トースト

コーヤダーイ

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バカンス1

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 学校の入学試験はすべて滞りなく終わった。役所からの通達は試験から一週間後、希望通り家から最も近い学校へ通うことが決定した。入学試験の点数や順位が公表されることはないが、最難関をくぐり抜けたことで、ヤーデの優秀さは証明されたのである。
 一番喜んだのはメレネ婦人だった。喜びの嬌声をあげ、ヤーデを抱きしめ両頬にキスをした。次いでドミトリーを抱きしめたあとで、わたくしにはわかっておりましたわ、とあふれる涙をハンカチでぬぐった。彼女は文字通り、小躍りした。ドミトリーたちは知らぬことであるが、かつて社交界で淑女の鏡といわれた彼女が、である。
 普段は厳しいメレネ婦人の喜びように、ドミトリーもヤーデもあっけにとられたが、やがてじわじわと実感がわいてくる。
「おめでとう、ヤーデ」
「はい」
「メレネ婦人、ヤーデへのご教授、感謝いたします」
「ありがとうございました、メレネ婦人」
「いいのよ。すべてヤーデが頑張った結果ですもの」
 ヤーデの頭を柔らかな手が何度も撫でる。
「けれど、これで気を抜かないようにね。学校は卒業するのが、最も大変な試験だと言われています」
「はい。これからもがんばります」

 メレネ婦人は「これから協力者へご報告にいって参ります」と言って帰って行った。
「そうだ、ヤーデ。今晩はお祝いをしようか」
「お祝い? ってなにをするんですか」
「おめでとう、と言っていつもよりたくさんご飯を食べる、かな」
「わかりました。いつもよりたくさん、ですね」
 その夜は、たくさんの食事が机に並んだ。ドミトリーが「私が肉を焼く」と譲らなかったので任せたが、いつもより多く焼いた肉は火が通り過ぎており、二人で顎が痛くなるまで肉を噛んだ。お祝いって顎が疲れるんだな、とヤーデは思った。
 寝る前に寝台で抱きしめてもらい、互いにおやすみと口にする。すぐに寝入ったドミトリーの額にキスをして、「おやすみなさい、一番好きですレネ」と言って目をつぶる。ヤーデは世界中で一番しあわせだと思って眠りにつく。

 学校が始まるまでの一カ月間で、必要なものを準備をしておくように連絡がきたのだが、メレネ婦人の協力者が作ってくれた指南書の内容と同じであった。むしろ指南書の方が的確でわかりやすく、どの時期に何が必要か具体的に記してある。ドミトリーの休日にヤーデと一緒に出かけ、入学前におおよそ一年分の準備をすませることができた。直近で知らされてもおそらく用意しにくい物もあったので、指南書があり大変助かった。



「ばかんす?」
「ん、今年はまとまった休みが取れそうだから、町の外に旅行へ出ようかと思って」
「それが、ばかんすですか」
 省での仕事も一段落つき、夏の間に数日の休暇を取ることができた。今までは数日休みがあっても、家で本を読むくらいしかすることがなかったのだが。
「ヤーデは行ってみたい場所はある?」
「ぼく、海を見てみたいです」
 海のある場所は町から少し離れている。馬車で移動して片道二日、といったところか。往復四日掛けて、海に滞在できるのは二泊が限度だが、行く価値はあるだろう。
「三日後から休暇だから、海へ行こうか」
 ドミトリーはその日のうちに早馬便を使って、海辺の宿を二泊宿泊予約した。支払いは現地で宿泊先に着いた時に先払いとなる。予約せずともどこかしら宿は空いているとは思うが、子どもがいるので妙な宿に宿泊するわけにはいかない。

