夜に咲く花

増黒 豊

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第八章 戦乱のはじまり

淀千両松

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 結局、一月五日の朝、新撰組は、伏見の南方、淀に布陣した。本来であれば、征夷大将軍徳川慶喜の命により、多くの藩兵がここへ増援に駆けつけるはずであった。
 しかし、来ぬ。待てど暮せど、どの藩も来ぬ。どの藩も、俄かに速度を速め旋回する時代に戸惑い、日和見を決め込んでいるのだ。しかし、前日に新政府に朝廷より下された錦の御旗は、それらを多いに混乱させた。例えば、譜代の藩でもかなり有力な彦根藩。大河ドラマでもお馴染みの井伊直政が再興した井伊家が治める藩である。この時代であれば、桜田門外の変で有名な大老井伊直弼も輩出している譜代中の譜代である。
 これすらも、朝廷――すなわち薩長など――の要請に従い、新政府に参加した。あり得ぬことである。たとえば、与党の官房長官が離党し、野党に参じるようなものである。それは諸藩を大いに動揺させ、もはや徳川家は頼むに足らずとこぞって官軍へと参じる藩が相次いだ。
 そのことを、現場の最前線にいる新撰組は知らぬ。彼らは、ただ待った。増援の代わりに来たのは、進軍してくる薩摩軍。小太鼓とラッパを鳴らしながら、進軍してくる。それに、菊の紋の入った旗。土方が、散開を命じた。淀藩というところは、桂川と宇治川が合流するデルタ地帯にあり、起伏がきわめて少ない。この地を豊臣秀吉が寵愛する茶々に与え、城を建ててやったことは有名である。
 歴史に詳しい者が、あれは錦の御旗だと声を上げた。それはなんだと他の者が言う。歴史に詳しい者が、南北朝の頃の話を用い、あれを掲げることが帝の軍の証であるのだと解説した。新撰組の者は、もちろん尊王思想が強い。一瞬、迫りくる洋装の軍団に、どうしてよいのか戸惑う空気が流れた。
「散開」
 土方の号令で、皆、はっとした。
「しかし、副長、錦の御旗が」
「それが、どうした」
「あの旗に手向かえば、我々は、賊軍になります」
 久二郎は、土方が、その隊士を殴り飛ばすか、下手をすれば斬るのではと思ったが、違った。大いに、笑った。
「あの旗を恐れ、負ければ、俺たちは賊軍になる。恐れず、勝てばよいだけのことだ」
 隊士達の顔に、決意の眼差しが蘇った。
「忘れるな」
 土方が、抜刀する。
「旗なら、俺たちにも、ある」
 薩摩の兵。新撰組を見定め、太鼓とラッパを止め、散開した。二列に分かれ、前列は折敷と呼ばれる座った姿勢での射撃姿勢を取り、後列は立射の姿勢を取った。
「散開。遮蔽物に、身を隠せ」
 と言っても、ろくな遮蔽物がない。七連装のミニエー銃から、弾丸が激発された。それで、五、六人が死んだ。はじめに錦の御旗、と口にした者も、胸を貫かれ、痙攣している。
「急げ!」
 新撰組は、まばらに散らばる木陰に散った。いちおう、銃も砲も少しは配備はされている。銃は、先に述べた旧式のゲベール銃。砲は韮山砲にらやまほうというもので、これも薩摩の装備には劣る。
「これは、まずい」
 土方は、傍らの井上に言った。
「退却した方が良さそうだな、源さん」
 細い木に、容赦なく弾が襲い掛かってくる。
「退却しようにも、おとといのように、上手く身を隠すことができません」
 井上が、苦笑した。ちょっと、いつもと笑い方が違った。
「源さん?」
 土方は、とっさに井上の手を取った。血で、濡れていた。
「まさか。撃たれたのか」
 井上は、答えの代わりに、もう片方の手もどけ、腹に滲む血を見せた。土方は、言葉も出ない。井上は、土方の肩に、そっと手を添えた。
「だめだ。それはだめだ、源さん」
 井上は、それには答えず、立ち上がった。
「撃たれた者は、いるか。立てる者は、いるか」
 声を、張り上げた。それに応じて、撃たれはしたが、まだ動けるという状態の者があちこちで立ち上がった。
「淀城までの道を、拓く」
 淀藩は、一応、旧幕府側である。こうなった以上、後方に布陣している会津藩と一緒に、淀城にまで後退するしかあるまい。そこへ逃げるためには、この何もない街道をゆかねばならない。すわ退却と街道に身を乗り出したが最後、ミニエー銃の掃射を受け、全滅するであろう。それだけは、避けなければならない。
 井上は、人柱になるつもりだ。この先、あの旗を、勝ち取れるようになるために。
「やめろ、源さん」
「副長には、言っていませんでしたね」
 井上は、穏やかに笑った。
「おととい、丘の上に斬り込むとき、隊士に、私は言ったのです」
 木を背にしたまま、すっと、前を見た。冬の雲が、ぽつんと浮かんでいた。
「死ぬためではない。示すために、ゆくのだと」
「源さん」
 土方が、うつむいた。その顔を再び上げたとき、鬼の副長のそれが、あった。
「退却する」
 誰もが、涙を流した。土方だけは、泣いていない。鬼とは、泣かぬものなのだ。
「会津の陣まで、駆けろ」
 新撰組は、一斉に、駆け出した。それを守るようにして、十人ほどの傷ついた者が、薩摩軍の射線上に躍り出た。
「突っこめ!一人も、生かすな!」
 井上の怒号を、土方も、久二郎も、皆、背中で聞いた。渾身の力で明日に向かって駆ける自分の足音に、乾いた発砲音が、重なった。
「新撰組六番組組長、井上源三郎、参る!」

 井上。駆ける。
 左右の者が、弾丸にやられ、倒れた。
 一人、また一人。
 井上も、何発かやられた。
 負けぬ。
 死なぬ。
 倒れぬ。
 新撰組が駆けていったのと、逆の方向へ、井上は駆けた。
 もう、数歩で、刀が届く。
 刀さえ、届けば。
 振りかぶった。
 それで、斬れる。
 示すために、駆ける。
 その少し後、銃声の止んだ静寂の音を聞きながら、井上は、暗い視界の中、誠の旗を、見つめていた。
 それだけが、見えていた。
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