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2章:青空とリンゴの木
ゼキ・アルビール 1
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「ビークルに乗っていた時はあんなに生き生きしていたのに。どうしてたったこれだけの距離を飛ぶのが怖いんだ」
「空なんて飛んだことないんだもん、しょうがないじゃん……」
ブランモワ邸の外塀に背中を預け、その場でうずくまりながら力なく答える。
馬だったりビークルだったり、スピードが速くても地面を走る乗り物なら平気だし、なんならその速さを楽しむことだってできるけれど、足元が不安定なのは体が受け付けない。重心を失って安定しないのも背筋を這う悪寒も、今思い返しただけでも不快極まりなく、もう2度と経験したくないと思った。
「ほら、人間はさ、飛ぶようにできてないじゃない? きっと地に足を着けていないと自分を保つことができない、そういう体の構造をしてるんだと思うんだよね」
「何を言ってるんだ、人間は飛ぶ生き物だぞ」
「魔術を使えばの話でしょ。羽のある虫とか、鳥とかとは違うじゃない」
「飛ぶか飛ばないかの話をしてるんであって、虫やら鳥やらとの比較はしていない。人間だって自力で飛ぶ手段を持っているんだから、飛ぶ生き物で間違いないはずだ」
「……キアンは高いところ怖くないの?」
ちょっと面倒くさくなって、投げやりに聞いてみる。キアンはあごに手を当てて何かを思い返すように考えてから、別に、と答えた。
「小型飛行艇を操縦して戦線に出ることは日常だったし、魔術での浮遊にしても、俺は絶対にミスしないからな」
「ふーん……」
自分自身に絶対的な信頼を置いているから、恐怖心なんて芽生えるはずもないということらしい。そもそも生きてきた環境が違いすぎて、この件に関しては、たぶんキアンと分かり合える日が来ることはないだろうと思った。
「それで、話したいことってなに?」
ようやく気持ちが落ち着いたところで、スカートの裾を払いながら立ち上がって尋ねる。キアンは私に倣うように塀にもたれ掛かりながら、今朝のことだ、と言った。
「マルシェで見かけたあの男。君の知り合いかもしれないと言っていただろ」
「ああ……うん、まあ」
「彼の名前はゼキ・アルビールというそうだ」
「……!」
思いもよらない情報提供を受けて、私は弾かれたように体を起こし、キアンを見上げた。
「ナターク共和国の人間で、アヤ・クルトという大道芸団を率いている」
「えっ……あの、」
「魔術を駆使した派手な”奇術”が得意で、芸団の中でも花形的存在らしい。弓の名手でもある彼は、黒鹿毛の馬を駆りながら、1キロ先を自分と同じく馬で走る賊の頭を撃ち抜いたとかいう逸話もある」
「ちょっと待って、どうしてそんなこと」
「結論を言うと、彼は魔術を使った変装はしていなかった」
「え……」
「正真正銘、あれはゼキ・アルビールの本当の姿だ」
ローブからこぼれてなびいていた黒い長髪と、日焼けした筋肉質な腕。荷車に揺られていた彼の容姿を思い浮かべてみても、記憶にあるフィルの姿とはやっぱり重ならない。
それじゃあの人は、声が似ているだけの他人ってこと……?
