そのようなことを想像できるはずはない。ただ、屯所の移転の忙しさに揉まれ、市中の警護をし、今日という日を、己の全てを駆使しながら生きていた。つまり、彼らは我々と同じである。
 我々と同じといえば、たとえば土方はこれより少し後、洋服を着用し、髷を落とす。そのことは有名な写真からも明らかであるし、坂本龍馬はブーツを履き、水虫にもなっていたという。もっと言うなら、筆者の祖父母が生まれるわずか四年前まで斎藤一と永倉新八は生きていた。ある隊士は筆者の通っていた小学校で用務員をしていたというし、とにかく、彼らは、時間的にも、それがもたらす連続性のある言語や価値観まで、我らのすぐ近くにいるのだ。
 彼らの操る言葉も、現代の我々が使うものと、ほとんど変わらぬ。無論、この時代にはなかった言い回しや概念を用いさせぬように筆者は注意してはいるが、例えば、今、土方は、我々と同じような言い回しを用い、
「てめぇ、何やってんだ。つべこべ言ってねェで、とっとと用意をしてこい」
 と、ぐずぐずしている藤堂に、怒鳴りつけている。藤堂がぐずぐずしているのは、また江戸へゆかねばならぬが、好き合った女である花を京に残してゆくのが嫌だと駄々をこねているからである。
 北辰一刀流の伊東、藤堂の顔の広いことを利用し、隊士を江戸で募る。土方は、どうせ、また伊東が自らの息のかかった者を増やそうとしているだけさ。と鼻で笑っていた。それを聞き、冷静な意見を述べる山南は、もういないが。
 実際、隊士は不足している。京、大坂は道場が少ない。それに、用いるならやはり東国者だ。という近藤の意向もあって、江戸での隊士募集が実現することとなった。
 背景には、長州に対して幕府が軍を発するかもしれぬから、というのもある。そうなれば、頭数がいる。軍の大きさは、戦場での配置に関わる。それはすなわち、新撰組の活躍に関わる。だから、山南ならそうしたかもしれぬ、という選択を、土方はした。
 ただし、近藤は残り、土方が江戸へゆく。伊東がおかしなことをせぬよう見張るためでもある。この旅路に斎藤と久二郎を伴ったことでも、そのことが分かる。
 何かあれば、伊東を斬ることも考えていたかもしれぬ、ということだ。べつに、この旅路の中で斬るつもりであったわけではない。しかし、伊東の腹の内に、おかしなものがあるなら、それを彼らに見せておくことで、いざというときに忠実で優秀な実行者となるであろう彼らに、躊躇なく剣を振るわせることができる。その時期がいつのことなのか、土方にも分からない。だが、土方の、山南の、そして隊士一人一人の新撰組である。それを、伊東が土足で踏みにじったその瞬間、土方は伊東を斬ると決めていた。
 彼らは、江戸への旅に出た。正確には、彼らが江戸へ着いたか、あるいはまだその途上であるかの時期に改元があったわけだが。
 伊東らの顔を使って隊士を募ると、驚くほど多くの者が応募してきた。土方に言わせれば骨の無い連中ばかりであったが、頭数にはなると思える者は採用した。それらの者と同じかそれ以上の人数を、彼と近藤の故郷である多摩から集めた。当時、流派の同門意識というのは、強い。北辰一刀流の者どもが徒党を成して新撰組の中枢を簒奪さんだつしにかかることのないよう、いわば多摩党のようなものを作っておくつもりであった。

 久二郎は、初めての江戸である。京とは違う賑わい方である。京都に暮らす筆者が実際に東京に行ったときに感じたことを引くなら、京都が「ざわざわ」しているのに対し、東京は「がやがや」している。今は、京都も東京も、その土地で生まれていない人も多く暮らすから多少は異なるかもしれぬが、当時も、概ねこのようなものであったろうと思う。
 京と江戸では、言葉はもちろん、食い物の味も、土の色も違う。京の土は赤っぽいのに対し、江戸の土は、黒っぽい。久二郎の生まれた土地は、地理的には京の方が近いながら、やや東国の感が強い美濃と飛騨の境だから、食い物の味は懐かしみを覚えるものでもあった。
 だが、多摩の方まで足を伸ばすと、もっと懐かしい。久二郎の生まれた村ほど貧しくはなく天領の地だけあってむしろ豊かで、山が険しいこともないが、美しい緑と地を潤す多摩川に育まれた土地のおかしみは、京では決して味わえぬものである。人も、いい。久二郎は、はじめて、土方の姉のという穏やかな女性にも会ったし、その夫で、新撰組結成当初は資金の援助などで多大な協力をしたという佐藤彦五郎なる長者にも会った。
 彼らの前にいる土方は、別人のようであった。彼を子供の頃と変わらぬように迎える姉に羞恥はにかむ顔も、彦五郎に対する丁重かつ親しみのある態度も、久二郎は初めて見た。
「ここで、新撰組は、生まれたのですね」
 宿にしている佐藤屋敷で、月を肴に多摩の酒を飲みながら、久二郎は、土方、藤堂、斎藤と方を並べている。
「ああ。近藤さんがいて、井上の源さんがいてな。総司なんか、生意気な餓鬼だったさ。あの頃は、今、こうして偉そうな顔をして多摩に戻り、隊士を選り分けているなんて、思いもしなかったさ」
 と土方は、多摩の夜の空気がそうさせるのか、述懐的なことを言う。それも、京ではほとんど見られぬ姿である。久二郎の知る土方はもっと峻烈で、前のみを見て、振り返ることをしない。顧みる、いや、省みる必要のないほどに、為すべきことを定め、それを実行することのできる男だった。
「この馬鹿たれの平助もそうだったが、江戸を出るときだって、俺たちは何にも持ってなかった。それが、どうだ。今や泣く子も黙る新撰組だぜ」
「思えば、俺たち、大きくなったもんですね」
 藤堂も、月を見上げて感慨深げにした。
「馬鹿。お前は、昔ッから変わりゃしねェよ。思い付きばっかりで考え無しの、馬鹿野郎だ」
「ひどいな。土方さん」
 声を上げて、笑った。斎藤も、不器用に笑っている。
「多摩から江戸に移ってよ、仕様もない貧乏な道場だったが、あれが、俺たちの始まりなんだ」
「土方さんは、情が厚い」
 斎藤が、口を開いた。
「珍しいな。土方さんを副長、としか言わない斎藤が、土方さん。だなんて」
 藤堂が、斎藤の杯に、酒を注いだ。
「今宵は、そう呼ぶのが、筋というものだ」
 それを、ツイと飲み干した。
「そう言われると、副長でいい、と言いたくなるんでしょうね。ひねくれ者の、歳さんは」
 と久二郎が茶化すのに、
「馬鹿」
 とだけ答え、土方はまた笑った。月に照らされる影が短くなった頃、四人は眠ることにした。伊東は、多摩には随行していない。江戸府中に泊まっている。彼は土方や近藤の土臭いバックボーンになど興味はなく、今ごろ新たに募った北辰一刀流の後進の者どもに、同じ月の下で大層な訓示を垂れているのであろうが、伊東を最大限に擁護するならば、もしかしたら、彼なりに気を遣ったのかもしれない。
 このとき、新たに加わった隊士は、実に五十名を越える。それらを引き連れ、江戸を出立するとき、土方は、彼らに、短い言葉をかけた。
「これより、京に向かう。誠の旗が、そこに立っている。いや、違う。お前たち一人一人の心に、誠の旗を、立てにゆく」
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