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2章:青空とリンゴの木
福が転じて禍のもと?
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夜間警らや遅番の人たちへの給仕をし、一息ついたあとは私たちの食事の時間になる。リュカは早々に夕食を平らげると、キアンに言われた魔力操作の練習をするために自室へ戻っていた。
残った数人のメイド達と一緒にテーブルを囲む中で話題に上ったのは、すでに周知されていたらしい私の昇進についてだった。
「ほんと、怒涛の昇進だよね」
「自分でもびっくりしてる。まさかこんなことになるなんて」
「その余裕ぶった感じも妬ける。マジで妬けるわ~」
「おめでとうって言うべきなんだろうけど、悔しすぎて言いたくないのよねぇ」
「ええー、そこは素直に言ってよ。食後のデザートにネクタリーヌが出てくるかもしれないよ?」
「あっ、この度はおめでとうございます! デザート用に新しい取り皿持ってきますねっ」
彼女たちが手放しに祝福せずに、こうしてちょっとしたおふざけを交えているのは、たぶん先輩たちを差し置いて昇進したことを私が変に気を遣わないよう、逆に気遣ってくれているんだろう。スープに浸した黒パンを飲み込みながら、本当に私は人に恵まれたなあ、と素直に嬉しく思った。
「いやでもさあ、よく考えてもみてよ。あのクレティエンの下につくんだよ? それはそれで嫌じゃない?」
「確かに。ミセス・ロジェの女神待遇に甘やかされてきたのに、これからはクレティエンの厳しい指導を一日じゅう受けなくちゃいけなくなるのは、ちょっとねー」
今の会話でも分かる通り、クレティエンを敬遠する使用人は多い。
仕事ぶりはスマートで、エレーヌ様に付いて貴族同士の社交の場に赴くこともあるためか、立ち居振る舞いはかなり洗練されている。そんな彼女に憧れる子がいてもおかしくないはずだけれど、つりあがった眉と目尻、とがった鼻先や薄い唇はかなりきつい印象だし、間違ったことをすれば厳しく注意することもあって、どうしても怖がられてしまうようだ。
かくいう私も、クレティエンの自分も他人も厳しく律しようとするところが苦手だし、独特な上から目線の話し方も好きじゃない。好きじゃないけれど……。
ロジェに厨房での仕事を指示されたことを伝えた時の、動揺したクレティエンの表情がふと頭に浮かんだ。常に冷静な完璧人間と思っていた彼女の弱い側面とでもいうのだろうか、秘密を垣間見た気がして、親近感と言うほどではないものの、私はどうもこれまでとは違った感情を彼女に抱き始めているらしかった。
「泣きたい時はいつでも別館においで! 私たちがなぐさめてあげるから!」
「ハハ……うん、ありがとう」
「お返しに、私たちを本館のゴージャスな部屋に招待してくれると嬉しい!」
「私はいいけど、ミスター・ラスペードやミセス・クレティエンにめちゃくちゃ怒られる覚悟はあるの?」
「……ない」
「ない、ね」
じゃあダメだね、と皆で笑い合っていたところへ、少し遅れて仕事を終えたらしいマノンがダイニングルームへ入って来た。
「あっ、マノン。おつかれ……」
声を掛けたけれど、マノンはちらっと私たちの方に目をやっただけで、黙って奥の階段を早足で駆け上がって行ってしまった。
疲れて反応することすら億劫だったのか、それともちゃんと答えてくれていたのを私が聞き逃しただけなのか。どちらにしろ、いつもとは違った様子のマノンが気になって階段の方を見つめていると、1人がため息をつきながら、やっぱりね、と呟いた。
「ニナ、今はそっとしておいた方がいいよ。アンタが格上げされるって聞いて、あの子かなりショック受けてたから」
「え……」
「マノンね、レディーズ・メイドになることを目指してたんだよ。その前段階のチェンバーメイドの枠はずっと空いたままだったし、自分がぜったいモノにするんだって、ここ1年がんばってたらしくて」
早くいい人をつかまえて幸せな結婚をしたい、そんな風にいつも言っていたマノン。私はずっと、彼女は仕事をやめて家庭に入りたいと考えているんだと思っていた。