「どうして!」
瞬間、私は大きな声を上げながら、キアンのジャケットの胸元を掴んで詰め寄っていた。
「どうして調べたの!? 私そんなこと頼んでないよね!」
「ああ、頼まれてない」
「じゃあそっとしておいてよ! 何もしなくて良かったのに! そしたら、そうすれば私は!」
「……」
「私、は……」
「”私は”、何だ。言ってみろ」
冷静にそう尋ねられ、ハッとして手を離す。
”私は”――その先に、いったいどんな言葉を繋げようとしたのか。
急な感情の横溢は、自分の本心をも押し出したらしい。死角からいきなり目の届くところへと現れたそれに触れて、私は動揺して一歩後ろへと下がった。
「フィルというのは、君の兄さんでリュカの父親なんだな」
「……リュカから聞いたの」
「そうだ。ニナはずっと、フィルを探しているんだとも言っていた。だからどこにも留まらないんだと」
「え……」
リュカにそんな話をした覚えはない。あちこち転々としているのは、土地柄や学校環境、私の就職事情があまり良くないからだって、そのせいで落ち着かなくてごめんっていつも言っていたのに。
「わ、私はただ、リュカのためにもっといい場所をと思って」
「リュカの目には、そうは映っていなかったみたいだな」
「っ……!」
自分でも気付いていなかった、ううん、違う、奥の方に隠して見ないようにしていた心情を他でもないリュカに見抜かれていたという事実に、私はただ唇を噛みしめて項垂れるしかなかった。
あくどい商売で裏社会の人間を怒らせ、命を狙われているから逃げるという置き手紙を読んだ時、心のどこかでフィルはきっと逃げ切れないだろうと思っていた。走るのは遅い、馬にだって上手に乗れない、ケンカなんて6つも年下の私より弱い、そんな人間がたったひとりで大きな力に立ち向かえるはずがない。
だからリュカが私の前に現れた時、自分にもまだ肉親がいるということだけでなく、フィルがあの後も生きていたことが分かって、本当は心からホッとした。と同時に、リュカを私に預けたのは自分の身に危険が差し迫ったからなんじゃないかという不安も湧き上がってきて、私はそれ以降、いつも心のどこかでフィルの安否を案じるようになった。
死んだなんて思いたくない、でも、生きているとも信じきれない。どっちつかずの中途半端な状況の中で、私は誰も信用できないからという名目を掲げ、ふらふらと各地を彷徨い歩いていた。ただ、フィルを見つけ出すために。
「きっと私、もう終わらせたかったんだろうね」
うつむいたまま、小さな声で呟く。
「フィルはナタークの大道芸人として幸せに上手くやってるっていうストーリーを勝手に創ってさ。ハッピーエンドで締めくくれば、私はもうあいつのことを考えなくて済む。これまで私の我がままで振り回してきたリュカも、やっと落ち着かせられるって……」
「マルシェで彼を追いかけられなかったのは、あれがフィルじゃないということを確信したくなかったからか」
「そう、だと思う。でも、自分をだますのってホント難しいよね。私、ブランモワ邸にメイドとしてずっといたいって思いながら、何をきっかけにしてここを発とうかってことを考えてたんだ。結局、またフィルを探しに行こうとしてた」
「……」
「怒鳴ったりしてごめん。リュカのためにも自分のためにも、ちゃんとけじめをつけて」
「お前、ホントいつまでも兄貴のケツばっか追いかけてんのな。いい加減ひとり立ちしろよ」
その声色は、どこにでもいる普通の青年のもののように思えた。高くもなく低くもなく、目立った特徴なんて何もない本当に平凡な声。だけど私が幼い頃から積み重ねてきた記憶は、今朝と同じ予感を私に与えていた。
「よう、キアン・”クランシー”。……ああ、今はフレイヴァだったかな」
振り返った視線の先に立っている、ローブをまとった人物。体格からして男性であろうその人は、フードは被っていないようだけれど、照らす月光が弱いせいかこの距離ではまだ彼の顔ははっきりと確認できなかった。
「ニナ、俺の後ろに隠れていろ」
「えっ」
「ゼキ・アルビールだ」
そう呟くキアンの声は、緊張で張りつめている。その額には汗がにじんでおり、何か危険を察知しているかのように見えた。
「俺に興味があるんだってな。団員から聞いたぜ」
「別に興味なんてない」
「まあそう言うなよ。お前が聞いた俺の話の中に一つ間違いがあるから、訂正しとこうと思ってわざわざこうして来てやったんだ」
不意に足元を掬うように流れた風に、ゼキのローブがふわりと踊る。裾に刺繍された”狼の口”の紋様が見えたと思った、その瞬間。
「俺がアイシャに乗ってぶち抜いたのは1キロ先の馬上の賊の頭じゃなく、100メートル先を自分の足で走ってた盗人の背中だ」
キアンとゼキが、入れ替わったのかと思った。さっきまで少し遠いところから聞こえていた彼の声が、背後、しかも私のすぐ傍で響いたからだ。でも移動したのは2人ではなく、自分自身の方だと気付くのにそう時間はかからなかった。
「ニナ、伏せろ!」
とっさに体勢を低く取り、そのまま地面をけり出して斜め前の方向へ体を転がす。キアンから発せられた、私の頭上を走った光のようなものは、ゼキの顔面に命中したかのように思えた。
