トースト

コーヤダーイ

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バカンス2

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「ふあ……すごい」
「ん、これはすごいね」
 宿の部屋に案内された二人は、窓からの景色に驚いていた。大きく開け放たれたのは、窓といってよいのか。目の前に広がる海の景色を切り取った額縁のようだ。窓枠に手を掛けたヤーデが満面の笑みで振り向くと、一枚の美しい絵のようである。
 潮の匂いと海からの風が心地よい。本日は良いお部屋をご用意しましたと受付で言われたが、のんびり過ごすには贅沢すぎる。ゆっくりご滞在ください、と部屋まで案内してくれた人が丁寧に頭を下げて扉を閉めた。
 荷ほどきを終えるとヤーデがそわそわと足踏みをしていた。早く海の近くへ行きたい気持ちと、急かしたくない気持ちがせめぎあっているのだろう。優しい子である。
「陽に灼けすぎると肌が火傷をするのでこれを」
 ドミトリーが宿へ来る前に購入した、つばの広い帽子を二人でかぶる。草で編んだものか、かぶると涼しいのに編み目から光が差し込む。
「海! これが海! 思ってたのと違った」
 その場でぴょんぴょん飛び跳ねるのを、行っておいでと笑顔で見送る。波打ち際まで一気に走っていくヤーデのほかに、人は誰もいない。
 波が寄せてはかえすのを、ヤーデの足が追いかける。きゃーと嬉しそうなのは、サンダルの足が波のしぶきに濡れたのだろうか。ドミトリーはゆっくり歩きながら、はしゃぐヤーデの姿を眺めた。以前遠征で海に来ても、心は何も動かなかったのに。今日はとても楽しい。
「それにしても……暑いな」
 宿の案内で聞いて、海は浅瀬で、入っても危険がないことは確認してある。ドミトリーは辺りを見回した、自分たち以外浜辺にいる人間はいない。よし、とドミトリーはシャツに手を掛けた。

 ヤーデが波打ち際で遊んでいると、白い何かがさっと走り抜けて海へ消えた。
「え?」
 少し沖のほうでぽっかり浮かんだ白いものに、ヤーデはええぇと叫ぶ。
「ド、ドミトリーさんっ?」
「ははっ、しょっぱい」
 波間で立ち上がるドミトリーは裸で、濡れた肌にはりつく長い髪が、物語で読んだ人魚のようだった。
「ななな、なんではだかになってるんですかぁ」
「だって海に入りたかったんだもの」
 ほら、下着は履いている。としごく真面目な顔で答えが返ってくる。
 ヤーデは周りを確認する、誰もいない。じゃあいいか、と自分も服を脱ぐ。走っていって海に飛び込むと、ばしゃんと腹を打った拍子に、鼻に海水が入った。
 ふがふがと鼻の痛みに耐えていると、波がきて足元をすくわれ、ふたたび顔から転ぶ。引いていく波にさらわれそうになるのを、脇から支えられ持ち上げられた。
「ぼく、そういえば泳いだことなかった」
「ははっ、楽しいねヤーデ」
 ドミトリーはずっと笑っていて、普段よりも楽しそうだ。波に乗って波打ち際までいき、砂まみれになって横たわる姿は、大きな子どものようでもある。ヤーデは波に乗ろうと何度試してみても、体が軽すぎるため波にのまれるだけだった。
「はぁ、よく遊んだ」
 海の深いところで一度潜り、顔から浮かび上がってくる様は、波間に顔を見せる人魚のようだ。長い髪と体から、水を滴らせたまま砂浜までくると、どかりと腰をおろす。足を開いて座る姿は、人魚が台無し、見ている者がいたら夢を返せである。
「暑いし喉が渇いた……体が乾いたら、一度戻ろう。干からびる」
「はい、ぼくもうくたくた」
 海辺の日射しは強く、体も髪もすぐ乾く。塩を含んでいるため、ごわごわしているが。とりあえずシャツを羽織りふたつほどボタンを留め、ゆったりとしたズボンをはく。サンダルに足をつっかけて、帽子をかぶった二人はだらだらと宿まで歩いた。

 宿の受付で鍵を受け取るとき、お二人とも陽に灼けましたねと声を掛けられた。お部屋に戻られる前に、そこの椅子にお座りいただければ、すぐ冷たいお飲み物をご用意いたしますよと言われ座って待つ。持ってきてくれたのは、大きなグラスにたっぷり入った、よく冷えた果実水だった。贅沢なことに氷が浮かんでいる。
「生き返る……」
「おいしい……」
 グラスを傾けるたび、氷がカランと涼しげな音を響かせる。それほど長時間、海辺で過ごしたわけでもなかったのだが、互いに陽に灼けたと言い合う。二人とも色が白いため、あとで真っ赤になるかもしれない。
 体を流そうと部屋に戻る前に、果実水の礼を言う。部屋の風呂に備え付けてあるボトルの液を、水浴びしたあと体につけるよう教わった。灼けた肌の沈静に効くそうだ。

