恨み買取屋

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第一章・首吊り少女の怨念

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 影が蠢いた。
 花の笑い声がピークに達する。頭の中を直接殴られるような感覚に吐き気がした。
 藍玉は冷静に周囲を警戒している。でも、私にはわかる。これは周囲から出てくるとか、そう言うものじゃないのだ。
 だって、噂の原因は、元は、私だから。
 噂からは逃げられない。
 私という存在がある限り──決して。
 影の揺らぎが大きくなっていく。それは風に吹かれた蝋燭の火のように、今にも消えてしまいそうに霞んでいく。
 これは私の視界が揺らいでいるのだろうか?
「…香澄、アンタ、それ」
 藍玉が訝しげな目をして私を見た。
 私の足元を見た。

 ──あ。

 全く私という人間は観察眼というものが鈍りきっている。
 気づくのが遅すぎた。
 影。
 光を遮ってできるもの。
 影とはすなわち、存在の証明だ。私はここにこうしているぞと、物体として、物質として在るという証明。
『香澄ちゃんはもういないんだから──』
 私はもういない。
 ここにいない。
 物体として、物質として、存在していない。
 私は光を受け止めることはできないし、遮るなんてもってのほかだ。
 そもそもいつから?いつからそれはそれとしてここに居座り続けていた?
 ──やっぱり、死んだことに慣れるのは楽じゃない。
 
 夜狐の右手の中で、恨みは小さな断末魔とともに蒸発した。
「……趣味が悪いどころの話じゃねぇぞ…!」
 恨みそのものが、本人にまとわりつく。
 こういった事例は、夜狐も過去に幾度か経験してきたが──なにしろ恨みの持ち主本人が同行して現世に留まり続けていたことなど、一度もない。
 そもそも恨みを倒すとは、現世でいう「除霊」に近い感覚である。憑き物落とし、とも呼べるかもしれない。
 荒っぽく言えば、恨みが核に戻るというのは成仏と同じなのだ。
 現世で悪霊だのなんだの騒がれている奴らの正体は、大抵恨みなのだから。
 だから、もし恨みがその本人にひっついていたとしたら──幽霊に幽霊が取り憑いてるみたいな絵面はなんとも可笑しいが──本人があの世に到着した時点で恨みは核に戻ってしまう。
 だから今回もそうなる──はずだった。
 けれど彼女はここにいる。
 まだ、現世に。
 浮遊霊かはたまた地縛霊か、どう分類されるかはわからないが、少なくとも彼女は成仏していないのだ。一歩もあの世へ踏み込んでいないのだ。
 恨みを引き連れた幽霊。いいや、正確にいえば恨みに幽霊。
 それは下手をすれば──とんでもない悪霊となる。
「「ねェねェ知ってる?」」
「…クソ」
 花が夜狐を足止めする。刀を縦横無尽に振って全ての花を粉々にし、蒸発すらしないうちにそこを通り過ぎた。
 本体が香澄のそばにいるとしたら、その目的はまず間違いなく香澄を呑むこと。呑んで、更なる力を得て、大量虐殺を目論むこと。
 恨みに呑まれたらそれこそ終いだ。本体の強さがどれくらいか知らないが、万一強かった場合呑まれた瞬間に彼女は自我を失い無差別殺人を引き起こす。
「頼むぞ藍…」
 夜狐はさらにギアを上げた。