「お前さあ、その威力の攻撃魔術を溜め時間なしに撃ち出すなよ。殺す気か?」
「……ああ。お前だけを殺す気で撃った」
爆発音や衝撃音のようなものはなかった。煙や炎も上がっておらず、この場はさっきと変わらず静かなままだ。ゼキ自身も負傷した様子はなく、キアンの攻撃は無効化されたのだと分かった。
「ホントやべぇ奴だな。そんなだからバルジーナを追い出されんだよ」
「それとこれとは関係ない。俺を挑発する暇があるなら、追撃に備えた方がいいんじゃないのか」
「あー、いや待て、すまん。皇国の魔術兵団エースとやり合う気はねえんだ」
キアンがゼキの意識を引き付けてくれている今がチャンスだ。
私は息を殺し、地面に這いつくばった姿勢のまま、こっそりとキアンの方へ向かおうとした。
「おい、見えてるからな」
「うわっ!」
見えない何かに腰の辺りを掴まれる。これはさっき、キアンに窓から引っ張り出された時と同じ感覚だと思った直後、私の体は宙に浮かんでくるりと回転した。
「ちょっと、これ嫌なんですけど!」
「お前も動くなよ、キアン・クランシー。ちょっとでも余計なことしたら、ただじゃおかねえから」
逆さづりにされた状態でゆっくりとゼキの方へと引き寄せられながら、私はスカートを押さえつつ、何とか体勢を整えようと必死でもがいた。
「ハハ、みっともねえな」
すぐ目の前で、ゼキがあざ笑う。月明かりに照らされた彼の瞳の色が昔と同じように青く輝いている様子は、逆さまの状態でもよく見えた。
「ドロワーズ履いてるから平気です。女性にみっともない格好させて笑ってるあんたは、人でなしか何かですかね」
「まあ……そうだな。両親亡くしたお前を置いて逃げるような奴だし、俺は人でなしだろうよ」
「……」
「変わんないな、ニナ」
「……あんたはずいぶん変わったね」
「いつまでもヘタレのままじゃ、生きていけねえからさ。たぶん今なら、お前とケンカしても負けないと思う」
「ああそう、それじゃやってやろうじゃないの」
言うや否や、私はそのまま足を思い切り後ろへ引き、勢いをつけて振り下ろしてやった。
「っぶね! おい、何でその状態で動けるんだよ!」
「避けずに受けなさいよ、このヘタレ兄貴!」
「うるせえバカ妹!」
私は逆さまになったまま、キアンが呆れた様子で止めに入るまでしばらくそうやって言い合いを続けた。
「空なんて飛んだことないんだもん、しょうがないじゃん……」
ブランモワ邸の外塀に背中を預け、その場でうずくまりながら力なく答える。
馬だったりビークルだったり、スピードが速くても地面を走る乗り物なら平気だし、なんならその速さを楽しむことだってできるけれど、足元が不安定なのは体が受け付けない。重心を失って安定しないのも背筋を這う悪寒も、今思い返しただけでも不快極まりなく、もう2度と経験したくないと思った。
「ほら、人間はさ、飛ぶようにできてないじゃない? きっと地に足を着けていないと自分を保つことができない、そういう体の構造をしてるんだと思うんだよね」
「何を言ってるんだ、人間は飛ぶ生き物だぞ」
「魔術を使えばの話でしょ。羽のある虫とか、鳥とかとは違うじゃない」
「飛ぶか飛ばないかの話をしてるんであって、虫やら鳥やらとの比較はしていない。人間だって自力で飛ぶ手段を持っているんだから、飛ぶ生き物で間違いないはずだ」
「……キアンは高いところ怖くないの?」
ちょっと面倒くさくなって、投げやりに聞いてみる。キアンはあごに手を当てて何かを思い返すように考えてから、別に、と答えた。
「小型飛行艇を操縦して戦線に出ることは日常だったし、魔術での浮遊にしても、俺は絶対にミスしないからな」
「ふーん……」
自分自身に絶対的な信頼を置いているから、恐怖心なんて芽生えるはずもないということらしい。そもそも生きてきた環境が違いすぎて、この件に関しては、たぶんキアンと分かり合える日が来ることはないだろうと思った。
「それで、話したいことってなに?」
ようやく気持ちが落ち着いたところで、スカートの裾を払いながら立ち上がって尋ねる。キアンは私に倣うように塀にもたれ掛かりながら、今朝のことだ、と言った。
「マルシェで見かけたあの男。君の知り合いかもしれないと言っていただろ」
「ああ……うん、まあ」
「彼の名前はゼキ・アルビールというそうだ」
「……!」
思いもよらない情報提供を受けて、私は弾かれたように体を起こし、キアンを見上げた。
「ナターク共和国の人間で、アヤ・クルトという大道芸団を率いている」
「えっ……あの、」
「魔術を駆使した派手な”奇術”が得意で、芸団の中でも花形的存在らしい。弓の名手でもある彼は、黒鹿毛の馬を駆りながら、1キロ先を自分と同じく馬で走る賊の頭を撃ち抜いたとかいう逸話もある」
「ちょっと待って、どうしてそんなこと」
「結論を言うと、彼は魔術を使った変装はしていなかった」
「え……」
「正真正銘、あれはゼキ・アルビールの本当の姿だ」
ローブからこぼれてなびいていた黒い長髪と、日焼けした筋肉質な腕。荷車に揺られていた彼の容姿を思い浮かべてみても、記憶にあるフィルの姿とはやっぱり重ならない。
それじゃあの人は、声が似ているだけの他人ってこと……?