「その様子からして、知らなかったみたいだね」
切り分けられたネクタリーヌのお皿に目を落としながら、小さくうなずく。
「まあ、仕方ないよ。マノンはニナのこと、ずっとライバル視してたもん」
「……うそ」
「やだ、それも気付いてなかった? マノンって案外、役者なんだねぇ」
「マノンは基本的に人と争ったり競ったりっていうのが苦手なタイプだから、そういう感情はニナに対しては絶対に見せないようにしてたんじゃないかな」
そこまで聞いて、私はとてつもなく申し訳ない気持ちでいっぱいになった。だって、私がチェンバーメイドに抜擢されたのは仕事ぶりが認められたからじゃない。口封じに応じた結果、甘い汁を吸わせてもらった、ただそれだけのことに違いないのだ。私が今日あんな事件を起こさなければ、これまで本当にちゃんとがんばったマノンが認められて、夢を叶えられたかもしれないのに。
「もー、落ち込まない! こういうのはね、持ってる人間が持っていくものなのよ」
肩を強めに叩かれる。ちょっと乱暴な励ましに愛想笑いすら返すことができず、私は項垂れたまま小さくため息をついた。
反撃しなきゃ自分がどうなっていたかも分からないのだし、正当防衛のつもりで起こしたあの行動は間違っていなかったと思う。でもそれが招いた結果に傷つく人がいるという事実には、やっぱり落ち込まされてしまうわけで。
「私、どっちかっていうと持ってないタイプの人間だと思うんだけどなぁ」
「持ってんだって! だから選ばれた、それでいいじゃない。それとも何、マノンがやりたいみたいだから私辞退しますぅ~、って言うわけ?」
それはさすがにできない、と私は首を横に強く振った。マノンのことをバカにしているようにしか見えないし、余計に彼女を傷つけることになってしまう。
「じゃあもう胸張って。上級使用人になった自覚をもちなさいよ。アンタは明日から私たちより格上の人になるんだから、使用人の鑑として働いてもらわないと!」
皆の言うことももっともだ。現実を変えられないならそれを受け入れるしかない。
ただそれを前向きに捉えられるようになるには、まだ時間がかかりそうな気がした。
◇
夕食を済ませ片づけをしてから、私たちは早々にそれぞれの部屋に戻った。マノンは結局、食事をしにダイニングルームに降りてくることはなかった。きっと今は私の顔も見たくないだろうし、声だって聞きたくないだろう。そう思って、麻紐で編んだ手提げにお土産のネクタリーヌを入れ、マノンの部屋のドアノブに掛けておいた。
ギヨーム様のご客人を変人だと言ってみたり、盗み聞きした話を平気で言いふらしたり、不真面目な一面はあったけれど、マノンは仕事に関してはいつも人一倍がんばっていたと思う。人より動きが遅いからと、いつも誰よりもはやく起きて仕事の準備を始めていたし、残業があればすすんで買って出ていたりもした。ブランモワ邸に来てから私がいちばん長く一緒に過ごし、会話をしたのは、指導に当たってくれたマノンのはずなのに、私は彼女のことをちゃんと見ようともしていなかった。
マノンが私に自分の夢を話さなかったのは、私をライバル視していたからじゃなく、私が誰とも真剣に向き合う気がないことを見抜いていたからだ。
行きずりの、きっとすぐにいなくなる人間。それはある意味正解で、リュカのためにも落ち着いた場所での定住をしなくちゃいけないと考えていた半面、このブランモワ邸にも長く留まるつもりはなかった。
だって、どうせいつか誰かが私を貶めるに決まってる。財産も尊厳も、私が持っているわずかなものすら根こそぎ奪おうとするヤツが出てくる。だからいつでもすぐに逃げ出せるように、って……。
「あれ……」
自室に入ると、明かりはついておらず真っ暗だった。
てっきりリュカがまだ魔力制御の練習をしていると思っていたけれど、もしかしてもう寝てしまったのだろうか。そう思ってベッドの方へ視界を巡らせようとした時、開いた窓の前でぼんやりたたずんでいる小さな背中が目に入った。