    ▽ ▲ ▽ ▲ ▽

 問、自分の影から距離を取るにはどうしたら良いか答えよ。
 無理に決まっている。
「香澄っ、アタシの方に──」
 近づけと?下がっていろと?無理だ。できるはずがない。私は今、時限爆弾を体にぐるぐるに巻きつけられたみたいな状態にあるのだから。
 藍玉もそれはわかっているようで、何か打つ手はないかと眉間に皺を寄せている。
 一見すれば単純だ。私の影、これをぎっちり見張って本体がそこから姿を現した瞬間殴りかかる。なんならそうやって待ち伏せできる分、これは他より相当倒しやすい恨みだ。
 だがそれは単体で見た時の話。
 現実はそう単純じゃない。
「「ケタケタケタ」」
 そうやって笑う花達は、さらに恨みを呼び寄せる。
 それら二つ──いいや、二つどころかきっともっと大量に──を警戒し続けるのはいくらなんでも無茶だ。
 …そんなことを言っている間にも、すでに足音が聞こえてくる。それが近づいてくると同時に私の背筋が妙にピンと立っていく。
「……ッ」
 藍玉はすごく嫌そうな顔をした。歯軋りの音が短く響く。逃げようにも花は私たちのいく先々に壁を作った。
 詰み。
 チェックメイトである。
「…香澄!とりあえずアタシはなんとか道を作るから、本体を警戒して──ッとにかく!絶対に恨みに呑まれるなよ!」
 まずは逃げ道の確保だ、と藍玉は向かってくる『噂に踊らされた恨み』を薙ぎ倒していく。それは圧倒的な速さだし、逃げ道自体の確保は容易そうだ。…しかしこれで終わりではない。
 結局、逃げることはできても逃げ切ることはできないようになっているのだ。この恨みはそういうふうにできている。
「……」
 私が戦えれば。
 そんな分布相応なことを考えては己の無力さに嫌気がさす。
 だってこれは、私に戦闘能力があれば即解決した話なのだ。でも私は何もできない。格闘技なんて技の名前すら知らないし、武器になりそうなものなんて持っちゃいない。戦闘力皆無。
 というかそもそも、私がわがまま言わなければこんなことにはなっていなかったはずだ。
 私の全勇気を振り絞って言ったわがままだったが、結局私が想像していたより迷惑な話だったらしい。文字通り後生だからなんて思っていた。後生だろうがなんだろうが恨みは容赦がないらしい。
 駄目だ、こんなことを考えても仕方ない。後悔先に立たずだ。今、この状況で、私は何ができる?
 …………何が……
 全く思いつかない。
 いやだめだ考えろ諦めるな。幸い藍玉は道を作ってくれている。運が良ければ、恨みが少ないタイミングで本体が顔を出すかもしれない。
「ねェねェ知ってる?」
 うるさい黙れ。今は貴方達の声に耳を傾けている場合じゃないんだ。
「香澄サンって足手纏いなんだっテ~!」
「香澄サンは何もできないんだっテ~!」
「香澄サンのせいで藍玉も夜狐も傷つくんだヨ~!」
 やめろ黙れ。私はそういうことを言われると真っ直ぐに受け止めて一人反省会でその他の思考が全停止する。
 でも事実だ。
 どう足掻いてもそれは──事実なわけだし。
 良い方にコロッと変わることもなければ消えることもない。
 …噂の中にたまに混ざった真実が、一番怖いんじゃないだろうか。
「香澄、こっち!」
 藍玉が階段に続く廊下で、視界に映っている限りの最後の恨みを薙ぎ倒した。そのまま二人で──一人と一匹で、階段を駆け降りる。
 踊り場まで駆け降りた所で、再び下から恨み達が駆け上がってきた。まず間違いなく私の恨みだ。一度戻る──という選択肢はない。戻ったってまた花の大群に囲まれるだけだ。まぁ、進んでもそうかもしれないが。
「一旦下がってな!全員蹴散らすから──」
 その言葉に従い踊り場の端の方に移動する。道作りは任せ、私はそっと自分の影を──存在しないはずの影を見た。
 それは先ほどより揺らいでおらず、本当にただの影としてそこにいた。まだ出てくる気配はなさそうだな、と安堵して視線を前に戻す。
 藍玉が右前脚を巨大化させて振り翳しているのが見えた。
 ──瞬き。
「えっ」
 瞬きをした。
 したことと言ったらそれくらいだ。
 別に私は召喚の呪文なんて呟いていないし、魔法陣を描いた覚えもない。ただ突っ立って、ほぼ無意味に等しい呼吸をしながら一度瞬きをしただけである。
 だというのに。
 一瞬目を閉じて開けたら──もうここまで言ったらわかるだろう。語らずとも悟ってくれるだろう。正直この状況と私の心境を言語化して表現しきるのは不可能だと、私は諦め切っている。
 一面の花。
 階段の踊り場を、真ん中から真っ二つに裂くように──いいや、それは踊り場だけに限らなかった。
 少なくとも私の視界に収まる分では、私と藍玉の間に一部の隙も作らず並んで──壁となっている。
 ふざけている。
 もうここまできたらふざけてるとしか言いようがない。
 そもそもこれだけの数、どこから出てきたんだ?いや、わかる、私の影──本体が生み出して瞬時にこう配置させたんだろう。わかる。
 だからってこれは、なんというか。
 執念という言葉では言い表せそうもない。
 とまぁ細かいことは置いておくとして、私は藍玉と突き放されてしまった。
 ということはつまり──
 影が激しく暴れ出す。揺れ動いている。駄々をこねる子供のように、かつ私を嘲笑うように。
「香澄ッ!」
 花の壁越しに藍玉の声が聞こえた。それに返事をする余裕はない。視線は今にも立体となって出てきそうな私の影に釘付けになっている。
 瞬きの前に見た状況から察するに、藍玉は今かなりの量の恨みと対峙している。壁を破壊しようと思ってもまずそちらをどうにかしない限り手が開かない。全体の巨大化ができるまではあとどれくらいなのかはわからないが、どっちにしたってまぁ、この壁の破壊まで十秒はかかるんじゃないだろうか。
 十秒。
 この十秒は、多分一日よりも長い。

