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第二十二話:苦しむのも悲しむのも痛がるのも
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千鬼はふらりと立ち上がって、生気の抜けた目――というよりは怒りを通り越して無感情、と言った目で自分の兄を見つめた。
「…千鬼……」
名前を呼ぶと、千鬼はこっちを見て少し口元を緩めた。
「悪ィ。心配かけたな」
俺はその笑顔に全く安心することなど出来ず、しかし止める気にもなれなくて、ただただ千鬼の行動を見守る。
俺達が口を挟んでいい場面ではないことは、さすがの俺でもわかった。
「……千鬼」
「兄貴」
千鬼の立っている位置は、無刀の持っている軍刀の間合いの中だ。無刀がその気になればいつでも斬れる。
…だが信じたかった。いくら裏切ったとは言っても、弟を斬るなんて無刀はしないと信じたかった。
「……大体、わかってるぞ」
無刀をまっすぐに見つめて、千鬼は静かにそう言った。
その言葉に無刀は、一瞬目を見開いたが、その直後いつもの調子で目を細めた。
「わかってる?…何の話だい」
「まだとぼけんのか。何年一緒にいたと思ってやがる」
その上血まで繋がってんだぜ、とそこまで言うと千鬼はひとつため息をついた。
その姿は兄に非常に似ていて――少し背が震えた。
「でもな、兄貴」
ぱんっ。
千鬼が掌を合わせる。
「だからって許せるわけじゃ無ェんだ」
その言葉と共に、大刀がその姿を現した。
怒りと殺意の乗せられた、あまりに禍々しい大刀が。
「千鬼。君では私に敵わない」
無刀は軍刀の切っ先をあげることすらしない。
まずい、と俺達は顔を見合わせた。
千鬼が本気なら、俺達まで巻き込まれるような戦いが起こるはず。ハッカー先輩のいる辺りまでが戦闘範囲となるだろう。俺、すぐる、花依、女郎さん――退かねば、俺達も流れ弾を食らうことになる。
割って入って止めることだって、勿論できない訳じゃない。
しかし、とてもそうする気にはなれない。前述の通り、俺達が口を挟んでいい場面ではないから――それから、もう一つ。
千鬼はあのときと同じ目をしていた。
無刀を探しに行くと言い張ったときの、あの目を――
いいや。あのときよりももっと強い意思をもって。
「別に決闘しようなんて、綺麗なことは言わねェよ」
大刀の切っ先を無刀に突きつけて、睨み付ける。
「喧嘩をしようぜ。兄弟喧嘩って奴をよ」
「…兄弟喧嘩、ねぇ。千鬼が私に勝てたことが、一度でもあったかな?」
そこで無刀は、ようやく軍刀を持ち上げた。
次は手加減しない、とでも言うように無刀の目付きが弟と同じように険しくなっていく。
そうして、段々と――
あれ程までに正反対だった兄弟が、目を疑うほどにそっくりになっていった。
「……ッ…すぐる、退くぞ!」
「うん、わかった…でも……」
「…今は、俺達は見てるしかできねぇ!」
今にも振り抜かれそうな互いの刀、それが牙を向く前に一番近くにいたすぐるを引っ張って。攻撃範囲から逃れるべく足を進ませる。
その瞬間――
パシュッ。
そんな爽快感を含む音が聞こえた。
見ると――
「――ッ!」
複数の、太い枝が。いいや、もはや幹とも呼べる太さの枝が。
上から、降って――
無刀だ。無刀の軍刀から生み出した衝撃波で、軍刀の間合いでは届かないような高さの枝をっ…
…まずい、巻き込まれる。俺のバットもすぐるのヨーヨーも間に合わない。
俺はともかく、すぐるにこれが当たるのはまずい。俺はすぐるをこちらに引き寄せて、上から庇うように覆い被さった。
しかし、予想していた衝撃が訪れることはなく――代わりに、細かい破片がパラパラと当たる感覚がした。
「…女郎さん!」
「…ッチ、いくらなんでもあれだけのモンを、しかもあの高さから落ちてきたモンをアンタ一人で支えるなんて無理だっての。アンタごとそこの娘も潰れるよ」
女郎さんを見上げながら、俺は数秒ぼぉっとし、はっと我に返って礼を言った。
「あっ、ありがとうございます…」
「礼はいい、行くよ」
女郎さんは俺達の背中を押し、早く行くように促す。それに従い、周囲を警戒しつつも素早くハッカー先輩のいる方へ駆けた。
「二人とも大丈夫!?…ていうか、枝、自分で勝手に斬れたように見えたけど…」
「あぁ、あれは女郎さん…えーと、俺が狙われてる理由の女郎蜘蛛が斬ってくれたんですよ」
「あ、例の…なるほどね」
ハッカー先輩は納得したようにぽん、と手を打った。
「…俺より、あいつらが…」
