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第一章・首吊り少女の怨念
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「こっち!ついてきて!」
「ま、待って速い…」
藍玉──夜狐の式神、と名乗った猫は初速から徐々にギアをあげ、私を先導する。藍玉が一歩進むごとに耳に付けられた鈴がチリン、となった。
彼女──彼女と呼んでいいのだろうか──は、その名の通り青く澄んだ色の瞳をしていた。パッと見普通の三毛猫だが、首には首輪の代わりなのか、神社のしめ縄のようなものが巻き付いている。それから胴にもポーチがベルトで固定されていて、猫又ならではの二本の尻尾に細い鎖が絡まっていた。
その鎖と鈴を鳴らしながら、藍玉はペースを落とさず走り続ける。
「…ここまで来れば一先ず大丈夫かね……ちょっとアンタ大丈夫?息あがってるじゃないか」
「……すみません…」
「いや別に謝るようなことじゃないけど…」
先程の教室から一棟分ほど離れた場所で私と藍玉は一度腰を下ろす。
と、そうして段々呼吸が落ち着いてきたことで脳に酸素が行く余裕ができたのか、この状況に頭が追い付いてきた。
「猫が喋ってる!」
「今!?」
藍玉はくわっ、と目をカッ開いて驚いたように叫んだ。
脳の回線がどうやらショートしていたようで、いやあの状況でショートしない方がおかしいかもしれないが、とりあえず一番最初に突っ込むべき事実に私は今更ながらに気づいた。
「なんだ…もう猫が喋ったぐらいじゃ驚かないかと思った…」
「……」
それは一体どういう基準で考えた結果なのだろうか。
「さて、楽しい自己紹介はあとにとっておいて」
いつもなら夜狐の説明タイムに移行しそうな雰囲気だったのだが、藍玉はどうやらそんなことをする気は全くないようで、別の話に移ってしまった。どうせよくわからないから無くても一向に構わないのだが、むう、なんとなく物足りない。
「今アンタがしなくちゃいけないことは単純だ」
藍玉は床にぺち、と肉球を叩きつけ、話を始めた。ごくり、と生唾を飲んでその内容に対する心の準備をする。
「恨みから逃げながら狐のガキと合流する。それだけ」
──どうやら話は終わってしまったらしい。
「ま、アンタの足じゃ完全には逃げきれない。その辺の援護は私がするから心配しなくていい、じゃあ行くよ」
「え…は、はい…」
簡潔。手短。端的。非常に素っ気ないとも言える。
まぁ、無駄にべらべら喋り散らかされるより無駄が無くて非常に良い。こちらとしても助かる。
…助かる、けれども。
「…………」
心の準備が、全くと言っていい程できていない。
私はつい昨日まで普通の女子高生だったのだ。こんな状況に慣れている筈がないではないか。こんな端的に指示を出されたところではいそうですかと心構えできる程私は強くないし、修羅場慣れしていない。
藍玉はとっくにすたすた歩き出している。「なにしてんの?」みたいな目でこちらを振り返っては早く来いとでも言うように顎をくいっと動かした。
──確かに、私はこんなすぐに覚悟を決められる人間ではない──が、だからといって「少し時間をください」などと言える人間でもない。
ええい、もうどうにでもなれ、という気で立ち上がる。私の心構えがなんだ、そんなものあってもなくても実力はたいして変わらない。
…と、そこで、ふと思った。
『無理しなくていいからね。…なんて言ったって、君は無理をするんだろうけど』
夜狐は私が相手にワガママだとか要求だとかを伝えられないのを知っていた。
なんでもかんでも見透かしてくる彼のことだ、どうせ私がびくびくしていたのもお見通しだったのだろう。
じゃああの無駄に長ったらしい話は──
「……」
…あの人は少し優しすぎじゃないか?