 水風呂に浸かろうと服を脱ぐと、二人とも尻だけが白い。自分たちはそこまで陽に灼けたつもりはなかったので、白い尻をぺちりとたたき合って笑った。水風呂は気持ちよかったが、髪についた塩は落ちきらなかったようで、ごわごわしている。
「これは後できちんと洗わないとだめです」
 ドミトリーの髪の毛を拭きながら、ヤーデが厳しい顔をして言う。
「えぇ? 一日二度も風呂に入るのは、めんどうでしょう」
「ぼくが洗ってあげますから、あとで入りましょう。ね?」
「ん、私は洗わないからね」
「だいじょうぶです、ぼくがぜんぶ洗いますから。ドミトリーさんは湯船に浸かっているだけでいいです」
 まるで駄々をこねた子どものようだが、普段は見せることのないわがままを、見せてもらえて嬉しいヤーデである。ドミトリーのどんなわがままも、聞いて叶えてあげたかった。
「とりあえず、今はこのボトルの液を、体に塗りましょう」
「ん」
 椅子に座ったドミトリーに、立ったままのヤーデが液を少しずつ塗っていく。
「しみませんか?」
「すーっとして、気持ちいい」
 手のひらに出した液を、ドミトリーの顔にも塗る。顎を上げ目を瞑ったドミトリーの頬が、ヤーデの手のひらに吸いついてくる。灼けた肌に気持ちいいのだろう、ふふっと満足そうな表情だ。
 すべてヤーデがお世話をしたかったのだが、灼けた部分全体に液を塗るのはけっこう大変だったので、途中からドミトリーも自分で塗りだした。
「さ、ヤーデの番」
「ぼくは自分で……」
「いいから、こっち」
 逃げる前に手首をとられて、ドミトリーの方にたぐり寄せられる。手のひらに出した液が、細くて長い指で伸ばされていく。
「……くっ、は、あははっ。やめっ、くすぐったいやめっ、あはははっ」
 ヤーデは非常にくすぐったがりだった。肩も腕も腹も背も、どこもかしこも触られるとくすぐったがる。体全体をくねらせて逃げるヤーデを、ドミトリーの手が追いかける。
「やめて、やめてぇ! あははははっ」
「ははっ」
 海ではしゃぎ、水風呂後の肌沈静の液ではしゃぎ、疲れ果てた二人は下着のまま寝台で眠ってしまった。

 トントン、部屋の扉を叩く音で目が覚める。寝ぼけたまま「はい」と言うと、「ドミトリー様、ご夕食の準備ができております」と知らせる宿の案内だった。
「ドミトリーさん、起きてください。夕飯ですって」
「ん、んん。もうそんな時間」
 思いっきり伸びをし目をこすり、起き上がったドミトリーの髪の毛は、塩のせいでいつもの二倍くらいにふくらんでいた。直そうとするヤーデに「誰が見ているわけでもないし、このままでいいよ。それより肌が痛い」と言うドミトリーだった。
 下着の上に服を着ようとすると、すでに真っ赤に腫れた肌が痛くてかなわない。ドミトリーが宿備え付けのワンピースを見つけ、さっさと着ている。ワンピースは風に揺れるほど薄手の布で、襟と裾に同色の糸で刺繍が施されている、ゆったりして洒落た作りだ。
「シャツも肩が痛いし、ズボンも擦れて痛いもの。二人ともこれでいいよ」
 ヤーデも手渡された小さいサイズを着てみる。足がすーすーするが、確かに灼けた肌にはちょうどいい服であった。
「食事にこんな格好でいいんでしょうか」
「かまわないさ、バカンスだもの」
 開き直って二人で階段を降りていった。