さっきの枝の雨を、千鬼はどうにかできたのだろうか。そう心配しながら振り返ると――
さすが、とでも言うべきか。
枝は全て千鬼の大刀の餌食になり、無惨に切り刻まれ地面に散らばっていた。
そして、まだ全ての木の破片が地面に落ちきらぬ間に千鬼は無刀に突っ込んでいく。
峰打ち――ではない。
お互いに、刃を向けて。
一歩でも間違えれば互いに大怪我をしかねない。既に兄弟喧嘩の範疇を越えていた。
「…っ、おいハッカー先輩!見てられない、止めてくれ!あいつを、あいつらをっ…」
花依が悲痛に叫ぶ。
しかし、ハッカー先輩は歯を食いしばるのみで花依の叫びに答えようとはしない。
「駄目だ…俺らが止めたんじゃ、どっちも納得しない。……決別するあの兄弟を、見たくはないんだ…っ」
花依はその言葉に顔を歪めた。
確かに、あいつらの仲がズタズタになるところなんて見たくない。
しかし――あいつらが傷つけ合うところも、見たくはない。
千鬼が一度刀をしまい、無刀に突っ込んでいく。刀がない分、千鬼の方が身軽だ。
無刀は軍刀を振るが、その軍刀の捕らえる先に既に千鬼はいない。素早く無刀の懐に潜り込んだ千鬼は、そのままアッパーを食らわせるように下から拳を振り上げる。
が、無刀は頭を後ろに仰け反らせて回避。しかしその動きで体のバランスが少し崩れたのも事実――その瞬間を千鬼は見逃さない。
すかさず無刀の服を引っ張り、後ろに倒した。刀を抜く暇はない、そのまま拳を構える。
「甘いね、千鬼」
その言葉に、千鬼はすぐさま横にゴロゴロと転がった。
――先程まで千鬼が居た場所に、衝撃波が発生していた。
「大丈夫、たとえ当たってても死なない程度の出力にしてある…でも甘い。あの時私が声をかけなければ、千鬼はどうなってたかな?」
「……っ」
千鬼は悔しそうに歯を食いしばる。
「どうした?かかっておいで。幸い、彼らも私達の邪魔をする気はなさそうだ…ほら、千鬼」
「…お望み通り、ボコボコにしてやるよ……クソ兄貴」
千鬼は手を合わせ、今度こそ――刀を抜いた。
* * *
ある家庭に、それはそれは仲の良い兄弟がおりました。
家庭も円満で、優しい父母に囲まれのびのびと育った二人は、楽しいことも苦しいこともお互いに分け合いながら過ごしてきました。
――そんなものはまやかしでした。
「母さん、父さんはまだ帰ってこないの?」
パール色の髪を持つ幼い兄弟は、台所に立つ母を見上げながら問うた。
「う~ん…まだお仕事が終わらないんだって。仕方ないから、今日はお母さんと三人で食べましょ?」
「ん…わかった。父さんはお仕事いっぱい頑張ってるから、仕方ないね!」
そう言うと、よく似た兄弟は顔を見合わせて頷き、母親の料理の配膳を手伝い始める。
「「いただきまーす!」」
「はい、召し上がれ」
兄弟は元気いっぱいに夕飯にがっついた。その日の夕飯は、兄弟の好きなハンバーグだった。
「母さんのハンバーグおいしい!おれ、世界でいちばん好き!」
「おれだって!おれのほうが母さんのハンバーグ好きだもん!」
「なにおう、千鬼、おれだ!」
「ちがうもん!兄ちゃんのバカ!おれのほうが好き!」
「はいはい、二人とも大好物みたいでお母さん嬉しいわ~。それと、食事中に喧嘩しないの!」
「「はぁーい!」」
それはあまりに幸せな光景。
平和で、平凡で、どこにでもありそうな、ありふれた幸福。
まるで大地震の前の海原のように――
穏やかな、風景。
ピンポーン。
玄関の呼び鈴が鳴った。
「あら…宅配かしら?きっとお父さんの荷物ね」
「おれ、出るー!」
「千鬼ぃ、早く戻ってこいよー」
「あぁ、千鬼待ちなさい、お母さんも行くから…」
小さな子供というのはやはりすばしこいもので、あっという間に玄関についてしまった。彼は――千鬼は、来客の姿にほんの少しの期待と興奮を覚えつつドアを開ける。
「どちら様ですかっ!」
小さな体で必死にドアノブを捻ったものだから、彼の体はドアの外側からではほとんど見えない状態であった。ひょこっと顔を覗かせ、来客の姿をこの目におさめようとする。
しかしそれが叶うことはなかった。
「ぅあっ…」
ドアが外側から勢いよく開かれ、その勢いで千鬼は外に放り出される。どうやら来客は男のようだ。でなくば子供が吹っ飛ぶほど強くドアを引っ張れるものか。
――受け身をとらないと――!
橘兄弟が武道に打ち込み始めたのはそれぞれ三歳の頃である。
故にこの程度の衝撃は、彼にとっては何でもない。正しく受け身をとって、素早く立ち上がる。
…既に男は家の中へ入り込んでいったようだ。
状況が理解できないまま、千鬼はひとまず家の中へと戻る。
「キャーーーーッ!」
……母さん。母さんの声だ!