「リュカ。明日は学校は休みかもしれないけど、色々とやることがあるんだから。今日は早めに寝てくれないと」
「……」
「リュカ、聞いてる?」
リュカは答えない。夜風に髪をなびかせながら、他に何をするでもなくただひたすら突っ立っている。
「何してるの?」
微動だにせず窓の外を見ているらしいその様子はちょっと不気味で、心配になった私はリュカをそっと覗き込みながらそう声を掛けた。
「ねえ、リュカ」
「キアンがいる」
リュカはこちらを振り返ることなく、じっと敷地を囲う壁の方を睨みつけた。驚いて私も同じ場所に目を向けたけれど、ジューンベリーの木が静かに揺れているだけで、人影すらも見えない。
「どうしてキアンがいるって分かるの?」
「魔力操作の練習をしてたら何か気配がして、きのう教えてもらったやり方で探ってみたんだ。あの魔力は間違いなくキアンのだよ」
どういうメカニズムで見えない人間がいることが分かるのか、私にはさっぱり理解できない。でもリュカがそう言うのなら、きっとあの壁の向こうに誰かがいるのも、それがキアンであるということも間違いはないと思う。何か急用ができてギヨーム様に会いに来たのかもしれないけれど、こんな時間帯に来ても約束がなければ邸内には通してもらえないことは知らないのだろうか。
「待って。何か聞こえる」
リュカが窓枠に手をかけ、前のめりになりながら耳を澄ました。
「ああもう、イライラするなあ。何でこんな弱い波動にするんだよ」
そう呟いて短く息をつくと、リュカは目を閉じた。今の言葉から察するに、かなり意識を集中させないと拾えないくらい、その音は小さなものらしい。眉間に皺を寄せ、ときどき首を傾げたりしながらも、リュカはキアンが放っているらしい音を聞いていた。
吐息の音すら立てるのを憚られるくらいの静寂がしばらく続いたあと、リュカがゆっくりとまぶたを開いて私の方を見上げた。
「あした、朝から工房に来いって。……行ってもいいかな」
「えっ、朝から? いやでも明日は……」
部屋の掃除や荷物をまとめるのを手伝ってほしかったけれど、額に汗をにじませてこちらをじっと見つめるその様子が何だかすごくいじらしくて、
「分かった。いいよ、行っといで」
気付けばそんな風に答えてしまっていた。
リュカは、やった、と小さく呟いてガッツポーズをすると、急に私にぎゅっとしがみついた。
「ちょっ、なになに、どうしたの?」
驚きと嬉しさが入り混じったせいで上ずってしまいそうになる声をなんとか抑えながらそう尋ねると、リュカは至って真面目な顔をして再び私を見上げた。
「ニナ、動かないでね」
「え」
「怖くても我慢して。声を出しちゃダメだよ」
「何それ、どういう」
「キアンがニナと話したいんだって。僕が目印になるから、ニナは何もしないで」
だからそれは一体どういう意味なのかを聞こうとした瞬間、私の足元を何かが掬うような感触がしたかと思ったら、足が床からゆっくりと離れ始めた。
「っ!? わっ、えっ、うそっ」
「騒がないで、外に出るところを見られたらマズイでしょ」
確かに、使用人が仕事以外の理由で外出していい時間帯はとっくに過ぎているけれど。
「リュカ、ねえ、外に出るってどういう意味?」
「大丈夫、ちゃんと掴んでるよ」
リュカが私に対するものではない返答をして、私から離れた瞬間だった。私の体は足元で漂っていた妙な感触に一気に包み込まれ、そのまま窓の外へと運び出されたのだ。
ここから落ちれば、打ち所が悪ければ命だって危ない。そんな高さで少しの間ふわふわと浮遊した直後、急に凄いスピードで壁の向こう側へと引き寄せられた。
冷たい夜気が、まるで頬を削るように撫でていく。目をぎゅっとつむり、何とか声を出すまいと必死に口を抑えながら抗いようのない力に耐えていると、そのスピードは次第にゆっくりとしたものに変わっていった。
たぶん、それはほんの一瞬の出来事だったんだろうけれど、悠久の時を経たと勘違いするほどの恐怖を私は感じていたらしい。
「私、今どうなってる?」
完全に動きが止まったのを見計らって、目を閉じたままそう尋ねる。
「えっ、ああ……ええと、そうだな。俺に抱きついている」