普通、今日始めてあった相手にそこまで気遣いできる人間なんていないと思うのだが。押し売りのセールスマンとかに引っ掛かりそうで心配になる。
気を遣わせて申し訳ないと思う反面、そうあって欲しいと思う自分もいた。少なくともその気遣いに気づけた今では申し訳なさより感謝の気持ちの方が勝っていた。
こんな感覚はいつぶりだろうか。
ふー、と肺に残っていた空気を一度全て吐き出し、上部だけの覚悟を決めて前を向く。どうせもう死んでるんだ。人間にとって最上級の恐怖である死を経験済みなのだから、こんなのはどうってことない、と何度も使った勇気付けの言葉を頭の中で反復させる。
「そんな緊張しなさんな、アタシだってこんなナリだけど、妖怪なことに変わりないんだから…狐のガキ程じゃないかもしんないけどそこそこ戦えるンだよ?」
藍玉はそう言ってふ、と笑った。守られてばかりだな、と思いつつもそうして貰わなきゃ一瞬で戦闘不能になるのはわかっている。ありがとう、と一言伝えて先導する藍玉に従い、少し歩みを早めた。
「?なんだい、アンタ横にならんで歩きたい人?」
「あ、いえ…その……」
これにはそれ相応の理由があった。それこそ利己的な、自分勝手な。…が、それを今この状況で伝えたら彼女は非常に焦り出すのではないかと思うと言うに忍びない。私はまだ黙っておくことにした。
「なんでもないです」
自分の影に目を落としながら、そう呟いた。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
「さーて」
夜狐は目の前の自分の面積の三倍はあるのではないかという巨漢をまっすぐ見据えて立っていた。相も変わらずその顔には余裕がにじみ出ている。
「僕は君を足止めしなきゃいけないみたいだからね」
足止め──と彼は言ったが、本人にそんな気はさらさらない。足止めと言えば足止めかもしれないが、それは永遠に動くことができないようにしてやる、という意味で差し支えなかった。
「う゛」
巨漢の恨み──それは重たそうな腕をぶらんと垂らしながら夜狐を見た。それにとっては夜狐も子供みたいなサイズに見えているのだろう、お互い余裕そうに睨み合う。
こいつは香澄ちゃんにとって何の恨みなのだろう──と、夜狐は考えた。一見して非常に強そうで、大きい。あくまで見た目の話だが、少なくとも彼女から見て大きく強かった人物なのだろう。
夜狐は左腕を庇うようにして刀を構えた。
「う゛ぁ?」
恨みはそれを見逃さなかったようだ。
その太い腕が夜狐の左側を狙って勢いよく放たれる。夜狐はひょい、と右側に飛んで軽く避けた。
「やだなぁ、弱ってる部分から潰しにかかるのやめてくれない?性格悪い」
とん、と着地しながら彼は悪態をついた。と同時に、床にポタポタと数敵の鮮血が落ちた。
血。
傷。
──左腕。
ぼたぼたっ、とさらに彼の左手の袖から覗く手首を伝って血が落ちてきた。
血の量を見る限り、かなりの重症だ。
いやぁ、しくったなぁ──と夜狐は赤い水溜まりを広げていく自分の左腕を見て思った。
傷の原因はあの時。
香澄を突き飛ばした──瞬間。
基本、夜狐は彼女を庇うとき自分の方に引き寄せると決めていた。そばにいてくれさえすれば守れるから。手の届く範囲にさえいてくれれば、必ず。
ただあの瞬間は違った。
上から何かが落ちてくる。空気がギ、と軋む感覚、おそらくよほど体積が大きいか単純にひどく重い。落下までの時間は短いと考えられる。
もしここで彼女を引き寄せたとして──間に合わない。
彼女の肩が外れないような速度で引き寄せたって、向こうの落下速度の方が速いから彼女の足が潰れる。
なら──やむを得ない。
夜狐は犠牲となるものに自分の左腕を選んだ。
「くぎぎき、」
「え、何、それ笑い声?気持ち悪っ」
巨漢の恨みは顔をぐしゃっと楽しそうに歪めて気持ちの悪い声をあげた。
そしてその視線は明らかに夜狐の左腕に集中している。
もう一度巨漢が動いた。その図体で出してはいけない速度で接近、今度はその腕をもぐとでも言いたげな気迫と共に木の幹のような腕が襲いくる。
それは圧倒的な力だった。常人なら抗おうなんて考えられないほど、まるで自然の摂理を思わせる力がそこにはあった。誰も地震を自らの手で止めようなどとは考えない。
しかし彼は常人などではなかった。
「逆だよ、逆」
巨漢はなんの手応えも感じない手に違和感を覚えた。
おかしい、さっきまであいつはここにいた筈。
──おかしい。
さっきまで自分の腕はここについていた筈だ。
それに気づいてから一瞬遅れて、断面から血が吹き出す。
「潰したところはもう見ない。次に見るべきは生きて機能してる部分なんだ」
その声が聞こえたかと思えば、急に巨漢の視界が一段低くなった。何事かとあたりを見回す。が、それは大して複雑な話ではない。
足が斬り落とされただけだ。
あり得ない、片手だぞ?一体何をした、何をされた!