「どうして!」
瞬間、私は大きな声を上げながら、キアンのジャケットの胸元を掴んで詰め寄っていた。
「どうして調べたの!? 私そんなこと頼んでないよね!」
「ああ、頼まれてない」
「じゃあそっとしておいてよ! 何もしなくて良かったのに! そしたら、そうすれば私は!」
「……」
「私、は……」
「”私は”、何だ。言ってみろ」
冷静にそう尋ねられ、ハッとして手を離す。
”私は”――その先に、いったいどんな言葉を繋げようとしたのか。
急な感情の横溢は、自分の本心をも押し出したらしい。死角からいきなり目の届くところへと現れたそれに触れて、私は動揺して一歩後ろへと下がった。
「フィルというのは、君の兄さんでリュカの父親なんだな」
「……リュカから聞いたの」
「そうだ。ニナはずっと、フィルを探しているんだとも言っていた。だからどこにも留まらないんだと」
「え……」
リュカにそんな話をした覚えはない。あちこち転々としているのは、土地柄や学校環境、私の就職事情があまり良くないからだって、そのせいで落ち着かなくてごめんっていつも言っていたのに。
「わ、私はただ、リュカのためにもっといい場所をと思って」
「リュカの目には、そうは映っていなかったみたいだな」
「っ……!」
自分でも気付いていなかった、ううん、違う、奥の方に隠して見ないようにしていた心情を他でもないリュカに見抜かれていたという事実に、私はただ唇を噛みしめて項垂れるしかなかった。
あくどい商売で裏社会の人間を怒らせ、命を狙われているから逃げるという置き手紙を読んだ時、心のどこかでフィルはきっと逃げ切れないだろうと思っていた。走るのは遅い、馬にだって上手に乗れない、ケンカなんて6つも年下の私より弱い、そんな人間がたったひとりで大きな力に立ち向かえるはずがない。
だからリュカが私の前に現れた時、自分にもまだ肉親がいるということだけでなく、フィルがあの後も生きていたことが分かって、本当は心からホッとした。と同時に、リュカを私に預けたのは自分の身に危険が差し迫ったからなんじゃないかという不安も湧き上がってきて、私はそれ以降、いつも心のどこかでフィルの安否を案じるようになった。
死んだなんて思いたくない、でも、生きているとも信じきれない。どっちつかずの中途半端な状況の中で、私は誰も信用できないからという名目を掲げ、ふらふらと各地を彷徨い歩いていた。ただ、フィルを見つけ出すために。
「きっと私、もう終わらせたかったんだろうね」
うつむいたまま、小さな声で呟く。
「フィルはナタークの大道芸人として幸せに上手くやってるっていうストーリーを勝手に創ってさ。ハッピーエンドで締めくくれば、私はもうあいつのことを考えなくて済む。これまで私の我がままで振り回してきたリュカも、やっと落ち着かせられるって……」
「マルシェで彼を追いかけられなかったのは、あれがフィルじゃないということを確信したくなかったからか」
「そう、だと思う。でも、自分をだますのってホント難しいよね。私、ブランモワ邸にメイドとしてずっといたいって思いながら、何をきっかけにしてここを発とうかってことを考えてたんだ。結局、またフィルを探しに行こうとしてた」
「……」
「怒鳴ったりしてごめん。リュカのためにも自分のためにも、ちゃんとけじめをつけて」
「お前、ホントいつまでも兄貴のケツばっか追いかけてんのな。いい加減ひとり立ちしろよ」
その声色は、どこにでもいる普通の青年のもののように思えた。高くもなく低くもなく、目立った特徴なんて何もない本当に平凡な声。だけど私が幼い頃から積み重ねてきた記憶は、今朝と同じ予感を私に与えていた。
「よう、キアン・”クランシー”。……ああ、今はフレイヴァだったかな」