 一。

 影の揺らぎの勢いが増した。足が本能的にこの場から離れようと動く。影なら着いてくるからなんの意味もないか──と思ったら、影は踊り場の床から壁にすぅっと登っていって私の足元からは離れた。揺らぎは増すばかりである。その揺らぎからか、影に口ができている気がした。その口は笑っている。夜空にぽっかり浮いた三日月のように、笑っている。

 二。

 影が離れてくれたのを良いことに私はその場から離れようとがむしゃらに走り出す。
 しかし足を踏み出すことは──良いや、二歩目を踏み出すことはできなかった。
 何かが左足に絡まって、もつれて転んでしまった。幽体だと言うのに床に体を打ちつけて痛みに歯を食いしばる。
 何が絡まったのかは一目瞭然。なんなら見ないでもわかる。
 影だ。
 私から離れたはずの影が──恨みが、今度は三次元へ侵食して私の足に絡みついてきたのだ。
 逃げられない──と、そう思った。それしか思えなかった。

 三。

 とうとう影が姿形となって、つまり恨みとなってそこに現れた。
 できる限り私が見たままにその姿を説明しようと思うが、期待はしないで欲しい。なにしろ異形の形すぎて、私の語彙力では説明しきれそうもないのだ。
 まず頭部と思われる部分に、お馴染みのあの花があった。と言ってもなんだか少しグレードアップしているように思う。サイズ的にはその辺のものの三倍はあるだろうか?笑う口から見える牙も、恐ろしく鋭い。
 体はまるで作るのに失敗したみたいな、グチャグチャな肉の塊だった。ところどころから人間の手足のなり損ないみたいなものが生えていて、痙攣するようにピクピク動いている。皮膚も何もなく、ただ肉が剥き出しになっているみたいな。
 そんな見るからに害のあるものが私の目の前にいて、しかも左足を拘束されているとなるともう絶望以外の選択肢はない。
 花の壁の向こうで絶え間なく断末魔が聞こえる。それは藍玉が恨みを順調に、そして迅速に片付けてくれてることの証明だった。だが同時に、それは恨みが絶え間なく藍玉を襲っていることの証明でもある。
 しかしそれすら、気にかけている余裕はない。
 