その声に背中を押され、千鬼は弾かれたように走り出した。土足で踏み込んだのであろう、男の足跡をたどって。
「くそっ!お前らの父親のせいで俺は仕事を失ったんだぞ!死ねぇ!」
男はナイフを持ち、ぶるぶると震えていた。
しかし、母親と兄はそれ以上に震えている。
幼い千鬼にも理解できた。――殺される、と。
男がナイフを振りかぶる。母親は無刀を自分ごと横に突き飛ばすように転がった。
男の斬撃が、机をいとも容易く――一度の斬撃とは思えない入り組んだ切り口で、切断する。
――ナイフが、曲がったのだ。
そういった系統の異能力者――
母親は何とか息子達だけでも助かる方法を考えた。しかし、彼女の異能は決して戦闘向きではない。息子達の異能ならあるいは――とも思ったが、この状況で幼い子供に戦うことなど出来るはずも無い。
そもそも息子にこんな戦いをさせるなど、母親失格になってしまう。
相手の異能――ナイフが自在に曲がるのだとしたら、盾を掲げたところで無駄であろう。
「かっ、母さん!兄ちゃん!」
千鬼は叫ぶ。恐怖で震えた声帯のせいか、その声は彼自身が想像していたものより大きかった。
「千鬼!逃げろ!」
無刀もまたそれにつられたように叫ぶ。
その叫び声に、緊張で敏感になったナイフの男の情緒は破裂した。
「うぁぁぁあっ!」
再び男はナイフを振りかぶる。
その瞳の捉える先は――
「ひっ」
千鬼だった。
どうしよう、避けないと、武道で教わったじゃないか、動け、動け――!
しかし体は細かく震えるばかりで、一向に思い描いたとおりに動きはしない。瞳は男のナイフに釘付けになり、思考は恐怖で埋め尽くされていく。
これが足が竦むという感覚か――
などと頭のどこかで考えていると、あっという間にナイフは目の前に迫っている。
「…あ」
ナイフが柔らかい肉に刺さった時の、ずぶり、という鈍い音がした。
血がナイフを伝って地面にぽたぽたと落ちる。
「……か」
ただし、それは。
血を流していたのは――
「…母、さん」
千鬼から――背中側から見れば、母親はいつも通りだった。
台所に立つ背中を眺めていた時と、何らかわりない背中――
しかし、いつもと違うのは、母親の足元に血だまりができつつあること。
「――ッ!」
無刀は本能で足を動かした。
母さんが刺された。ならば、助けを呼ばなくては。
弟を守らなくては――
「っはぁ…っはぁ…」
一人刺して勢いがついたのか、男は息を切らしながらも次の標的へ狙いを定める。
それは無論――崩れ落ちた母親に泣いて縋る子供。
「千鬼!駄目だ、逃げろって!」
無刀は千鬼の元に走った。
「にっ、にいちゃ、母さんが、母さんが」
涙で滲みきった視界には、ナイフは映らないようだった。
男が目の前でナイフを振り上げているにも関わらず、千鬼はそこを動こうとしない。
「――千鬼!」
男がナイフを振り下ろし、無刀が千鬼を突き飛ばした。
…無刀の方が、幾分か速かった。
「うっ…」
突き飛ばされて頭を打った千鬼は、その痛みでほんの少し冷静になり起き上がる。
そして心底後悔した。
あのまま起き上がらなければ良かった、と。
目を開けなければ良かった――と。
つい先程まで仲良く食卓を囲んでいたはずのリビングは、血の海と化していた。
母親の出血――しかし、それ以上に。
「……が、っぅ…」
兄が。自分の片割れが。
左肩から右脇腹にかけて――真っ赤な鮮血をしぶかせている。
袈裟斬りだ。
それによって激しく飛び散った血は、千鬼の足元まで及んでいる。
「あ……あぁぁ……」
おれのせいだ。
おれが動けなかったから、二人とも、おれをかばって――
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
それは、まだ小学校に上がったばかりの子供には受け止めきれない事実だった。
千鬼は頭を抱えてうずくまった。その体は先程までとは比べ物にならないほど震え、その体勢を維持できずに横に転がる。
そうして抵抗などできるはずもない状態の千鬼を男は一笑し、ナイフを構える。
「……ぎぃっ…」
しかし、その男の背後で――
下手をすればそこから体が裂けるのではないか、という程の傷を負った、小さな子供が起き上がった。
肩の傷を押さえながら、必死に手を伸ばして床に落ちた箸を掴みとる。
…男は、そんな無刀の行動に気づいているのかいないのか、振り返ることはしなかった。こんな大怪我をした子供にできることなどないと踏んだのだろうか。
千鬼は焦点の定まらない瞳で、そんな兄の姿を捉えた。
「………っ!――兄ちゃ」
「っあぁぁぁ!」
無刀は箸を振った。
相当な速度で、振った。
無刀の叫び声に男は驚いて振り返る。しかしその首が回りきることはなかった。
――竜巻状の、人の肉を簡単に切り裂く衝撃波が――
「ぎっ…があああっ!」
男の足を、ズタズタに切り裂いた。
その血しぶきは千鬼の全身にびちゃびちゃとまだらにかかる。生暖かい血液は、皮肉なことに母親に抱き締められたときの暖かさに似ていた。
「………、兄ちゃっ、」
足を押さえてうずくまる男を無視して、千鬼は兄と母親の元に駆ける。
「兄ちゃん!母さん!」
二人を揺するが、返事はない。母親に至っては、既に氷のように冷たくなっていた。