振り返った視線の先に立っている、ローブをまとった人物。体格からして男性であろうその人は、フードは被っていないようだけれど、照らす月光が弱いせいかこの距離ではまだ彼の顔ははっきりと確認できなかった。
「ニナ、俺の後ろに隠れていろ」
「えっ」
「ゼキ・アルビールだ」
そう呟くキアンの声は、緊張で張りつめている。その額には汗がにじんでおり、何か危険を察知しているかのように見えた。
「俺に興味があるんだってな。団員から聞いたぜ」
「別に興味なんてない」
「まあそう言うなよ。お前が聞いた俺の話の中に一つ間違いがあるから、訂正しとこうと思ってわざわざこうして来てやったんだ」
不意に足元を掬うように流れた風に、ゼキのローブがふわりと踊る。裾に刺繍された”狼の口”の紋様が見えたと思った、その瞬間。
「俺がアイシャに乗ってぶち抜いたのは1キロ先の馬上の賊の頭じゃなく、100メートル先を自分の足で走ってた盗人の背中だ」
キアンとゼキが、入れ替わったのかと思った。さっきまで少し遠いところから聞こえていた彼の声が、背後、しかも私のすぐ傍で響いたからだ。でも移動したのは2人ではなく、自分自身の方だと気付くのにそう時間はかからなかった。
「ニナ、伏せろ!」
とっさに体勢を低く取り、そのまま地面をけり出して斜め前の方向へ体を転がす。キアンから発せられた、私の頭上を走った光のようなものは、ゼキの顔面に命中したかのように思えた。
「お前さあ、その威力の攻撃魔術を溜め時間なしに撃ち出すなよ。殺す気か?」
「……ああ。お前だけを殺す気で撃った」
爆発音や衝撃音のようなものはなかった。煙や炎も上がっておらず、この場はさっきと変わらず静かなままだ。ゼキ自身も負傷した様子はなく、キアンの攻撃は無効化されたのだと分かった。
「ホントやべぇ奴だな。そんなだからバルジーナを追い出されんだよ」
「それとこれとは関係ない。俺を挑発する暇があるなら、追撃に備えた方がいいんじゃないのか」
「あー、いや待て、すまん。皇国の魔術兵団エースとやり合う気はねえんだ」
キアンがゼキの意識を引き付けてくれている今がチャンスだ。
私は息を殺し、地面に這いつくばった姿勢のまま、こっそりとキアンの方へ向かおうとした。
「おい、見えてるからな」
「うわっ!」
見えない何かに腰の辺りを掴まれる。これはさっき、キアンに窓から引っ張り出された時と同じ感覚だと思った直後、私の体は宙に浮かんでくるりと回転した。
「ちょっと、これ嫌なんですけど!」
「お前も動くなよ、キアン・クランシー。ちょっとでも余計なことしたら、ただじゃおかねえから」
逆さづりにされた状態でゆっくりとゼキの方へと引き寄せられながら、私はスカートを押さえつつ、何とか体勢を整えようと必死でもがいた。
「ハハ、みっともねえな」
すぐ目の前で、ゼキがあざ笑う。月明かりに照らされた彼の瞳の色が昔と同じように青く輝いている様子は、逆さまの状態でもよく見えた。
「ドロワーズ履いてるから平気です。女性にみっともない格好させて笑ってるあんたは、人でなしか何かですかね」
「まあ……そうだな。両親亡くしたお前を置いて逃げるような奴だし、俺は人でなしだろうよ」
「……」
「変わんないな、ニナ」
「……あんたはずいぶん変わったね」
「いつまでもヘタレのままじゃ、生きていけねえからさ。たぶん今なら、お前とケンカしても負けないと思う」
「ああそう、それじゃやってやろうじゃないの」
言うや否や、私はそのまま足を思い切り後ろへ引き、勢いをつけて振り下ろしてやった。
「っぶね! おい、何でその状態で動けるんだよ!」
「避けずに受けなさいよ、このヘタレ兄貴!」
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