巨漢はまるで人のように感情を露骨に表に出して、怯えたように顔を歪めた。そうやって細まった視界に銀と赤が映った。
「何?恨みごときが感情なんて持つなよ」
殺し辛くなるだろ、と大して思ってもいなさそうに夜狐は言った。
夜狐はゴミを見るような目、だとか氷点下の瞳、だとかその手の言葉をいくら重ねても足りない憎悪と殺気に満ちた目をしていた。あえて表現するとすれば、それは憤りと怨恨という感情だけをインプットされた殺戮マシーンであった。
夜狐の左腕はぶらんと垂れ下がっている。巨漢の恨みにはそれしか映らない。それしか見たくないのだ。目の前の殺戮に特化した人物が少なくとも本調子でないことを自分に言い聞かせたかった。
ふと、その左腕が上に向かって伸びていることに気付いた。
しかし不可解なことに、彼の腕から滴る血は上に向かって落ちていた。
はて。どうなっているのか。
あぁ、簡単なことじゃないか!
巨漢は狂ったように口角を上げて顔を歪ませた。と、同時に、こめかみの辺りに強い刺激を感じ視界が三百六十度ぐるぐると回転を始める。
「ごめん、やっぱり君の顔苦手。気持ち悪い」
壁に後頭部をぶつける感覚に呻くほどの気概は、巨漢にはもう残っていなかった。
最後に見たのは空き教室のホコリを被った備品と刀を持った男。それから──泣き別れの胴体が横たわっている様。
自然の摂理を思わせる力がそこにはあった。
獣が獣を喰らうように。嵐がなんの感情も無く一つの林を駄目にするように。
誰も地震を自らの手で止めようなどとは考えない。
恐れおののくことしかできない、圧倒的な力そのものなのである。
そうして巨漢は、ただの感情の塊へと戻った。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
『先生は真田の味方だぞ!』
それは力だった。
学校という狭い空間の中において、そして生徒達にとって従わなければいけない存在。相手に悪いことをしている、という自覚さえあれば、味方につけた際最強の武器と化す。
武器、なんて言い方は失礼かもしれない。だが教師本人は少なくとも私達生徒にとって非常に強い武器を所有していた。それは単位だとか、内申点だとか、いざという時に信じてもらえるかどうかだとか、平穏な学校生活だとか。
全て教師にたいして従順にさえしていれば必ず手に入るもの。
当たり前だ。それらは教師側としても与える義務がある。こちらが何か酷いことをやらかしさえしなければ、それは義務として教師達にのしかかってくる。そうしてお互いwinwinの関係を保っているのだ。
しかしそれはあくまで学校内の話だった。
問題が学校外に出た途端、教師はその権力──武器を失う。あくまで人並みの武器と、元より持っていた個人としての武器。
そして人間は、自分のため以外に武器を振るうことを嫌う。
武器を振るうとは戦うということだ。戦うということは、傷つくということだ。そして個人として戦うということは、後ろ盾が無いということでもあった。最悪の場合後を任せられる人、もっと端的に言えば責任を押しつけられる人がいない状況で戦うのは──非常に、苦しい。
例え話をしよう。自分は今年の町内会の班長で、集金を任された。決まった人の家を言われた通り巡って、決められた金額を支払って貰う。
その行為に恐怖を感じるだろうか?
