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美しき故国②
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二、
朝明と己煥を乗せ福州を発った船は、行きのような荒天に見舞われることもなく順調に帰路をたどっていた。
「加子たちに聞いたが、あと二日もあれば港に着くそうだ」
朝から船の表を見回り様子見をした朝明は、薄暗く湿った空気が立ち込める船室に戻ってきた。それを聞いた己煥は相変わらずその顔を白くさせながらも、伏していた瞼を持ち上げ、普段は切れ長で冷やかに見えがちな目元を緩ませる。
「一昨日出たから……五日か」
冬と違って風を待つ必要がない夏は、大風さえなければ本来一週間ほどで帰国できるのだ。もうすぐ小さくも美しい母国の港に入り家族が待つ屋敷に帰れるのだと思うと、だいぶ気が楽である。さすがに一日中この密閉された船室で寝ているわけにもいかず、己煥は横たえた体を起こしてみる。
ちょうどそのとき、船室の下からなにかが崩れ落ちるような物音がした。ふたりで梯子から下を覗き込むと、己煥らと同じ年の頃の小柄な青年が、「待て」だの「こらっ」だの声を上げながら暗い船底でなにかを追いかけまわしている。
「なにをやっているんだ聡伴」
聡伴―――梅永繁こと永波間筑登之親雲上は朝明同様、書記の副官としてこの船に乗っている中流士族の子息である。
朝明が船底に降りてみると、大小の行李や木箱がごった返すなか聡伴が尻餅をついており、その足元では金の両目を光らせた茶色の毛玉がちょこまかと動き回っている。 なにか獲物でも仕留めたあとなのか、口の周りを丁寧に舐めまわしていた。その隙をつき、静かにしゃがみ込んで持ち上げてみると、これまで暴れまわっていたとは思えないほど腕のなかで大人しく丸まった。
「私がいた船室からここまで散々逃げ回った癖に……朝明様の腕のなかではすっかり借りてきたなんとやら、ですね……城下の娘たち同様に人を見る目がある 」
「一応此奴は雄のようだぞ」
「選り取り見取りでよろしいじゃないですか。それより己煥様の体調はいかがです?従人の林宗信とやらが福州の商人からやたらに薬を仕入れていたので船酔いに効きそうなものを少し分けてくれと頼んだんですがね、さっぱり断られまして」
聡伴が猫を抱えて突っ立っている朝明を横に、崩れ落ちた行李や周りに散らばった細々とした積荷をてきぱきと積み上げなおしていると、上で休んでいた己煥が降りてきた。
「探してくれていたのか。だいぶ治まってきたし、あと二日もすれば港に着く……かたじけない」
「とんでもございません己煥様!大事に至らず安心しました。旅役のあいだお二人にはずっと助けられっぱなしでしたから、私もお力になれたらと思ったのですが……」
「次に期待しておこう」
「ははっ、まったく朝明様は誠に無理難題をおっしゃいますねぇ。”次”があるように功績か運を上げられれば、の話ですね。さて……今日のぶんのお水、取って参りますよ、己煥様。あぁ朝明様、此奴の面倒もう少し見てていただけますか?」
猫の処遇を朝明に丸投げした聡伴は、あっという間に水を汲みに船の最後尾へと消えていった。
しばらくすると、大人しくしていた猫は両の後ろ足をばたつかせ、ぬめるように朝明の腕を抜け出して地面に着地すると、今度は積荷の間からはみ出している組紐とじゃれはじめた。
「待て!」
「このっ……」
申し訳ないと思いつつも、体調が万全ではない己煥は壁に寄りかかり見守ることに徹していた。
紐とのじゃれ合いは加速し、結局朝明も聡伴のようにつかみどころのない柔らかい身体を捕らえるのに苦戦することになり、 あたりの床はすっかり小箱やら紙やらで元通りに散らかっている。 ふたりが散乱した積荷を片付けはじめる頃には、 事の元凶は動き疲れたのか、口に赤い組紐を咥えたまま床に転がってぐるぐると喉を鳴らしていた。