 四。

 本能的に体がここから逃げ出したがっていた。それに従うように足を動かそうとするが、左足に巻き付いた恨みの体の一部──そうとしか言いようがない──は私を離すつもりは微塵もないようだ。
 しかし無理だとわかっていても体はいうことを聞かない。無謀だというのに違和感の残る左足を無視して立ち上がって走り出した。だが当然、左足が突っ張って転ぶ。わかり切った結果なのに、どこか悔しかった。

 五。

 恨みがその巨大な体躯を折り曲げ、私を覗き込む。その口は大きく開かれていて、今にもばくんと喰われそうだった。というか喰われる。食おうとしてる。私を。こいつは。
『絶対恨みに呑まれるなよ!』
 呑まれたら何かまずいのだろうか。いや、私からしたらそうなったら非常に良くないが。
 私が呑まれたらこいつがパワーアップでもするのだろうか。
 いやだ、流石にそこまで迷惑をかけたくない。でもどうしようもない。
 起きあがろうと腕に力を込めたが、ふと左足を見ると先ほどまではくるぶしのあたりに巻き付いていただけだったが、膝の辺りまで侵食していた。
 これでは立つこともままならない。
「キシッ」
 どうやらこの十秒間を私は越せないらしい。

 六。

 いいや、まだ諦めるのは早いかもしれないと私はしゃがみ込んだまま周囲を見渡す。何か使えるもの、どうにかできそうなもの、何か、何か──なんて言ったって、ほぼ意味のない行動だという自覚はもちろんあった。
 これが私だけの問題だったら私はとっくに諦めていただろうが、今回はそうではない。すでにここにいるという存在自体が迷惑なのだから、夜狐と藍玉にできるだけ要らぬ迷惑はかけたくない。
 だがそんな思いだけで解決策が見つかるはずもなく、なんの進展もないまま恨みの顔がさらに近づいてきた。
 せめてもの抵抗だと思って拳を握ってみるが、やめた。殴ったら拳が食べられそうだったから。
 壁の向こうの断末魔は止まない。時々藍玉の腕か何かが花の壁にあたっているのか、ミシ、と花たちが軋む。しかしそれがそのまま崩壊するなんてことはなかった。
 参った。
 潔く諦めるしかないのだろうか?

 七。

 ふと座り込んでいる私の手元に何かが当たった。それはコロコロと少し転がって、私を見つめるように動きを止めた。
 蠱惑的に光る、ガチャガチャくらいの大きさの水晶体。
 両親の──恨みの核。
 転んだ時に落としたのだろうか。
 考える余地などない。私はそれを迷わず手に取った。
 熟考して「よしこれを使ってあれをこうしてこうしよう」なんてアイディアを思いつくだけの時間はない。
 使い方など当然わかっちゃいなかったし、賭けにも程があった。でも私に残された可能性はこれしかない。
 なんでもいい、どうにかなってはくれないか。せめてこれで時間だけでも稼げたら──

 八。

 多分無意識だったと思う。
 無意識というか、本能というか、少なくとも考えた結果とかそういうのではない。
 今思えば、『核は武器に改造できる』という夜狐の言葉を頭の片隅で思い出していたのだろう。
 とにかくこの、私の感情の塊に──私は願った。
 神頼み。そういう言葉が似合うだろう。
 何でもいい、この状況を打破できる何か。非力な私でも扱える何か。
 なんだって良いから。
 なんだっていいから。
 お願いだからこれ以上私に、ほとほと愛想を尽かされそうなことをさせないでくれ。
 嫌われたくないし、呆れられたくない。一度そう思われたらそれを覆す手段を私は知らない。
 正直言って好意はあまり嬉しくないけど、嫌われるのはその何倍も恐ろしいから。
 