答えは否である。
通常の感性と道徳心を持つ相手なら、決して文句など言わない。例え言われたとしても自分自身に非は一切無いのだ。言われたことをしているだけ。義務を果たしているだけ。文句があるなら上に直接どうぞと言えば良い。
さて、次は個人的に開催する大して仲良くもない近所の人を巻き込んだバーベキューの為に、「参加費としてお金を下さい」と要求して家を回ってみよう。
「うちはうちでやるんで結構です」と言われて終わりである。
もう少し噛み砕いた例をあげよう。
喧嘩をしている二人の人間がいる。自分はそれを目撃してしまった。
一つ。そこが学校内で、喧嘩をしているのは生徒。自分の立場は教師の場合。
貴方はすぐに仲裁に入るだろう。向こうも喧嘩は良くないこと、という自覚はあるはず。そしてそれを注意し、叱るのが教師の役目ということも。
内申点への影響、親の呼び出し、停学処分。それらの決定権は教師にある。少なくとも生徒から見ればそうだ。
結果的にこの喧嘩は円満に解決するだろう。教師側としても特に失うものもなく傷つくこともない。
そしてもう一つ。そこがその辺の公園かどこかで、喧嘩をしているのはどこの誰ともしらない一般人。自分の立場はただの通行人で、仲裁の時に使えるであろう権力も所持していない。
仲裁に入ったところで、貴方は「余計なことをするな」と話すら聞いて貰えないだろう。
場合によってはこちらにも被害が飛んでくるかも知れない。なにしろこちらには、相手の内申点を決める権利も何もないのだから。
ならば見て見ぬふりをするのが賢い生き方と言う物である。
世界は綺麗事では回らないのだから。
こんなにダラダラと喋って何が言いたいのかと言えば、つまり──権力という武器兼盾が使用不可な状態において、それでも戦地に突っ走っていく命知らずは世の中にそんなに多くないということである。
命知らず。
場合によってはお人好しの馬鹿とも呼ぶ。
そんな人間は中々存在しないのだ。いたとしても上っ面だけの可能性が高い。そして本物のそういう人は、もっとずっと先の方へ行って帰ってこない。目の前の小さな苦悩に手を貸さず、遠く離れた大きな問題に着眼しそれを解決して一度に多くの人を助けるのだろう。
自分はその中に入っていなかった、と。
広告詐欺みたいな話だが実際そうなのではないだろうか。
もし、仮に、目の前の小さな苦悩に目を向けて、手を差し伸べてくれるお人好しの馬鹿がいたとして──そんな人は都合よく自分の前に現れてはくれないのだ。
そういう話。
それだけの話。
家庭の事情を半ば強制的に話させられて、同情と慰めだけを得た私の話。
でも、半ば──だったのだ。半分は強制だった。だけれどそのもう半分は、明らかに私の意思だったのだ。
必死で絞り出した「助けて」は、「助かる方法を教えて」に意図的にすり替えられて。
武器兼盾を持てないフィールドに持ち込まれた大人達は、私を助けてはくれなかった。
それだけ。
それは自然の摂理となんら変わりない。
獣同士が無駄な争いを避けるのと同じこと、いわば本能なのだ。誰だって望んで傷つきたくはない。それが結果として自分自身に利をもたらさないのなら傷つく意味は無い。
あの人達にとって私はとるにたらない、自分が傷ついてまで助けるべき相手ではなかったのだ。
そう、それだけ。
この長ったらしい話を一言でまとめよう。
皆、我が身が一番可愛いのだ。
それだけ。
「ま、待って速い…」