子供ながらに――わかってしまった。
ああ、母さんはもう駄目なのだ――と。
「……にっ、兄ちゃん!兄ちゃん!」
箸を振り抜いた姿勢のまま倒れた兄に必死で呼び掛ける。揺すったら体が裂けるかもしれない、という恐怖から触れることすらはばかられたが、それでも必死に兄を起こそうと頬をぺちぺち叩いたり耳元で叫んだりを繰り返した。
一緒に逃げたかったのだ。
一緒に生きたかったのだ。
「……せ、んき」
地面に顔を突っ伏したまま、掠れた声で兄は弟の名前を呼んだ。
「!兄ちゃん!」
「……にげろ」
ゆっくりと首を回し、無刀は千鬼と目を合わせた。髪の毛の向こうにうっすらと見える緋眼が優しげに細められる。
「あいつ…まだ、息…、ぁる…だから、早く」
早く行け――
赤が見えなくなった。
そこらじゅうにいやという程赤は飛び散っているが――唯一生気を保っていた赤が、見えなくなってしまった。
その後の千鬼の記憶は、ない。
話を聞く限り、千鬼は外に走り出て偶然そこを通った通行人に助けを求めたらしい。
ほどなくして救急車と警察がやって来て、母親はそこで死亡が確認された。無刀は意識こそなかったものの、集中治療室に運び込まれなんとか一命を取り留めた。
こうして、母親の葬儀も無事執り行われ、無刀は順調に回復し、千鬼はカウンセラーにかかり――徐々に平穏な日々が戻りつつあった。
まだ兄弟の絆は固く繋がったままである。
まだなにも知らなかったから。
表面上の事実を受け止めることに精一杯だった彼らは、まだ諸悪の根元に気づける程成長してなどいなかったから。
諸悪の根元が存在することにすら気づけない程――彼らは世界の闇を知らなかった。
* * *
「…っ、何でだよ兄貴!」
千鬼の大刀と無刀の持つ軍刀が、互いの主人を切り伏せようとぶつかり合う。
刀同士の押し相撲に勝利したのは――軍刀。
その切っ先を、千鬼は後ろにのけぞってその勢いでバク転を決め、避けた。
「他にいくらでも方法はあっただろ!兄貴はこんだけ強ぇんだからっ…選択肢なんて、いくらでもっ!」
「…千鬼」
吠えるように叫ぶ千鬼の言葉を、無刀は少しだけ眉間に皺を寄せて聞いていた。
「…生徒会に何を吹き込まれたかは知らねェが……兄貴はんなことする人間じゃねェだろ!少なくとも、兄貴にとっていい条件を出されたからといって生徒会に尻尾振るなんて絶対に有り得ねえ!」
だって兄貴は生徒会のこと嫌いだろ――
「…誰かの命が、絡んでたんだろ?」
急に弱々しくなった声で千鬼は呟いた。
「……こうするしかなかった」
無刀は暗い瞳で呟く。千鬼の瞳と同じ色のはずなのに、全く別物の瞳のように見えた。
「たった一人が死ねば――他の全員が生きていられた。死の危険にさらされることも、勿論ないと…」
――大方、こういうことだろうか。
生徒会に、蓮田谷真里を殺せば――他の全員の命を助けてやると言われた、と。
「生徒会は、私が蓮田谷真里を殺せなければ、君を」
無刀の顔がぐしゃりと歪んだ。
「千鬼を、殺すと」
そう言われたのだと――無刀は打ち明けた。
その言葉に千鬼は目を見開いたまま固まる。
俺達もそうだ。開いた口も塞がらないまま、無刀の次の言葉を待つ。
「ああまでして君を守ってきた。それを今さら奪われるのが――悔しかった」
無刀は含みのある言い方で呟く。
おそらくこの話は、あの兄弟にしかわからない。
「…は」
千鬼は額に血管を浮かばせて歯を食い縛った。
「…つまり、なんだ?兄貴は、俺のことを、自分のことも自分で守れねぇ愚図だって――そう思ってたってことか?」
「…だってそうだろ」
あの時、千鬼は泣きじゃくっていただけじゃないか。
その言葉に、千鬼はその大刀を無刀に投げつけた。
無刀はあえて避けず、甘んじてその攻撃を受け入れる。幸い刃の方は向いていなかったので、ただ鈍い音が鳴っただけだった。
「…百万歩ぐれェゆずって、兄貴が俺を信用できなかったのは認めてやるよ。だがなァ!なんでここにいるこいつらを信じてやらなかったんだよ!全員で生徒会に立ち向かうんだって決めただろ!死ぬ可能性なんて全員平等にあったじゃねぇか!だっつーのに、なんで生徒会なんかの言葉を真に受けてっ――」
「世界がそんな綺麗事で回っていいはず無ぇだろうが!」
一瞬、誰かわからなかった。
まるで千鬼のような口調で叫んだ無刀は、はっと口元を押さえ、一度深く息を吐く。
「…千鬼は何も知らないから……そんなことを言えるんだろう?誰かを信じるなんて、数少ない人間にしかできないことなんだよっ…」
苦しそうに、呻くように無刀は言葉を絞り出す。
「私がやるしかない。自分でやるしかない。他人任せになんてできない――私が、苦しむことでしか、何も解決しない」
そう言うと、無刀は重力のまま下げていた軍刀を上げる。その動きに千鬼は身構えた。ついさっき大刀は投げてしまったから、素手で戦う構えを――
「……君達が私を殺すのが、いちばんよかったのに」
軍刀が、首に押し当てられる。
――その軍刀の持ち主の首に…押し当てられる。
「私が失敗して返り討ちにあったというなら――君達の中の誰か特定の人が、狙われることはなくなる」
作戦は、私がいなくなるだけで問題なく進行することができる。
無刀の瞳から一筋の涙が流れた。
それと同時に、首筋から一筋の血が――