「ごめん、すぐに離れたいんだけど、ちょっと足に力が入らないんだ。ホントごめん」
「いい。ゆっくりして行け」
おうちに遊びにきたんじゃないんだけど、そんな風に思いながらも冷静に指摘することすらできず、私はしばらくキアンにしがみついたまま体を震わせた。
残った数人のメイド達と一緒にテーブルを囲む中で話題に上ったのは、すでに周知されていたらしい私の昇進についてだった。
「ほんと、怒涛の昇進だよね」
「自分でもびっくりしてる。まさかこんなことになるなんて」
「その余裕ぶった感じも妬ける。マジで妬けるわ~」
「おめでとうって言うべきなんだろうけど、悔しすぎて言いたくないのよねぇ」
「ええー、そこは素直に言ってよ。食後のデザートにネクタリーヌが出てくるかもしれないよ?」
「あっ、この度はおめでとうございます! デザート用に新しい取り皿持ってきますねっ」
彼女たちが手放しに祝福せずに、こうしてちょっとしたおふざけを交えているのは、たぶん先輩たちを差し置いて昇進したことを私が変に気を遣わないよう、逆に気遣ってくれているんだろう。スープに浸した黒パンを飲み込みながら、本当に私は人に恵まれたなあ、と素直に嬉しく思った。
「いやでもさあ、よく考えてもみてよ。あのクレティエンの下につくんだよ? それはそれで嫌じゃない?」
「確かに。ミセス・ロジェの女神待遇に甘やかされてきたのに、これからはクレティエンの厳しい指導を一日じゅう受けなくちゃいけなくなるのは、ちょっとねー」
今の会話でも分かる通り、クレティエンを敬遠する使用人は多い。
仕事ぶりはスマートで、エレーヌ様に付いて貴族同士の社交の場に赴くこともあるためか、立ち居振る舞いはかなり洗練されている。そんな彼女に憧れる子がいてもおかしくないはずだけれど、つりあがった眉と目尻、とがった鼻先や薄い唇はかなりきつい印象だし、間違ったことをすれば厳しく注意することもあって、どうしても怖がられてしまうようだ。
かくいう私も、クレティエンの自分も他人も厳しく律しようとするところが苦手だし、独特な上から目線の話し方も好きじゃない。好きじゃないけれど……。
ロジェに厨房での仕事を指示されたことを伝えた時の、動揺したクレティエンの表情がふと頭に浮かんだ。常に冷静な完璧人間と思っていた彼女の弱い側面とでもいうのだろうか、秘密を垣間見た気がして、親近感と言うほどではないものの、私はどうもこれまでとは違った感情を彼女に抱き始めているらしかった。
「泣きたい時はいつでも別館においで! 私たちがなぐさめてあげるから!」
「ハハ……うん、ありがとう」
「お返しに、私たちを本館のゴージャスな部屋に招待してくれると嬉しい!」
「私はいいけど、ミスター・ラスペードやミセス・クレティエンにめちゃくちゃ怒られる覚悟はあるの?」
「……ない」
「ない、ね」
じゃあダメだね、と皆で笑い合っていたところへ、少し遅れて仕事を終えたらしいマノンがダイニングルームへ入って来た。
「あっ、マノン。おつかれ……」
声を掛けたけれど、マノンはちらっと私たちの方に目をやっただけで、黙って奥の階段を早足で駆け上がって行ってしまった。
疲れて反応することすら億劫だったのか、それともちゃんと答えてくれていたのを私が聞き逃しただけなのか。どちらにしろ、いつもとは違った様子のマノンが気になって階段の方を見つめていると、1人がため息をつきながら、やっぱりね、と呟いた。
「ニナ、今はそっとしておいた方がいいよ。アンタが格上げされるって聞いて、あの子かなりショック受けてたから」
「え……」
「マノンね、レディーズ・メイドになることを目指してたんだよ。その前段階のチェンバーメイドの枠はずっと空いたままだったし、自分がぜったいモノにするんだって、ここ1年がんばってたらしくて」
早くいい人をつかまえて幸せな結婚をしたい、そんな風にいつも言っていたマノン。私はずっと、彼女は仕事をやめて家庭に入りたいと考えているんだと思っていた。
「その様子からして、知らなかったみたいだね」
切り分けられたネクタリーヌのお皿に目を落としながら、小さくうなずく。