 九。

 そうやって願ってみたけれど、核はなんの反応も見せなかった。ただお前の現状になど興味ないとでもいうように私の手の中で鎮座している。あぁやっぱりダメかと思う暇もなく、恨みの口が私を呑み込んでしまおうと大きく開いた。
「ひっ、」
 私は本能的に両腕を前に掲げるようにして無意味な抵抗をする。
 両腕を盾にしたところでそれごと呑み込まれるというのに──
 嫌われたくない、呆れられたくない、そしてもっと単純な話をすれば、痛いのは嫌だ。
 それはしばらく忘れていた、痛みへの恐怖。
 言い換えれば助かることへの期待。
 私は何を言ってるんだ。結局最終的に頼れるのは私だけなのに。助けなんか求めたって誰も助けてなんかくれないのに。
 結局みんな、自分が一番可愛いんだから──
 
 十。

 おそらく十秒は経った。だが花の壁が破られる気配はない。当たり前だ、私の見積もりはあくまで予想であって予知ではない。今度こそ本当に頼れるものはない。
 体の半分くらいはもう恨みの口の中に埋もれていると思う。恨みが歯を噛み合わせたら、ブチュンと行く感じ。
 自分を納得させるためだけに掲げていた腕を下げることもできずに、恐怖で無駄に敏感になった五感だけ働かせて、ただそこに座り込んだまま奇跡を願った。

 が、ふと気づく。
 前に掲げた腕に──掌に、違和感があった。
 握っていた核が変形したような気がしたのだ。
 目を開けるのも怖かったがまさかと思って核を握りしめていた右手を見てみる。
 それは──

 ──拳銃。

 ずっしりと確かな重さを持っており、確かに引き金が私の指にかかっていた。
 なんで急に、そもそも何で銃、というかさっきはうんともすんとも言わなかったのに──などというのは後回しにすることにした。というより、考える余裕がなかったんだと思う。
 これは後から気づいたことだが──恨みの核は多分、あのまま自分も呑まれてしまうことを避けようとしたんだと思う。自分まで犠牲になるのは聞いてないぞ、と。だったら仕方ないから力になってやるよ、と。
 やっぱりみんな自分が一番可愛いんだな、と思った。
 幸い腕を掲げていたおかげで銃を構える必要はない。
 
 ──十一。

 そうして私は、衝動的に、能動的に、本能的に──

 引き金を引いた。
 

 なんとか恨みたちの猛追を裁ききり、渾身の一撃で花の壁を破壊した藍玉の目に飛び込んできたのは体を半分呑まれた香澄の姿だった。
「──ッ!」
 間に合うか?いや、あそこまで呑まれている状態では下手をしたら自分の爪で香澄の首を切ってしまう。まず位置が悪い、ここからでは一段階踏まなきゃ香澄を巻き込まないようにできない。
 いやいっそ巻き込むことを前提で、一か八か恨みを裂くか?香澄が呑まれることの方が何倍もまずいんだから──
 などと藍玉が考え、構えた腕を振り抜くか否かで戸惑ったその一瞬──

 パンッ。
 
 そんな乾いた音と共に、恨みの頭が爆散した。
 あまりに突然の出来事に、藍玉は腕を構えたまま固まる。
 爆散した頭の欠片も、恨み本体の体も、なんの余韻もなしに蒸発していき、最後に核だけがコロンと落ちた。それと同時に花の壁も、さぁっと消える。
 しかし藍玉の瞳にそんなものは映っていない。
 そんなものは、どうだっていい。
 なぜなら目の前に、圧倒的な存在感と殺気を纏った──