千鬼とハッカー先輩が、一番先に反応した。少し遅れて俺、すぐる、花依も動く。
「生徒会には、君達の中の誰かが私を殺したと言ってくれ」
芝生に倒れ込む音が、やけに優しく響いた。
「…千鬼……」
名前を呼ぶと、千鬼はこっちを見て少し口元を緩めた。
「悪ィ。心配かけたな」
俺はその笑顔に全く安心することなど出来ず、しかし止める気にもなれなくて、ただただ千鬼の行動を見守る。
俺達が口を挟んでいい場面ではないことは、さすがの俺でもわかった。
「……千鬼」
「兄貴」
千鬼の立っている位置は、無刀の持っている軍刀の間合いの中だ。無刀がその気になればいつでも斬れる。
…だが信じたかった。いくら裏切ったとは言っても、弟を斬るなんて無刀はしないと信じたかった。
「……大体、わかってるぞ」
無刀をまっすぐに見つめて、千鬼は静かにそう言った。
その言葉に無刀は、一瞬目を見開いたが、その直後いつもの調子で目を細めた。
「わかってる?…何の話だい」
「まだとぼけんのか。何年一緒にいたと思ってやがる」
その上血まで繋がってんだぜ、とそこまで言うと千鬼はひとつため息をついた。
その姿は兄に非常に似ていて――少し背が震えた。
「でもな、兄貴」
ぱんっ。
千鬼が掌を合わせる。
「だからって許せるわけじゃ無ェんだ」
その言葉と共に、大刀がその姿を現した。
怒りと殺意の乗せられた、あまりに禍々しい大刀が。
「千鬼。君では私に敵わない」
無刀は軍刀の切っ先をあげることすらしない。
まずい、と俺達は顔を見合わせた。
千鬼が本気なら、俺達まで巻き込まれるような戦いが起こるはず。ハッカー先輩のいる辺りまでが戦闘範囲となるだろう。俺、すぐる、花依、女郎さん――退かねば、俺達も流れ弾を食らうことになる。
割って入って止めることだって、勿論できない訳じゃない。
しかし、とてもそうする気にはなれない。前述の通り、俺達が口を挟んでいい場面ではないから――それから、もう一つ。
千鬼はあのときと同じ目をしていた。
無刀を探しに行くと言い張ったときの、あの目を――
いいや。あのときよりももっと強い意思をもって。
「別に決闘しようなんて、綺麗なことは言わねェよ」
大刀の切っ先を無刀に突きつけて、睨み付ける。
「喧嘩をしようぜ。兄弟喧嘩って奴をよ」
「…兄弟喧嘩、ねぇ。千鬼が私に勝てたことが、一度でもあったかな?」
そこで無刀は、ようやく軍刀を持ち上げた。
次は手加減しない、とでも言うように無刀の目付きが弟と同じように険しくなっていく。
そうして、段々と――
あれ程までに正反対だった兄弟が、目を疑うほどにそっくりになっていった。
「……ッ…すぐる、退くぞ!」
「うん、わかった…でも……」
「…今は、俺達は見てるしかできねぇ!」
今にも振り抜かれそうな互いの刀、それが牙を向く前に一番近くにいたすぐるを引っ張って。攻撃範囲から逃れるべく足を進ませる。
その瞬間――
パシュッ。
そんな爽快感を含む音が聞こえた。
見ると――
「――ッ!」
複数の、太い枝が。いいや、もはや幹とも呼べる太さの枝が。
上から、降って――
無刀だ。無刀の軍刀から生み出した衝撃波で、軍刀の間合いでは届かないような高さの枝をっ…
…まずい、巻き込まれる。俺のバットもすぐるのヨーヨーも間に合わない。
俺はともかく、すぐるにこれが当たるのはまずい。俺はすぐるをこちらに引き寄せて、上から庇うように覆い被さった。
しかし、予想していた衝撃が訪れることはなく――代わりに、細かい破片がパラパラと当たる感覚がした。
「…女郎さん!」
「…ッチ、いくらなんでもあれだけのモンを、しかもあの高さから落ちてきたモンをアンタ一人で支えるなんて無理だっての。アンタごとそこの娘も潰れるよ」
女郎さんを見上げながら、俺は数秒ぼぉっとし、はっと我に返って礼を言った。
「あっ、ありがとうございます…」
「礼はいい、行くよ」
女郎さんは俺達の背中を押し、早く行くように促す。それに従い、周囲を警戒しつつも素早くハッカー先輩のいる方へ駆けた。
「二人とも大丈夫!?…ていうか、枝、自分で勝手に斬れたように見えたけど…」
「あぁ、あれは女郎さん…えーと、俺が狙われてる理由の女郎蜘蛛が斬ってくれたんですよ」
「あ、例の…なるほどね」
ハッカー先輩は納得したようにぽん、と手を打った。
「…俺より、あいつらが…」
さっきの枝の雨を、千鬼はどうにかできたのだろうか。そう心配しながら振り返ると――
さすが、とでも言うべきか。
枝は全て千鬼の大刀の餌食になり、無惨に切り刻まれ地面に散らばっていた。
そして、まだ全ての木の破片が地面に落ちきらぬ間に千鬼は無刀に突っ込んでいく。
峰打ち――ではない。
お互いに、刃を向けて。
一歩でも間違えれば互いに大怪我をしかねない。既に兄弟喧嘩の範疇を越えていた。
「…っ、おいハッカー先輩!見てられない、止めてくれ!あいつを、あいつらをっ…」
花依が悲痛に叫ぶ。
しかし、ハッカー先輩は歯を食いしばるのみで花依の叫びに答えようとはしない。
「駄目だ…俺らが止めたんじゃ、どっちも納得しない。……決別するあの兄弟を、見たくはないんだ…っ」
花依はその言葉に顔を歪めた。
確かに、あいつらの仲がズタズタになるところなんて見たくない。