 何組かの客で卓はそこそこ埋まっているが、元々ゆったりした席を設けているため、隣の卓の声が聞こえすぎる距離ではない。赤い肌でワンピースを着てふくらんだ髪の新たな客に、一瞬目をやるものの、すぐに視線は離れていく。ドミトリーの言ったとおり、ここでは誰も二人に注目しないのかもしれない。
 宿の案内で席に座った二人は、お任せのコース料理を堪能した。その土地で美味しいものを食べたければ、地元の人にお任せしてしまうのが一番早い、と思ってのことだ。海の幸がたっぷりの前菜、貝のスープ、分厚い肉のような歯ごたえある魚、魚と貝の蒸し焼き。
「自分でメニューを見たら選ばないような料理ばかりだ、美味しいね」
「はい、どれもとっても美味しいです」
 次々と卓に並ぶ料理を順番に口に入れていく。ヤーデのふくふくとした頬は、とろけておっこちそうだ。食後の甘い物にはなんとシャーベットが出た。暑い時期の氷は、超贅沢品である。
「細かい氷なのに果物の味がする?」
「冷たくて口の中がすっきりする。美味しい」
 二人は夢のよう夕食を楽しみ、おやすみと挨拶をして寝た。夜着は肌が痛くて着られなかったので、下着だけだ。結局風呂は入り忘れて、そのままだった。

 翌朝起きたドミトリーの髪の毛は、さらにふくらみ鳥の巣のようになっていた。それを見て口に手をあてて笑う姿は愛らしいが、もとがふわふわしているヤーデの髪も、似たようなものである。とりあえず二人はぬるめの湯を溜め、一緒に風呂に入った。ぬるくしたのに真っ赤に灼けた肌にはしみた。
 沈静の液を肌に塗りたくり、ふたたびワンピースを着る。明日帰るときには、肌の傷みが引いていることを祈る二人であった。
「もう海で遊ぶのはやめよう」
「はい、肌が痛くてむりです」
 朝食を食べ終えた二人は帽子をかぶって、宿の案内に借りた日傘をさすと、近くの土産物屋を覗きに出かけた。もう絶対に陽に灼けるわけにはいかない。ワンピースに帽子にサンダル、日傘をさした自分たちがどのように見えるかなど、どうでもよかった。

 海辺の土産物屋の人々には、都会からやって来た美しい親子に見えた。身につけているのは、地元の人もよく着る型のゆったりした揃いのワンピース。泊まっているのは高級な宿である。母親は黒髪の美女、子どもは愛らしい金髪の娘。陽に灼けて赤い肌は気の毒に、元が色白すぎるゆえんだろう。二人は手を繋いで仲良く歩きながら、土産物屋に入ってきて、貝殻で作った小物などを買っていった。メレネ婦人にはこれを土産に、などと話していたからやはり貴族なのだろう。
 同じくらいの子どもを持つ土産物屋のおかみは、金髪の娘の優雅な所作に驚いていた。さすが貴族の娘さんは違うね、うちのがさつな小僧に見せてやりたかったよ。などと考えていた。
 土産物屋のだんなは、黒髪の母親が美しすぎて直視できなかった。早々に店の奥に引っ込んで、掛けたのれんの隙間から貴族らしき親子を覗き見ていた。うちのとはえらい違うな、見ろよあの流れるような髪。やっぱり貴族の女ってのは、俺たちたぁ違う生き物なんだろうな。などと思っていた。

「ドミトリーさん」
「ん」
 日傘をさして、繋いだ手をぶんぶん振っているヤーデはかわいい。熱をもった肌の赤みはまだひかないけれど、夕べよりはいくぶんましである。これから宿に戻り冷たい飲み物を飲んだら、午後は宿で本でも読み、静かに過ごすつもりだ。
「メレネ婦人にも、いいお土産が買えてよかったですね」
「そうだね」
 ヤーデはご機嫌だった。ドミトリーとずっと一緒だし、ここでは誰の視線も気にならないから。いつもよりたくさん笑って、世界に二人きりみたいな気持ちになった。
 ドミトリーもまた、ご機嫌だった。ヤーデが町にいるときよりも、のびのびと楽しそうにしているから。休暇をとってよかった、またいつか一緒に旅をしよう。

 翌朝宿を出る時間になり、もはや着慣れたワンピースを脱いで、いつもの服を着ると窮屈な気がした。だいぶ赤みは減ったけれど、肌はまだひりひり痛い。宿の受付で販売していた、灼けた肌の沈静に効くボトルを購入した。水ぶくれにはならなかったが、二人ともしばらく塗ったほうがよさそうだった。
 帰りの馬車も指定席を予約してあり、とても空いていたので、快適に乗ることができた。問題も起こらず二日の行程を経て、無事に住み慣れた町へとたどり着いた。ヤーデは自分が暮らしている町が、ずいぶん都会であることにはじめて気がついた。