 三日後の朝早く大型の乗合馬車、指定席を購入して乗り込み出発した。馬車の旅は目的地に到着するまで、途中の町で乗り換える必要がある。片道二日の行程のため、どこかの町で宿に泊まる必要があるのだが、進み具合によって野宿ということもありうる。
 大型馬車の場合、指定席を購入しておけば、狭いが座席で寝ることはできる。雨風はしのげるし外より安全ではある。なお、指定席を購入していないと野宿になった際、翌日出発の時間まで、馬車の外に出されてしまう。一応そのような話をして出発したので、ヤーデは「冒険物語みたい」と、揺れる馬車にも喜んでいた。
 初日は予定通り馬車はその日の行程を終え、夕刻前に町に入ることができた。乗合馬車の待合所へ寄り、翌日の指定席を二人分購入すると、その足で待合所で聞いた清潔で安全な宿へ行った。
「子どもと二人で一部屋を一晩お願いしたいのですが、空いていますか」
「空いています。夕食はどうしますか」
 夕食を頼み二人分の宿泊代と夕食代を支払う。祭りでもない限り大抵の宿は空いている。平時は基本料金のみで宿泊できるが、混雑する季節はさらに追加料金がかかる。
「鍵はこれで、そこの階段を上がって右、二階の角部屋です。朝食つきなので、朝食べるなら食堂に降りてきてください」
 宿の夕食時間にも間に合ったので、暖かい食事をとることができた。
「一日目は無事に終了だね」
「はい、これで町に入れない時は、どうするんですか」
 ドミトリーは何かを思い出したのか、暗い目をする。
「固くてまずい携行食を水で流し込み、寝るときは地面で横になるか、壁に寄りかかって座る。寒い季節なら薪が拾えて、小さくとも火があれば御の字かな。雨が降らず、強盗に狙われないことを祈って、ある程度かたまって寝る必要がある。疲れも取れないし、できれば野宿はしたくない……」
 いったい何があったのか、それ以上は口をつぐんでしまったドミトリーに気をつかったヤーデは、ことさら明るい口調で手をぱんとたたいた。
「そ、そうですねっ。明日には海につくんだ、海ってはじめて見る。ぼくすごく楽しみだな。旅行に連れてきてくれて、ありがとうございます」
 ドミトリーの暗い目に、光が戻ってくる。焦点がヤーデの顔に合うと、ドミトリーが深淵から浮かび上がってきたように薄く微笑んだ。
「ん、ヤーデが楽しみならよかった」
「はい!」

 宿の寝台に二人で並んで横になり、いつものように抱きしめられる。枕が違うから眠れないかもしれないけれど、ヤーデは平気? と聞かれるが、たぶん平気とヤーデは答える。
「私は遠征のとき、あまり寝られないんだ」
「そうなの?」
 普段はすぐに眠り、一旦寝たら起きないのに意外だった。
「以前は家でも眠りが浅かったんだけど……ヤーデが来てから、よく眠れる気がする」
「じゃあ今夜も、ぐっすり眠れますように」
「ん、おやすみ」
 目を閉じたドミトリーは、すぐに健やかな寝息をたてはじめた。寝顔は幼く見えてかわいい。「おやすみなさい、一番好きですレネ」頬にキスをして目をつむる。その夜見たのは想像していた海に来た夢で、広い水と空しかないところで、ふたつの境界線が混ざり合ってなんだか不思議だった。
 翌朝、ドミトリーは「よく眠れた」と言いながら起き上がった。乱れた髪に、はだけて肩が見えそうなシャツ一枚という格好で立ち上がる。遠征の時には、警戒心もなくこれを周囲に晒していると思うと、胸がざわつく。ヤーデはドミトリーの支度がきっちり済むまで、部屋から出ませんと言った。
 ヤーデによって髪を三つ編みに結ったドミトリーは、旅の間は魔法使いの服を着ていない。町の人が着ているような長めのシャツにゆったりしたズボン、という普通の出で立ちが、逆にドミトリーの美しさを際立たせている。これはこれで、誰にも見せたくないとヤーデは思う。昨日の馬車でもちらちら視線を感じたのだ、本人はまったく気にしていないようだったけれど。
 朝食を食べながら夢で見た海の話をすると「ヤーデの瞳は海みたいで好きだな」と言われた。「私の目も髪も、つまらない色だから」とドミトリーは言うが、本心だろうか。夜にまたたく星のように美しいのに。「髪もね、海辺の砂浜みたいできれい」ヤーデのふわふわの髪をそっと撫でる。「早くヤーデに本物の海を見せてあげたいな」と柔らかい表情を見せる。
「ドミトリーさんの目も髪もすごくきれいで、ぼく好きです」
 さっきから朝食を食べているよその人たちの、視線が集まっているのを感じる。自慢したいような、独り占めしたいような複雑な気持ちになる。やっぱり人に見せたくなくて、ヤーデは周囲に向けてこっそり威嚇した、必殺の怖い顔である。
 とたんに周りが、ぶっと音を出して顔を背けたから、威嚇が効いているようだ。なぜかドミトリーだけはさらに笑顔になって、ヤーデは本当にかわいいねと言った。

「ドミトリーさんっ、見て! 水があんなにたくさん、空まで続いてます!」
 嬉しそうにドミトリーが見ているのは、海でなくヤーデである。はしゃぐヤーデは気づかず、馬車から見える海に夢中だ。もうすぐ海辺の町に到着する。予定より早く、昼前には馬車から降りた。着替えの入った荷物を背負い、二人は手を繋いで町なかを歩く。
 まずは予約している宿へ行き、荷物を置かせてもらうつもりだった。

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