しかし――あいつらが傷つけ合うところも、見たくはない。
千鬼が一度刀をしまい、無刀に突っ込んでいく。刀がない分、千鬼の方が身軽だ。
無刀は軍刀を振るが、その軍刀の捕らえる先に既に千鬼はいない。素早く無刀の懐に潜り込んだ千鬼は、そのままアッパーを食らわせるように下から拳を振り上げる。
が、無刀は頭を後ろに仰け反らせて回避。しかしその動きで体のバランスが少し崩れたのも事実――その瞬間を千鬼は見逃さない。
すかさず無刀の服を引っ張り、後ろに倒した。刀を抜く暇はない、そのまま拳を構える。
「甘いね、千鬼」
その言葉に、千鬼はすぐさま横にゴロゴロと転がった。
――先程まで千鬼が居た場所に、衝撃波が発生していた。
「大丈夫、たとえ当たってても死なない程度の出力にしてある…でも甘い。あの時私が声をかけなければ、千鬼はどうなってたかな?」
「……っ」
千鬼は悔しそうに歯を食いしばる。
「どうした?かかっておいで。幸い、彼らも私達の邪魔をする気はなさそうだ…ほら、千鬼」
「…お望み通り、ボコボコにしてやるよ……クソ兄貴」
千鬼は手を合わせ、今度こそ――刀を抜いた。
* * *
ある家庭に、それはそれは仲の良い兄弟がおりました。
家庭も円満で、優しい父母に囲まれのびのびと育った二人は、楽しいことも苦しいこともお互いに分け合いながら過ごしてきました。
――そんなものはまやかしでした。
「母さん、父さんはまだ帰ってこないの?」
パール色の髪を持つ幼い兄弟は、台所に立つ母を見上げながら問うた。
「う~ん…まだお仕事が終わらないんだって。仕方ないから、今日はお母さんと三人で食べましょ?」
「ん…わかった。父さんはお仕事いっぱい頑張ってるから、仕方ないね!」
そう言うと、よく似た兄弟は顔を見合わせて頷き、母親の料理の配膳を手伝い始める。
「「いただきまーす!」」
「はい、召し上がれ」
兄弟は元気いっぱいに夕飯にがっついた。その日の夕飯は、兄弟の好きなハンバーグだった。
「母さんのハンバーグおいしい!おれ、世界でいちばん好き!」
「おれだって!おれのほうが母さんのハンバーグ好きだもん!」
「なにおう、千鬼、おれだ!」
「ちがうもん!兄ちゃんのバカ!おれのほうが好き!」
「はいはい、二人とも大好物みたいでお母さん嬉しいわ~。それと、食事中に喧嘩しないの!」
「「はぁーい!」」
それはあまりに幸せな光景。
平和で、平凡で、どこにでもありそうな、ありふれた幸福。
まるで大地震の前の海原のように――
穏やかな、風景。
ピンポーン。
玄関の呼び鈴が鳴った。
「あら…宅配かしら?きっとお父さんの荷物ね」
「おれ、出るー!」
「千鬼ぃ、早く戻ってこいよー」
「あぁ、千鬼待ちなさい、お母さんも行くから…」
小さな子供というのはやはりすばしこいもので、あっという間に玄関についてしまった。彼は――千鬼は、来客の姿にほんの少しの期待と興奮を覚えつつドアを開ける。
「どちら様ですかっ!」
小さな体で必死にドアノブを捻ったものだから、彼の体はドアの外側からではほとんど見えない状態であった。ひょこっと顔を覗かせ、来客の姿をこの目におさめようとする。
しかしそれが叶うことはなかった。
「ぅあっ…」
ドアが外側から勢いよく開かれ、その勢いで千鬼は外に放り出される。どうやら来客は男のようだ。でなくば子供が吹っ飛ぶほど強くドアを引っ張れるものか。
――受け身をとらないと――!
橘兄弟が武道に打ち込み始めたのはそれぞれ三歳の頃である。
故にこの程度の衝撃は、彼にとっては何でもない。正しく受け身をとって、素早く立ち上がる。
…既に男は家の中へ入り込んでいったようだ。
状況が理解できないまま、千鬼はひとまず家の中へと戻る。
「キャーーーーッ!」
……母さん。母さんの声だ!
その声に背中を押され、千鬼は弾かれたように走り出した。土足で踏み込んだのであろう、男の足跡をたどって。
「くそっ!お前らの父親のせいで俺は仕事を失ったんだぞ!死ねぇ!」
男はナイフを持ち、ぶるぶると震えていた。
しかし、母親と兄はそれ以上に震えている。
幼い千鬼にも理解できた。――殺される、と。
男がナイフを振りかぶる。母親は無刀を自分ごと横に突き飛ばすように転がった。
男の斬撃が、机をいとも容易く――一度の斬撃とは思えない入り組んだ切り口で、切断する。
――ナイフが、曲がったのだ。
そういった系統の異能力者――
母親は何とか息子達だけでも助かる方法を考えた。しかし、彼女の異能は決して戦闘向きではない。息子達の異能ならあるいは――とも思ったが、この状況で幼い子供に戦うことなど出来るはずも無い。
そもそも息子にこんな戦いをさせるなど、母親失格になってしまう。
相手の異能――ナイフが自在に曲がるのだとしたら、盾を掲げたところで無駄であろう。
「かっ、母さん!兄ちゃん!」
千鬼は叫ぶ。恐怖で震えた声帯のせいか、その声は彼自身が想像していたものより大きかった。
「千鬼!逃げろ!」
無刀もまたそれにつられたように叫ぶ。
その叫び声に、緊張で敏感になったナイフの男の情緒は破裂した。
「うぁぁぁあっ!」
再び男はナイフを振りかぶる。
その瞳の捉える先は――
「ひっ」
千鬼だった。
どうしよう、避けないと、武道で教わったじゃないか、動け、動け――!