なんらかの封の役割をしていたであろう組紐の先を、ふと目で追ってみると、大きな積荷の隙間に蓋のずれた朱漆の小箱が落ちていた。己煥が箱を拾い上げ蓋を取ると、艶やかな薄桃色の切り身が三切れ、窮屈そうに――― 先程の大乱闘の犠牲になったのであろう―――箱の端に収まっている。
「へぇ、肉か?旨そうだな」
それなりの厚みがあるにもかかわらず蜻蛉の羽のように透きとおり、目が眩むような光を放つその一枚一枚にはすこぶる脂が乗っていることがわかる。船旅で削がれた食欲が戻ってくるような気すらした。 いっぽうで、あまりにも活きの良さげなその様は、口に入れるにはいささか恐縮で躊躇われる。それでも不思議と湧いてくる食欲を唾液と一緒に喉へ追いやった。
「いや、肉にしては……」
「なあ己煥、腹が減ったな」
この船に積み込まれた荷物は、ほとんどが大陸の皇帝に謁見した礼として下賜されたものだが、己煥らをはじめ使節たちが現地で私的に買い入れた物品も含まれている。公的に取引された品々は清冊―――物品一覧に記載されて事細かに確認されるが、私貿易についてはその限りではない。
「馬鹿なことを考えるな朝明」
少しくらい積荷が減っていたとしても、
「出航から何日経っているかわかるだろう?」
慌ただしく福州を発った我々は、
「煮てもいないし塩に漬けてすらいないんだ」
たかが小さな箱ひとつになんか、構ってはいられない。
「朝明、おそらくこれは肉ではない」
清冊に書かれていない箱の中身なんて、誰も知らない。
「たったの三切れでは、腹も満たされまい」
出航から三日も経てば誰がなにを船に持ち込んだかなど、きっともう誰にもわかりやしないのだ。
立ち尽くす己煥が手に持つ箱から切り身のひとつをつまみ上げ、宙にかざしてみる。日の入らない船底で、薄桃色の肉は美しくその身を七つの色に光らせていた。
なあ己煥―――腹が減らないか?
傍らの猫がなにかの味を思い出したかのように、舌なめずりをはじめた。
朝明と己煥を乗せ福州を発った船は、行きのような荒天に見舞われることもなく順調に帰路をたどっていた。
「加子たちに聞いたが、あと二日もあれば港に着くそうだ」
朝から船の表を見回り様子見をした朝明は、薄暗く湿った空気が立ち込める船室に戻ってきた。それを聞いた己煥は相変わらずその顔を白くさせながらも、伏していた瞼を持ち上げ、普段は切れ長で冷やかに見えがちな目元を緩ませる。
「一昨日出たから……五日か」
冬と違って風を待つ必要がない夏は、大風さえなければ本来一週間ほどで帰国できるのだ。もうすぐ小さくも美しい母国の港に入り家族が待つ屋敷に帰れるのだと思うと、だいぶ気が楽である。さすがに一日中この密閉された船室で寝ているわけにもいかず、己煥は横たえた体を起こしてみる。
ちょうどそのとき、船室の下からなにかが崩れ落ちるような物音がした。ふたりで梯子から下を覗き込むと、己煥らと同じ年の頃の小柄な青年が、「待て」だの「こらっ」だの声を上げながら暗い船底でなにかを追いかけまわしている。
「なにをやっているんだ聡伴」
聡伴―――梅永繁こと永波間筑登之親雲上は朝明同様、書記の副官としてこの船に乗っている中流士族の子息である。
朝明が船底に降りてみると、大小の行李や木箱がごった返すなか聡伴が尻餅をついており、その足元では金の両目を光らせた茶色の毛玉がちょこまかと動き回っている。 なにか獲物でも仕留めたあとなのか、口の周りを丁寧に舐めまわしていた。その隙をつき、静かにしゃがみ込んで持ち上げてみると、これまで暴れまわっていたとは思えないほど腕のなかで大人しく丸まった。
「私がいた船室からここまで散々逃げ回った癖に……朝明様の腕のなかではすっかり借りてきたなんとやら、ですね……城下の娘たち同様に人を見る目がある 」
「一応此奴は雄のようだぞ」