「………死神…」

 そこには銃を構えた白い悪魔がいた。
 全身に威圧感をまとわりつけて、ピリついた空気が周りを支配している。体が思うように動かない。
 彼女はゆっくりと振り返る。手に持った銃をそっと下ろしながら。
 藍玉は思わずたじろいだ。本能が「殺される」と叫んでいた。そんなことはないとわかっているのだが、それは全身くまなく怪我をして弱っている天敵を見ても体が勝手にすくむような、そんな感覚だった。
「……」
 彼女は何も言わない。何も言わずにただこちらを見つめている。
 藍玉も何も言えない。喉が詰まったような感じがして声が出せないのだ。一度口を開いては空気の塊だけを吐き出して口を閉じる、を繰り返している。
「 」
 彼女が口を開いた。 
 
    ▽ ▲ ▽ ▲ ▽

 少し息を切らした夜狐の瞳に、しゃがみ込む香澄とその横で落ち着かなそうにあたふたしている藍玉──それから床に落ちた恨みの核が映る。
「香澄ちゃん!藍!よかった無事だった…」
 とは言ったものの、しゃがみ込んで軽く俯いている香澄に違和感を覚える。何かあったのではと藍玉の方を見てみるが、軽く目を伏しただけで特に何か言う様子もない。
「…大丈夫?」
 少し近寄って、初めて拳銃の存在に気づく。
 拳銃を握って少し震えている様子からただ事ではないと察し、とりあえず安心させようと夜狐は両膝をついて、香澄に視線を合わせた。
 自分が焦ってはいけないと思って冷静に問いかけようと口を開く。
「…あ、夜狐…」
 それと同時に藍玉も口を開いたが、時すでに遅し。
「香澄ちゃん、それどうし」
「撃っちゃった」
「…ん?」
 ガッ。
 夜狐の両肩口に圧迫感。
「……香澄ちゃ」
「撃った!引き金引いた!撃っちゃった!」
「え、あ、うん」
「パァンって!頭弾けた!」
「まぁそりゃ…撃ったからねぇ…」
「銃刀法違反!?逮捕!禁錮何年!?」
「そんなものがあの世にあるなら僕はとっくに捕まってると思うから大丈夫だよ…」
 泣いてこそいないもののかつてないほど取り乱している彼女に混乱し、どうしたものかと慌てていると藍玉が再び口を開いた。
「…その子呑まれかけたり拳銃作っちゃったり自分の手で恨み倒したりしちゃってパニックになってるから、って言おうと思ったのに……」
「そーいうことは早く言って欲しかったなぁ!!」
 香澄はそんな会話などお構いなしに自分の手に握られた拳銃の存在に慌てふためく。
「夢!?ゆめ!?私が自分で恨み倒しちゃうなんてありえない!!」
「あり得るあり得る、全然可能性あるから一旦落ち着い」
「そもそも何で両親の核が変形するの?!私ダメもとで願っただけなのに!」
「待って待ってほんとにしんこきゅ」
「あと呑まれるなって言われたのに呑まれかけてごめんなさい!」
「いやそれ僕は一言も…って待ってそのへん詳しく」
 それ初耳なんだけど、と夜狐は少し声のトーンを落とした。しかしまだまだ混乱がおさまらない香澄のパニック状態は終わることがない。
「あ、勝手に核使った、ごめんなさいっ!!」
「いやそんなの全然気にしなくていいよ助かった訳だし」
「……やっぱり私が助かってるなんておかしい…!」
「いや全くおかしくない!そうあるべき!」
 そんなやりとりを繰り返しつつ、だんだん平静を取り戻してきた香澄の目に──包帯とそれに染みた血が映った。
「ひだりうでぇーーーー!!」
「あ、忘れてた」
「……」
 そんな二人を「こいつらアホか?」みたいな目で見つめていた藍玉は、ため息をついてそっぽを向いた。
「……気のせいだったのかねぇ…」
 数分前自分が見た彼女と、今ぎゃあぎゃあ喚いている彼女が同一人物とはとても思えない。
 そうだ気のせいだったんだということにして、藍玉は香澄が落ち着くまで横になろうとひとつ伸びをした。
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