しかし体は細かく震えるばかりで、一向に思い描いたとおりに動きはしない。瞳は男のナイフに釘付けになり、思考は恐怖で埋め尽くされていく。
これが足が竦むという感覚か――
などと頭のどこかで考えていると、あっという間にナイフは目の前に迫っている。
「…あ」
ナイフが柔らかい肉に刺さった時の、ずぶり、という鈍い音がした。
血がナイフを伝って地面にぽたぽたと落ちる。
「……か」
ただし、それは。
血を流していたのは――
「…母、さん」
千鬼から――背中側から見れば、母親はいつも通りだった。
台所に立つ背中を眺めていた時と、何らかわりない背中――
しかし、いつもと違うのは、母親の足元に血だまりができつつあること。
「――ッ!」
無刀は本能で足を動かした。
母さんが刺された。ならば、助けを呼ばなくては。
弟を守らなくては――
「っはぁ…っはぁ…」
一人刺して勢いがついたのか、男は息を切らしながらも次の標的へ狙いを定める。
それは無論――崩れ落ちた母親に泣いて縋る子供。
「千鬼!駄目だ、逃げろって!」
無刀は千鬼の元に走った。
「にっ、にいちゃ、母さんが、母さんが」
涙で滲みきった視界には、ナイフは映らないようだった。
男が目の前でナイフを振り上げているにも関わらず、千鬼はそこを動こうとしない。
「――千鬼!」
男がナイフを振り下ろし、無刀が千鬼を突き飛ばした。
…無刀の方が、幾分か速かった。
「うっ…」
突き飛ばされて頭を打った千鬼は、その痛みでほんの少し冷静になり起き上がる。
そして心底後悔した。
あのまま起き上がらなければ良かった、と。
目を開けなければ良かった――と。
つい先程まで仲良く食卓を囲んでいたはずのリビングは、血の海と化していた。
母親の出血――しかし、それ以上に。
「……が、っぅ…」
兄が。自分の片割れが。
左肩から右脇腹にかけて――真っ赤な鮮血をしぶかせている。
袈裟斬りだ。
それによって激しく飛び散った血は、千鬼の足元まで及んでいる。
「あ……あぁぁ……」
おれのせいだ。
おれが動けなかったから、二人とも、おれをかばって――
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
それは、まだ小学校に上がったばかりの子供には受け止めきれない事実だった。
千鬼は頭を抱えてうずくまった。その体は先程までとは比べ物にならないほど震え、その体勢を維持できずに横に転がる。
そうして抵抗などできるはずもない状態の千鬼を男は一笑し、ナイフを構える。
「……ぎぃっ…」
しかし、その男の背後で――
下手をすればそこから体が裂けるのではないか、という程の傷を負った、小さな子供が起き上がった。
肩の傷を押さえながら、必死に手を伸ばして床に落ちた箸を掴みとる。
…男は、そんな無刀の行動に気づいているのかいないのか、振り返ることはしなかった。こんな大怪我をした子供にできることなどないと踏んだのだろうか。
千鬼は焦点の定まらない瞳で、そんな兄の姿を捉えた。
「………っ!――兄ちゃ」
「っあぁぁぁ!」
無刀は箸を振った。
相当な速度で、振った。
無刀の叫び声に男は驚いて振り返る。しかしその首が回りきることはなかった。
――竜巻状の、人の肉を簡単に切り裂く衝撃波が――
「ぎっ…があああっ!」
男の足を、ズタズタに切り裂いた。
その血しぶきは千鬼の全身にびちゃびちゃとまだらにかかる。生暖かい血液は、皮肉なことに母親に抱き締められたときの暖かさに似ていた。
「………、兄ちゃっ、」
足を押さえてうずくまる男を無視して、千鬼は兄と母親の元に駆ける。
「兄ちゃん!母さん!」
二人を揺するが、返事はない。母親に至っては、既に氷のように冷たくなっていた。
子供ながらに――わかってしまった。
ああ、母さんはもう駄目なのだ――と。
「……にっ、兄ちゃん!兄ちゃん!」
箸を振り抜いた姿勢のまま倒れた兄に必死で呼び掛ける。揺すったら体が裂けるかもしれない、という恐怖から触れることすらはばかられたが、それでも必死に兄を起こそうと頬をぺちぺち叩いたり耳元で叫んだりを繰り返した。
一緒に逃げたかったのだ。
一緒に生きたかったのだ。
「……せ、んき」
地面に顔を突っ伏したまま、掠れた声で兄は弟の名前を呼んだ。
「!兄ちゃん!」
「……にげろ」
ゆっくりと首を回し、無刀は千鬼と目を合わせた。髪の毛の向こうにうっすらと見える緋眼が優しげに細められる。
「あいつ…まだ、息…、ぁる…だから、早く」
早く行け――
赤が見えなくなった。
そこらじゅうにいやという程赤は飛び散っているが――唯一生気を保っていた赤が、見えなくなってしまった。