 海への旅から戻った翌日は、ドミトリーは仕事へ出かけていった。仕事に行きたくない、と玄関でヤーデを抱えてうずくまるのを、送れないよう送り出すのはけっこう大変だった。
 いつもより早めにやって来たメレネ婦人は、久しぶりに会うヤーデが元気いっぱいなのを見て、笑顔になった。
 メレネ婦人へ渡した土産は、硝子の縁に貝殻をつけた、皿のような平たい小物置きだ。硝子のなかに泡や青い模様が、うっすらと入っていて不思議で美しい。貴族であるメレネ婦人が喜んでくれるかはわからなかったが、ヤーデが自分で選んだもので、家にも同じものを買ってきてある。ヤーデは手紙と一緒に土産を手渡したのだが、メレネ婦人は大喜びした。土産も嬉しいが、手紙をもらったのがことさら嬉しかったようだ。
「この年になりますと、誰からも便りなど届きませんの。ありがとうヤーデ、大事にします。本当にわたくし嬉しいわ」
「お土産は、ぼくとおそろいなんです」
 カップをしまう棚に、飾るように置いてある土産を、手に取って持ってくる。
「まぁ、そうなの。こちらも綺麗ね、海辺に出かけたことを思い出しますわ」
「メレネ婦人も海へ行ったことがあるんですか」
「えぇ、ありますとも。若い頃のことですが、いい思い出です」
 あなたもずいぶん楽しい思い出ができたようね、とヤーデの赤みの残る丸い頬を撫でた。
「ぼく、たくさん海で泳いだんです」
「そうなの」
「あのね、ドミトリーさんも、いっしょに泳いだんです」
「ほほほ、まぁまぁ、そうなの。それは楽しかったわね」
 ヤーデが下着で泳いだ、と言うとメレネ婦人の眉がつり上がった。海水浴には海水浴に適した服がちゃんとあります、次回からは必ずそれを着用するように。あなたも、ドミトリーさんも。いいですね。つり上がった眉のまま顔を近づけてくるメレネ婦人は、とても怖かったので、ヤーデはわかりましたと強く返事をした。ドミトリーさんはもしかしたら、海水浴の服があることを、知らなかったのかもしれないなと思ったが黙っていた。
 メレネ婦人の仕事を横で見て手伝い、味付けの必要な料理も少しずつ教わっていて、作り方はぜんぶ日記に書いている。最近は字を読むだけでなく、書くのもうまくなってきた。

 ドミトリーが仕事から戻ると、いつも以上に疲れた様子だった。夕食を食べさせたあと風呂に入れ、すーっとするボトルの液を、赤みの残っている部分に塗った。髪を丁寧に乾かしていると、「体に塗り込むオイルは匂いが嫌いだけど、これは香りがよくて好きだな」とドミトリーが言った。髪の毛先には毎日ほんの少しだけオイルを使っている。果実の皮を剥いたような香りがするオイルで、メレネ婦人に教えてもらい一緒に作ったものだ。
「このオイル、メレネ婦人に教えてもらって、一緒に作ったやつです」
「ヤーデの手作りなの? ヤーデはなんでもできるんだね」
「剥いた皮だけ使うから、果実の中身はこの間食べました」
「ふふっ、そうだったんだ」
 潮風のない場所では、きちんと手入れをした黒髪は、まっすぐ絹糸のように流れる。さらりとした感触を確かめながら、最後に木櫛を通したヤーデは、満足そうに頷いた。ちなみに木櫛にも手製のオイルを染みこませてある。これもメレネ婦人の知恵で、櫛を通すと髪に艶を与える効果がある。
「きれいに乾きましたよ」
「ん、ありがとう」
 ずいぶん伸びて邪魔だなあと言うドミトリーが、いっそ切ってしまいたい、というのはよく聞く台詞である。伸ばしすぎて毛先が細くなりすぎたのを、たまにわずかに切りそろえる程度の髪は、腰のあたりまである。
 確かに自分の髪が長かったら邪魔だろうとは思うものの、ドミトリーは魔法使いなのだから仕方ないのだ。それに流れる黒髪の感触も美しさも、ヤーデはとても好きだった。ふわふわした自分の髪よりずっと。
「ぼくはドミトリーさんの髪の毛、きれいで好きです」
 くぁ、と大あくびしたドミトリーに、寝ましょうかと手を引いて寝台へ連れて行く。
「私はヤーデの髪のほうが、きれいだと思うけれどね……ふぁぁ」
 久しぶりの仕事もだが、移動疲れもあるのだろう。しょぼしょぼした目をして、うながされるまま、おやすみと言いながら寝台に横になる。ヤーデが上掛けをかけている間に、穏やかな寝息が聞こえてきた。相変わらず眠るまでが早い。
「おやすみなさい、大好きなレネ。バカンスへ連れて行ってくれてありがとう」
 額と頬にキスをして、目をつぶる。波の音を聞きながら眠った夜が、ひどく遠くて懐かしかった。



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