藍玉──夜狐の式神、と名乗った猫は初速から徐々にギアをあげ、私を先導する。藍玉が一歩進むごとに耳に付けられた鈴がチリン、となった。
彼女──彼女と呼んでいいのだろうか──は、その名の通り青く澄んだ色の瞳をしていた。パッと見普通の三毛猫だが、首には首輪の代わりなのか、神社のしめ縄のようなものが巻き付いている。それから胴にもポーチがベルトで固定されていて、猫又ならではの二本の尻尾に細い鎖が絡まっていた。
その鎖と鈴を鳴らしながら、藍玉はペースを落とさず走り続ける。
「…ここまで来れば一先ず大丈夫かね……ちょっとアンタ大丈夫?息あがってるじゃないか」
「……すみません…」
「いや別に謝るようなことじゃないけど…」
先程の教室から一棟分ほど離れた場所で私と藍玉は一度腰を下ろす。
と、そうして段々呼吸が落ち着いてきたことで脳に酸素が行く余裕ができたのか、この状況に頭が追い付いてきた。
「猫が喋ってる!」
「今!?」
藍玉はくわっ、と目をカッ開いて驚いたように叫んだ。
脳の回線がどうやらショートしていたようで、いやあの状況でショートしない方がおかしいかもしれないが、とりあえず一番最初に突っ込むべき事実に私は今更ながらに気づいた。
「なんだ…もう猫が喋ったぐらいじゃ驚かないかと思った…」
「……」
それは一体どういう基準で考えた結果なのだろうか。
「さて、楽しい自己紹介はあとにとっておいて」
いつもなら夜狐の説明タイムに移行しそうな雰囲気だったのだが、藍玉はどうやらそんなことをする気は全くないようで、別の話に移ってしまった。どうせよくわからないから無くても一向に構わないのだが、むう、なんとなく物足りない。
「今アンタがしなくちゃいけないことは単純だ」
藍玉は床にぺち、と肉球を叩きつけ、話を始めた。ごくり、と生唾を飲んでその内容に対する心の準備をする。
「恨みから逃げながら狐のガキと合流する。それだけ」
──どうやら話は終わってしまったらしい。
「ま、アンタの足じゃ完全には逃げきれない。その辺の援護は私がするから心配しなくていい、じゃあ行くよ」
「え…は、はい…」
簡潔。手短。端的。非常に素っ気ないとも言える。
まぁ、無駄にべらべら喋り散らかされるより無駄が無くて非常に良い。こちらとしても助かる。
…助かる、けれども。
「…………」
心の準備が、全くと言っていい程できていない。
私はつい昨日まで普通の女子高生だったのだ。こんな状況に慣れている筈がないではないか。こんな端的に指示を出されたところではいそうですかと心構えできる程私は強くないし、修羅場慣れしていない。
藍玉はとっくにすたすた歩き出している。「なにしてんの?」みたいな目でこちらを振り返っては早く来いとでも言うように顎をくいっと動かした。
──確かに、私はこんなすぐに覚悟を決められる人間ではない──が、だからといって「少し時間をください」などと言える人間でもない。
ええい、もうどうにでもなれ、という気で立ち上がる。私の心構えがなんだ、そんなものあってもなくても実力はたいして変わらない。
…と、そこで、ふと思った。
『無理しなくていいからね。…なんて言ったって、君は無理をするんだろうけど』
夜狐は私が相手にワガママだとか要求だとかを伝えられないのを知っていた。
なんでもかんでも見透かしてくる彼のことだ、どうせ私がびくびくしていたのもお見通しだったのだろう。
じゃああの無駄に長ったらしい話は──
「……」
…あの人は少し優しすぎじゃないか?