その後の千鬼の記憶は、ない。
話を聞く限り、千鬼は外に走り出て偶然そこを通った通行人に助けを求めたらしい。
ほどなくして救急車と警察がやって来て、母親はそこで死亡が確認された。無刀は意識こそなかったものの、集中治療室に運び込まれなんとか一命を取り留めた。
こうして、母親の葬儀も無事執り行われ、無刀は順調に回復し、千鬼はカウンセラーにかかり――徐々に平穏な日々が戻りつつあった。
まだ兄弟の絆は固く繋がったままである。
まだなにも知らなかったから。
表面上の事実を受け止めることに精一杯だった彼らは、まだ諸悪の根元に気づける程成長してなどいなかったから。
諸悪の根元が存在することにすら気づけない程――彼らは世界の闇を知らなかった。
* * *
「…っ、何でだよ兄貴!」
千鬼の大刀と無刀の持つ軍刀が、互いの主人を切り伏せようとぶつかり合う。
刀同士の押し相撲に勝利したのは――軍刀。
その切っ先を、千鬼は後ろにのけぞってその勢いでバク転を決め、避けた。
「他にいくらでも方法はあっただろ!兄貴はこんだけ強ぇんだからっ…選択肢なんて、いくらでもっ!」
「…千鬼」
吠えるように叫ぶ千鬼の言葉を、無刀は少しだけ眉間に皺を寄せて聞いていた。
「…生徒会に何を吹き込まれたかは知らねェが……兄貴はんなことする人間じゃねェだろ!少なくとも、兄貴にとっていい条件を出されたからといって生徒会に尻尾振るなんて絶対に有り得ねえ!」
だって兄貴は生徒会のこと嫌いだろ――
「…誰かの命が、絡んでたんだろ?」
急に弱々しくなった声で千鬼は呟いた。
「……こうするしかなかった」
無刀は暗い瞳で呟く。千鬼の瞳と同じ色のはずなのに、全く別物の瞳のように見えた。
「たった一人が死ねば――他の全員が生きていられた。死の危険にさらされることも、勿論ないと…」
――大方、こういうことだろうか。
生徒会に、蓮田谷真里を殺せば――他の全員の命を助けてやると言われた、と。
「生徒会は、私が蓮田谷真里を殺せなければ、君を」
無刀の顔がぐしゃりと歪んだ。
「千鬼を、殺すと」
そう言われたのだと――無刀は打ち明けた。
その言葉に千鬼は目を見開いたまま固まる。
俺達もそうだ。開いた口も塞がらないまま、無刀の次の言葉を待つ。
「ああまでして君を守ってきた。それを今さら奪われるのが――悔しかった」
無刀は含みのある言い方で呟く。
おそらくこの話は、あの兄弟にしかわからない。
「…は」
千鬼は額に血管を浮かばせて歯を食い縛った。
「…つまり、なんだ?兄貴は、俺のことを、自分のことも自分で守れねぇ愚図だって――そう思ってたってことか?」
「…だってそうだろ」
あの時、千鬼は泣きじゃくっていただけじゃないか。
その言葉に、千鬼はその大刀を無刀に投げつけた。
無刀はあえて避けず、甘んじてその攻撃を受け入れる。幸い刃の方は向いていなかったので、ただ鈍い音が鳴っただけだった。
「…百万歩ぐれェゆずって、兄貴が俺を信用できなかったのは認めてやるよ。だがなァ!なんでここにいるこいつらを信じてやらなかったんだよ!全員で生徒会に立ち向かうんだって決めただろ!死ぬ可能性なんて全員平等にあったじゃねぇか!だっつーのに、なんで生徒会なんかの言葉を真に受けてっ――」
「世界がそんな綺麗事で回っていいはず無ぇだろうが!」
一瞬、誰かわからなかった。
まるで千鬼のような口調で叫んだ無刀は、はっと口元を押さえ、一度深く息を吐く。
「…千鬼は何も知らないから……そんなことを言えるんだろう?誰かを信じるなんて、数少ない人間にしかできないことなんだよっ…」
苦しそうに、呻くように無刀は言葉を絞り出す。
「私がやるしかない。自分でやるしかない。他人任せになんてできない――私が、苦しむことでしか、何も解決しない」
そう言うと、無刀は重力のまま下げていた軍刀を上げる。その動きに千鬼は身構えた。ついさっき大刀は投げてしまったから、素手で戦う構えを――
「……君達が私を殺すのが、いちばんよかったのに」
軍刀が、首に押し当てられる。
――その軍刀の持ち主の首に…押し当てられる。
「私が失敗して返り討ちにあったというなら――君達の中の誰か特定の人が、狙われることはなくなる」
作戦は、私がいなくなるだけで問題なく進行することができる。
無刀の瞳から一筋の涙が流れた。
それと同時に、首筋から一筋の血が――
千鬼とハッカー先輩が、一番先に反応した。少し遅れて俺、すぐる、花依も動く。
「生徒会には、君達の中の誰かが私を殺したと言ってくれ」
芝生に倒れ込む音が、やけに優しく響いた。
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