「まあ、仕方ないよ。マノンはニナのこと、ずっとライバル視してたもん」
「……うそ」
「やだ、それも気付いてなかった? マノンって案外、役者なんだねぇ」
「マノンは基本的に人と争ったり競ったりっていうのが苦手なタイプだから、そういう感情はニナに対しては絶対に見せないようにしてたんじゃないかな」
そこまで聞いて、私はとてつもなく申し訳ない気持ちでいっぱいになった。だって、私がチェンバーメイドに抜擢されたのは仕事ぶりが認められたからじゃない。口封じに応じた結果、甘い汁を吸わせてもらった、ただそれだけのことに違いないのだ。私が今日あんな事件を起こさなければ、これまで本当にちゃんとがんばったマノンが認められて、夢を叶えられたかもしれないのに。
「もー、落ち込まない! こういうのはね、持ってる人間が持っていくものなのよ」
肩を強めに叩かれる。ちょっと乱暴な励ましに愛想笑いすら返すことができず、私は項垂れたまま小さくため息をついた。
反撃しなきゃ自分がどうなっていたかも分からないのだし、正当防衛のつもりで起こしたあの行動は間違っていなかったと思う。でもそれが招いた結果に傷つく人がいるという事実には、やっぱり落ち込まされてしまうわけで。
「私、どっちかっていうと持ってないタイプの人間だと思うんだけどなぁ」
「持ってんだって! だから選ばれた、それでいいじゃない。それとも何、マノンがやりたいみたいだから私辞退しますぅ~、って言うわけ?」
それはさすがにできない、と私は首を横に強く振った。マノンのことをバカにしているようにしか見えないし、余計に彼女を傷つけることになってしまう。
「じゃあもう胸張って。上級使用人になった自覚をもちなさいよ。アンタは明日から私たちより格上の人になるんだから、使用人の鑑として働いてもらわないと!」
皆の言うことももっともだ。現実を変えられないならそれを受け入れるしかない。
ただそれを前向きに捉えられるようになるには、まだ時間がかかりそうな気がした。
◇
夕食を済ませ片づけをしてから、私たちは早々にそれぞれの部屋に戻った。マノンは結局、食事をしにダイニングルームに降りてくることはなかった。きっと今は私の顔も見たくないだろうし、声だって聞きたくないだろう。そう思って、麻紐で編んだ手提げにお土産のネクタリーヌを入れ、マノンの部屋のドアノブに掛けておいた。
ギヨーム様のご客人を変人だと言ってみたり、盗み聞きした話を平気で言いふらしたり、不真面目な一面はあったけれど、マノンは仕事に関してはいつも人一倍がんばっていたと思う。人より動きが遅いからと、いつも誰よりもはやく起きて仕事の準備を始めていたし、残業があればすすんで買って出ていたりもした。ブランモワ邸に来てから私がいちばん長く一緒に過ごし、会話をしたのは、指導に当たってくれたマノンのはずなのに、私は彼女のことをちゃんと見ようともしていなかった。
マノンが私に自分の夢を話さなかったのは、私をライバル視していたからじゃなく、私が誰とも真剣に向き合う気がないことを見抜いていたからだ。
行きずりの、きっとすぐにいなくなる人間。それはある意味正解で、リュカのためにも落ち着いた場所での定住をしなくちゃいけないと考えていた半面、このブランモワ邸にも長く留まるつもりはなかった。
だって、どうせいつか誰かが私を貶めるに決まってる。財産も尊厳も、私が持っているわずかなものすら根こそぎ奪おうとするヤツが出てくる。だからいつでもすぐに逃げ出せるように、って……。
「あれ……」
自室に入ると、明かりはついておらず真っ暗だった。
てっきりリュカがまだ魔力制御の練習をしていると思っていたけれど、もしかしてもう寝てしまったのだろうか。そう思ってベッドの方へ視界を巡らせようとした時、開いた窓の前でぼんやりたたずんでいる小さな背中が目に入った。
「リュカ。明日は学校は休みかもしれないけど、色々とやることがあるんだから。今日は早めに寝てくれないと」
「……」
「リュカ、聞いてる?」
リュカは答えない。夜風に髪をなびかせながら、他に何をするでもなくただひたすら突っ立っている。