普通、今日始めてあった相手にそこまで気遣いできる人間なんていないと思うのだが。押し売りのセールスマンとかに引っ掛かりそうで心配になる。
気を遣わせて申し訳ないと思う反面、そうあって欲しいと思う自分もいた。少なくともその気遣いに気づけた今では申し訳なさより感謝の気持ちの方が勝っていた。
こんな感覚はいつぶりだろうか。
ふー、と肺に残っていた空気を一度全て吐き出し、上部だけの覚悟を決めて前を向く。どうせもう死んでるんだ。人間にとって最上級の恐怖である死を経験済みなのだから、こんなのはどうってことない、と何度も使った勇気付けの言葉を頭の中で反復させる。
「そんな緊張しなさんな、アタシだってこんなナリだけど、妖怪なことに変わりないんだから…狐のガキ程じゃないかもしんないけどそこそこ戦えるンだよ?」
藍玉はそう言ってふ、と笑った。守られてばかりだな、と思いつつもそうして貰わなきゃ一瞬で戦闘不能になるのはわかっている。ありがとう、と一言伝えて先導する藍玉に従い、少し歩みを早めた。
「?なんだい、アンタ横にならんで歩きたい人?」
「あ、いえ…その……」
これにはそれ相応の理由があった。それこそ利己的な、自分勝手な。…が、それを今この状況で伝えたら彼女は非常に焦り出すのではないかと思うと言うに忍びない。私はまだ黙っておくことにした。
「なんでもないです」
自分の影に目を落としながら、そう呟いた。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
「さーて」
夜狐は目の前の自分の面積の三倍はあるのではないかという巨漢をまっすぐ見据えて立っていた。相も変わらずその顔には余裕がにじみ出ている。
「僕は君を足止めしなきゃいけないみたいだからね」
足止め──と彼は言ったが、本人にそんな気はさらさらない。足止めと言えば足止めかもしれないが、それは永遠に動くことができないようにしてやる、という意味で差し支えなかった。
「う゛」
巨漢の恨み──それは重たそうな腕をぶらんと垂らしながら夜狐を見た。それにとっては夜狐も子供みたいなサイズに見えているのだろう、お互い余裕そうに睨み合う。
こいつは香澄ちゃんにとって何の恨みなのだろう──と、夜狐は考えた。一見して非常に強そうで、大きい。あくまで見た目の話だが、少なくとも彼女から見て大きく強かった人物なのだろう。
夜狐は左腕を庇うようにして刀を構えた。
「う゛ぁ?」
恨みはそれを見逃さなかったようだ。
その太い腕が夜狐の左側を狙って勢いよく放たれる。夜狐はひょい、と右側に飛んで軽く避けた。
「やだなぁ、弱ってる部分から潰しにかかるのやめてくれない?性格悪い」
とん、と着地しながら彼は悪態をついた。と同時に、床にポタポタと数敵の鮮血が落ちた。
血。
傷。
──左腕。
ぼたぼたっ、とさらに彼の左手の袖から覗く手首を伝って血が落ちてきた。
血の量を見る限り、かなりの重症だ。
いやぁ、しくったなぁ──と夜狐は赤い水溜まりを広げていく自分の左腕を見て思った。
傷の原因はあの時。
香澄を突き飛ばした──瞬間。
基本、夜狐は彼女を庇うとき自分の方に引き寄せると決めていた。そばにいてくれさえすれば守れるから。手の届く範囲にさえいてくれれば、必ず。
ただあの瞬間は違った。
上から何かが落ちてくる。空気がギ、と軋む感覚、おそらくよほど体積が大きいか単純にひどく重い。落下までの時間は短いと考えられる。
もしここで彼女を引き寄せたとして──間に合わない。
彼女の肩が外れないような速度で引き寄せたって、向こうの落下速度の方が速いから彼女の足が潰れる。
なら──やむを得ない。
夜狐は犠牲となるものに自分の左腕を選んだ。
「くぎぎき、」
「え、何、それ笑い声?気持ち悪っ」
巨漢の恨みは顔をぐしゃっと楽しそうに歪めて気持ちの悪い声をあげた。
そしてその視線は明らかに夜狐の左腕に集中している。
もう一度巨漢が動いた。その図体で出してはいけない速度で接近、今度はその腕をもぐとでも言いたげな気迫と共に木の幹のような腕が襲いくる。
それは圧倒的な力だった。常人なら抗おうなんて考えられないほど、まるで自然の摂理を思わせる力がそこにはあった。誰も地震を自らの手で止めようなどとは考えない。
しかし彼は常人などではなかった。
「逆だよ、逆」
巨漢はなんの手応えも感じない手に違和感を覚えた。
おかしい、さっきまであいつはここにいた筈。
──おかしい。
さっきまで自分の腕はここについていた筈だ。
それに気づいてから一瞬遅れて、断面から血が吹き出す。
「潰したところはもう見ない。次に見るべきは生きて機能してる部分なんだ」
その声が聞こえたかと思えば、急に巨漢の視界が一段低くなった。何事かとあたりを見回す。が、それは大して複雑な話ではない。
足が斬り落とされただけだ。
あり得ない、片手だぞ?一体何をした、何をされた!
