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珠玉の友②
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二、
「どういうことだ、林宗信」
そう問われた男―――林宗信は、ただ黙って途方に暮れるしかなかった。
煤けた竈を構える土間で、彼の目の前に鎮座するのは、確かに一切れの肉だった。
厚みに反して蜻蛉の羽のように透き通り、血の気のない膜のようなそれは、切り口から眩い七色の光を零し、こちらを誘うようにその身にのった脂を見せつけてくる。
「私は、薬を、病に効く薬を見繕って来いと、そう言ったはずだ」
身体が弱った母と妹に効くような、唐物の薬を。
「向こうの薬師が、万病に効くのだと……私は四片も仕入れたのです!けれども帰帆の途中で何者かに……」
少々値は張ったが、母と妹のためである。町医者は多くとも、百姓がかかれる手腕の者など程度が知れている。せっかく清へ行く機会に恵まれたのだからと、時間はかかってしまったが当地の商人をとおして評判の良い薬屋を縁付けてもらったのだ。蓄えていた銀子はすべて飛んでしまったが、宗信は滅多に手に入らない万病に効く「仙肉」だという魚の肉を持ち帰ることができた。
「そういうことを訊いているのではない!」
兄は宗信の手に握られていた包丁を奪い取り、目の前の美しい一切れの端を引っ張るように抑えながら荒々しく刃を下ろす。鈍く大きな音を立てて、刃がまな板にぶつかった。指先で摘まめばかたちを崩してしまいそうな薄い肉は、当然、力任せに振り下ろされた刃物であればたちまち真っ二つに切り裂かれ―――
「これは、なんだ、と、訊いているのだ、宗信!」
四片仕入れたはずの「仙肉」を収めた漆の小箱は、乱雑に積荷が詰め込まれた船底のなかで何者かに荒らされてしまったようで、封をしたはずの紐は解け、肉の切り身はたったの一片しか残っていなかった。本当は、母と妹、そして健康ではあるが何かしらに効くであろうと期待して、兄と己のぶんまで大銀を叩いて買い付けたのだ。ところが一片しか肉は残らず、母は娘である妹に食わせようと譲ってきかない。
「切り分けてしまえばよいのだと……思ったのです」
清で買い付けた薬は、この「仙肉」だけではなかったが、この半年ですっかり底をついてしまっている。母と妹の具合はいっときは快方に向かったかと思いきや、この冬の寒さでまたもや臥せったままの日々が続いていた。そもそも、塩にも漬けられておらず、おそらく生であろうこの肉こそ、持ち帰ってすぐに食わせようと思ったのだ。普通の肉ではないから日持ちがするのだとはいわれたが、半信半疑であったから。たとえ一切れしか残されていなかったとしても―――
「―――切り分けてしまえばよい、だと?これを?」
刃とまな板に挟まれた肉切れは、色がなかったとは思えないほどのおびただしい鮮血を滴らせていた。けれども、兄が怒鳴り散らしているあいだに、その血はだんだんと吸い込まれるように裂けた両の肉片をめがけて戻っていく。そうしているうちに、真っ二つにわかれた切り口が、するすると綴じていった。
兄は台所の隅に立てかけていた刀を抜き、顔を青くさせながらやみくもにまな板のうえを切りつける。まな板が刀傷にまみれ、兄の顔からはすっかり色が抜けてその手から刀が滑り落ちるころになっても、たった一片の肉は、誰の手にも触れられたことがないかのような無垢な輝きをたたえて、板の上に横たわっていた。
唯一、宗信の着物の裾にはねた一滴の赤い汁だけが、ほのかに桃のように色を薄めながらもそこにとどまっていた。
この異形の肉は、もう半年ものあいだ、初々しく鮮やかな見目を保っている。
「どういうことだ、林宗信」
そう問われた男―――林宗信は、ただ黙って途方に暮れるしかなかった。
煤けた竈を構える土間で、彼の目の前に鎮座するのは、確かに一切れの肉だった。
厚みに反して蜻蛉の羽のように透き通り、血の気のない膜のようなそれは、切り口から眩い七色の光を零し、こちらを誘うようにその身にのった脂を見せつけてくる。
「私は、薬を、病に効く薬を見繕って来いと、そう言ったはずだ」
身体が弱った母と妹に効くような、唐物の薬を。
「向こうの薬師が、万病に効くのだと……私は四片も仕入れたのです!けれども帰帆の途中で何者かに……」
少々値は張ったが、母と妹のためである。町医者は多くとも、百姓がかかれる手腕の者など程度が知れている。せっかく清へ行く機会に恵まれたのだからと、時間はかかってしまったが当地の商人をとおして評判の良い薬屋を縁付けてもらったのだ。蓄えていた銀子はすべて飛んでしまったが、宗信は滅多に手に入らない万病に効く「仙肉」だという魚の肉を持ち帰ることができた。
「そういうことを訊いているのではない!」
兄は宗信の手に握られていた包丁を奪い取り、目の前の美しい一切れの端を引っ張るように抑えながら荒々しく刃を下ろす。鈍く大きな音を立てて、刃がまな板にぶつかった。指先で摘まめばかたちを崩してしまいそうな薄い肉は、当然、力任せに振り下ろされた刃物であればたちまち真っ二つに切り裂かれ―――
「これは、なんだ、と、訊いているのだ、宗信!」
四片仕入れたはずの「仙肉」を収めた漆の小箱は、乱雑に積荷が詰め込まれた船底のなかで何者かに荒らされてしまったようで、封をしたはずの紐は解け、肉の切り身はたったの一片しか残っていなかった。本当は、母と妹、そして健康ではあるが何かしらに効くであろうと期待して、兄と己のぶんまで大銀を叩いて買い付けたのだ。ところが一片しか肉は残らず、母は娘である妹に食わせようと譲ってきかない。
「切り分けてしまえばよいのだと……思ったのです」
清で買い付けた薬は、この「仙肉」だけではなかったが、この半年ですっかり底をついてしまっている。母と妹の具合はいっときは快方に向かったかと思いきや、この冬の寒さでまたもや臥せったままの日々が続いていた。そもそも、塩にも漬けられておらず、おそらく生であろうこの肉こそ、持ち帰ってすぐに食わせようと思ったのだ。普通の肉ではないから日持ちがするのだとはいわれたが、半信半疑であったから。たとえ一切れしか残されていなかったとしても―――
「―――切り分けてしまえばよい、だと?これを?」
刃とまな板に挟まれた肉切れは、色がなかったとは思えないほどのおびただしい鮮血を滴らせていた。けれども、兄が怒鳴り散らしているあいだに、その血はだんだんと吸い込まれるように裂けた両の肉片をめがけて戻っていく。そうしているうちに、真っ二つにわかれた切り口が、するすると綴じていった。
兄は台所の隅に立てかけていた刀を抜き、顔を青くさせながらやみくもにまな板のうえを切りつける。まな板が刀傷にまみれ、兄の顔からはすっかり色が抜けてその手から刀が滑り落ちるころになっても、たった一片の肉は、誰の手にも触れられたことがないかのような無垢な輝きをたたえて、板の上に横たわっていた。
唯一、宗信の着物の裾にはねた一滴の赤い汁だけが、ほのかに桃のように色を薄めながらもそこにとどまっていた。
この異形の肉は、もう半年ものあいだ、初々しく鮮やかな見目を保っている。
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