「何してるの?」
微動だにせず窓の外を見ているらしいその様子はちょっと不気味で、心配になった私はリュカをそっと覗き込みながらそう声を掛けた。
「ねえ、リュカ」
「キアンがいる」
リュカはこちらを振り返ることなく、じっと敷地を囲う壁の方を睨みつけた。驚いて私も同じ場所に目を向けたけれど、ジューンベリーの木が静かに揺れているだけで、人影すらも見えない。
「どうしてキアンがいるって分かるの?」
「魔力操作の練習をしてたら何か気配がして、きのう教えてもらったやり方で探ってみたんだ。あの魔力は間違いなくキアンのだよ」
どういうメカニズムで見えない人間がいることが分かるのか、私にはさっぱり理解できない。でもリュカがそう言うのなら、きっとあの壁の向こうに誰かがいるのも、それがキアンであるということも間違いはないと思う。何か急用ができてギヨーム様に会いに来たのかもしれないけれど、こんな時間帯に来ても約束がなければ邸内には通してもらえないことは知らないのだろうか。
「待って。何か聞こえる」
リュカが窓枠に手をかけ、前のめりになりながら耳を澄ました。
「ああもう、イライラするなあ。何でこんな弱い波動にするんだよ」
そう呟いて短く息をつくと、リュカは目を閉じた。今の言葉から察するに、かなり意識を集中させないと拾えないくらい、その音は小さなものらしい。眉間に皺を寄せ、ときどき首を傾げたりしながらも、リュカはキアンが放っているらしい音を聞いていた。
吐息の音すら立てるのを憚られるくらいの静寂がしばらく続いたあと、リュカがゆっくりとまぶたを開いて私の方を見上げた。
「あした、朝から工房に来いって。……行ってもいいかな」
「えっ、朝から? いやでも明日は……」
部屋の掃除や荷物をまとめるのを手伝ってほしかったけれど、額に汗をにじませてこちらをじっと見つめるその様子が何だかすごくいじらしくて、
「分かった。いいよ、行っといで」
気付けばそんな風に答えてしまっていた。
リュカは、やった、と小さく呟いてガッツポーズをすると、急に私にぎゅっとしがみついた。
「ちょっ、なになに、どうしたの?」
驚きと嬉しさが入り混じったせいで上ずってしまいそうになる声をなんとか抑えながらそう尋ねると、リュカは至って真面目な顔をして再び私を見上げた。
「ニナ、動かないでね」
「え」
「怖くても我慢して。声を出しちゃダメだよ」
「何それ、どういう」
「キアンがニナと話したいんだって。僕が目印になるから、ニナは何もしないで」
だからそれは一体どういう意味なのかを聞こうとした瞬間、私の足元を何かが掬うような感触がしたかと思ったら、足が床からゆっくりと離れ始めた。
「っ!? わっ、えっ、うそっ」
「騒がないで、外に出るところを見られたらマズイでしょ」
確かに、使用人が仕事以外の理由で外出していい時間帯はとっくに過ぎているけれど。
「リュカ、ねえ、外に出るってどういう意味?」
「大丈夫、ちゃんと掴んでるよ」
リュカが私に対するものではない返答をして、私から離れた瞬間だった。私の体は足元で漂っていた妙な感触に一気に包み込まれ、そのまま窓の外へと運び出されたのだ。
ここから落ちれば、打ち所が悪ければ命だって危ない。そんな高さで少しの間ふわふわと浮遊した直後、急に凄いスピードで壁の向こう側へと引き寄せられた。
冷たい夜気が、まるで頬を削るように撫でていく。目をぎゅっとつむり、何とか声を出すまいと必死に口を抑えながら抗いようのない力に耐えていると、そのスピードは次第にゆっくりとしたものに変わっていった。
たぶん、それはほんの一瞬の出来事だったんだろうけれど、悠久の時を経たと勘違いするほどの恐怖を私は感じていたらしい。
「私、今どうなってる?」
完全に動きが止まったのを見計らって、目を閉じたままそう尋ねる。
「えっ、ああ……ええと、そうだな。俺に抱きついている」
「ごめん、すぐに離れたいんだけど、ちょっと足に力が入らないんだ。ホントごめん」
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