巨漢はまるで人のように感情を露骨に表に出して、怯えたように顔を歪めた。そうやって細まった視界に銀と赤が映った。
「何?恨みごときが感情なんて持つなよ」
殺し辛くなるだろ、と大して思ってもいなさそうに夜狐は言った。
夜狐はゴミを見るような目、だとか氷点下の瞳、だとかその手の言葉をいくら重ねても足りない憎悪と殺気に満ちた目をしていた。あえて表現するとすれば、それは憤りと怨恨という感情だけをインプットされた殺戮マシーンであった。
夜狐の左腕はぶらんと垂れ下がっている。巨漢の恨みにはそれしか映らない。それしか見たくないのだ。目の前の殺戮に特化した人物が少なくとも本調子でないことを自分に言い聞かせたかった。
ふと、その左腕が上に向かって伸びていることに気付いた。
しかし不可解なことに、彼の腕から滴る血は上に向かって落ちていた。
はて。どうなっているのか。
あぁ、簡単なことじゃないか!
巨漢は狂ったように口角を上げて顔を歪ませた。と、同時に、こめかみの辺りに強い刺激を感じ視界が三百六十度ぐるぐると回転を始める。
「ごめん、やっぱり君の顔苦手。気持ち悪い」
壁に後頭部をぶつける感覚に呻くほどの気概は、巨漢にはもう残っていなかった。
最後に見たのは空き教室のホコリを被った備品と刀を持った男。それから──泣き別れの胴体が横たわっている様。
自然の摂理を思わせる力がそこにはあった。
獣が獣を喰らうように。嵐がなんの感情も無く一つの林を駄目にするように。
誰も地震を自らの手で止めようなどとは考えない。
恐れおののくことしかできない、圧倒的な力そのものなのである。
そうして巨漢は、ただの感情の塊へと戻った。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
『先生は真田の味方だぞ!』
それは力だった。
学校という狭い空間の中において、そして生徒達にとって従わなければいけない存在。相手に悪いことをしている、という自覚さえあれば、味方につけた際最強の武器と化す。
武器、なんて言い方は失礼かもしれない。だが教師本人は少なくとも私達生徒にとって非常に強い武器を所有していた。それは単位だとか、内申点だとか、いざという時に信じてもらえるかどうかだとか、平穏な学校生活だとか。
全て教師にたいして従順にさえしていれば必ず手に入るもの。
当たり前だ。それらは教師側としても与える義務がある。こちらが何か酷いことをやらかしさえしなければ、それは義務として教師達にのしかかってくる。そうしてお互いwinwinの関係を保っているのだ。
しかしそれはあくまで学校内の話だった。
問題が学校外に出た途端、教師はその権力──武器を失う。あくまで人並みの武器と、元より持っていた個人としての武器。
そして人間は、自分のため以外に武器を振るうことを嫌う。
武器を振るうとは戦うということだ。戦うということは、傷つくということだ。そして個人として戦うということは、後ろ盾が無いということでもあった。最悪の場合後を任せられる人、もっと端的に言えば責任を押しつけられる人がいない状況で戦うのは──非常に、苦しい。
例え話をしよう。自分は今年の町内会の班長で、集金を任された。決まった人の家を言われた通り巡って、決められた金額を支払って貰う。
その行為に恐怖を感じるだろうか?