「選り取り見取りでよろしいじゃないですか。それより己煥様の体調はいかがです?従人の林宗信とやらが福州の商人からやたらに薬を仕入れていたので船酔いに効きそうなものを少し分けてくれと頼んだんですがね、さっぱり断られまして」
聡伴が猫を抱えて突っ立っている朝明を横に、崩れ落ちた行李や周りに散らばった細々とした積荷をてきぱきと積み上げなおしていると、上で休んでいた己煥が降りてきた。
「探してくれていたのか。だいぶ治まってきたし、あと二日もすれば港に着く……かたじけない」
「とんでもございません己煥様!大事に至らず安心しました。旅役のあいだお二人にはずっと助けられっぱなしでしたから、私もお力になれたらと思ったのですが……」
「次に期待しておこう」
「ははっ、まったく朝明様は誠に無理難題をおっしゃいますねぇ。”次”があるように功績か運を上げられれば、の話ですね。さて……今日のぶんのお水、取って参りますよ、己煥様。あぁ朝明様、此奴の面倒もう少し見てていただけますか?」
猫の処遇を朝明に丸投げした聡伴は、あっという間に水を汲みに船の最後尾へと消えていった。
しばらくすると、大人しくしていた猫は両の後ろ足をばたつかせ、ぬめるように朝明の腕を抜け出して地面に着地すると、今度は積荷の間からはみ出している組紐とじゃれはじめた。
「待て!」
「このっ……」
申し訳ないと思いつつも、体調が万全ではない己煥は壁に寄りかかり見守ることに徹していた。
紐とのじゃれ合いは加速し、結局朝明も聡伴のようにつかみどころのない柔らかい身体を捕らえるのに苦戦することになり、 あたりの床はすっかり小箱やら紙やらで元通りに散らかっている。 ふたりが散乱した積荷を片付けはじめる頃には、 事の元凶は動き疲れたのか、口に赤い組紐を咥えたまま床に転がってぐるぐると喉を鳴らしていた。
なんらかの封の役割をしていたであろう組紐の先を、ふと目で追ってみると、大きな積荷の隙間に蓋のずれた朱漆の小箱が落ちていた。己煥が箱を拾い上げ蓋を取ると、艶やかな薄桃色の切り身が三切れ、窮屈そうに――― 先程の大乱闘の犠牲になったのであろう―――箱の端に収まっている。
「へぇ、肉か?旨そうだな」
それなりの厚みがあるにもかかわらず蜻蛉の羽のように透きとおり、目が眩むような光を放つその一枚一枚にはすこぶる脂が乗っていることがわかる。船旅で削がれた食欲が戻ってくるような気すらした。 いっぽうで、あまりにも活きの良さげなその様は、口に入れるにはいささか恐縮で躊躇われる。それでも不思議と湧いてくる食欲を唾液と一緒に喉へ追いやった。
「いや、肉にしては……」
「なあ己煥、腹が減ったな」
この船に積み込まれた荷物は、ほとんどが大陸の皇帝に謁見した礼として下賜されたものだが、己煥らをはじめ使節たちが現地で私的に買い入れた物品も含まれている。公的に取引された品々は清冊―――物品一覧に記載されて事細かに確認されるが、私貿易についてはその限りではない。
「馬鹿なことを考えるな朝明」
少しくらい積荷が減っていたとしても、
「出航から何日経っているかわかるだろう?」
慌ただしく福州を発った我々は、
「煮てもいないし塩に漬けてすらいないんだ」
たかが小さな箱ひとつになんか、構ってはいられない。
「朝明、おそらくこれは肉ではない」
清冊に書かれていない箱の中身なんて、誰も知らない。
「たったの三切れでは、腹も満たされまい」
出航から三日も経てば誰がなにを船に持ち込んだかなど、きっともう誰にもわかりやしないのだ。
立ち尽くす己煥が手に持つ箱から切り身のひとつをつまみ上げ、宙にかざしてみる。日の入らない船底で、薄桃色の肉は美しくその身を七つの色に光らせていた。
なあ己煥―――腹が減らないか?
傍らの猫がなにかの味を思い出したかのように、舌なめずりをはじめた。
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