答えは否である。
通常の感性と道徳心を持つ相手なら、決して文句など言わない。例え言われたとしても自分自身に非は一切無いのだ。言われたことをしているだけ。義務を果たしているだけ。文句があるなら上に直接どうぞと言えば良い。
さて、次は個人的に開催する大して仲良くもない近所の人を巻き込んだバーベキューの為に、「参加費としてお金を下さい」と要求して家を回ってみよう。
「うちはうちでやるんで結構です」と言われて終わりである。
もう少し噛み砕いた例をあげよう。
喧嘩をしている二人の人間がいる。自分はそれを目撃してしまった。
一つ。そこが学校内で、喧嘩をしているのは生徒。自分の立場は教師の場合。
貴方はすぐに仲裁に入るだろう。向こうも喧嘩は良くないこと、という自覚はあるはず。そしてそれを注意し、叱るのが教師の役目ということも。
内申点への影響、親の呼び出し、停学処分。それらの決定権は教師にある。少なくとも生徒から見ればそうだ。
結果的にこの喧嘩は円満に解決するだろう。教師側としても特に失うものもなく傷つくこともない。
そしてもう一つ。そこがその辺の公園かどこかで、喧嘩をしているのはどこの誰ともしらない一般人。自分の立場はただの通行人で、仲裁の時に使えるであろう権力も所持していない。
仲裁に入ったところで、貴方は「余計なことをするな」と話すら聞いて貰えないだろう。
場合によってはこちらにも被害が飛んでくるかも知れない。なにしろこちらには、相手の内申点を決める権利も何もないのだから。
ならば見て見ぬふりをするのが賢い生き方と言う物である。
世界は綺麗事では回らないのだから。
こんなにダラダラと喋って何が言いたいのかと言えば、つまり──権力という武器兼盾が使用不可な状態において、それでも戦地に突っ走っていく命知らずは世の中にそんなに多くないということである。
命知らず。
場合によってはお人好しの馬鹿とも呼ぶ。
そんな人間は中々存在しないのだ。いたとしても上っ面だけの可能性が高い。そして本物のそういう人は、もっとずっと先の方へ行って帰ってこない。目の前の小さな苦悩に手を貸さず、遠く離れた大きな問題に着眼しそれを解決して一度に多くの人を助けるのだろう。
自分はその中に入っていなかった、と。
広告詐欺みたいな話だが実際そうなのではないだろうか。
もし、仮に、目の前の小さな苦悩に目を向けて、手を差し伸べてくれるお人好しの馬鹿がいたとして──そんな人は都合よく自分の前に現れてはくれないのだ。
そういう話。
それだけの話。
家庭の事情を半ば強制的に話させられて、同情と慰めだけを得た私の話。
でも、半ば──だったのだ。半分は強制だった。だけれどそのもう半分は、明らかに私の意思だったのだ。
必死で絞り出した「助けて」は、「助かる方法を教えて」に意図的にすり替えられて。
武器兼盾を持てないフィールドに持ち込まれた大人達は、私を助けてはくれなかった。
それだけ。
それは自然の摂理となんら変わりない。
獣同士が無駄な争いを避けるのと同じこと、いわば本能なのだ。誰だって望んで傷つきたくはない。それが結果として自分自身に利をもたらさないのなら傷つく意味は無い。
あの人達にとって私はとるにたらない、自分が傷ついてまで助けるべき相手ではなかったのだ。
そう、それだけ。
この長ったらしい話を一言でまとめよう。
皆、我が身が一番可愛いのだ。
それだけ。
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