トースト

コーヤダーイ

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ドミトリーの負傷

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「え、お前らまだヤってないの?」
 童貞卒業先輩ギュンターが、上から目線でヤーデに尋ねる。はい、やってません。いや途中までは色々あれこれ、やってるんですよ? この間なんてね、ついに、避妊具を指につけてお尻の入り口の穴を拡げることまではじめてね?
「げ。そこまでいってて、挿れてないとかどういうこと?」
 お風呂入ってから、半刻くらい入り口の入り口だけをいじってね、皺伸ばしたり指一本だけ爪先分くらい、出し入れしたりしてね、かわいいの。ほんともうかわいくてかわいくて。前もいじってぇ、なんて泣きそうな声で言うもんだから、前にも避妊具つけてね、指先だけよ? 指先の出し入れで、しゅしゅって扱いたらイっちゃって。ねえ、うちのドミトリーさんて、ほんとかわいくない? ぼくもうそれ見ただけでイっちゃったよね、一緒に。ああ、かわいい。早く家に帰りたい。
「………なんか俺、お前のことが哀れになってきたよ。もう今日帰っていいよ」
「どういうこと? え、帰っていいの?」
 なぜだか知らないが、ギュンターが帰っていいというので、帰宅することにした。今晩はドミトリーさんの好きな、肉ごね焼きにしよう。清々しい気分で侯爵家の離れを出て、門へと向かう。
 途中でギュンターの専属従者シルビオとすれ違う。使用人がその家で働いているときには、用があるとき以外は話しかけないものである。彼らはそれぞれに仕事を抱えているから、客に話しかけられると仕事の手を止めなくてはならないので、失礼にあたるのだ。互いに黙礼をしてすれ違う。
 あの人がギュンターの初めての人か、と思うと不思議な気分だ。従者というよりも、騎士といった方が納得できるような容貌なのである。性行為が大好きなギュンターは、毎日のようにせっせせっせと腰を振っているらしい。あれぐらいの体の人でなければ、ギュンターの止まらない性欲に、付き合いきれないのかもしれない。どちらかというと、ギュンターの方が抱かれていそうな見た目なのだが、実際に抱かれているのは体の大きなシルビオであるという。主従関係というのは、そういうものなのだろう。



 すべてがうまくいっていた。順調だった。かといって気を抜いて過ごしていたわけではない。いつだって、そのときは突然にやって来るものである。
 ドミトリーが討伐に出かけ、前線で負傷した。連絡が入ったのはヤーデが侯爵家の離れで、ギュンターと魔方陣の研究をしているときだった。
「ここにいた方が情報が早い。一人でいても何もできないぞ」
 一人で家に戻ることを止められた。侯爵家の夕食に招かれたが、食事はろくに喉を通らなかった。詳しい話はまだ何も届いていないと説明され、本邸に客室を用意された。とてもではないが、一人きりで知らない部屋にいることは無理だった。ギュンターに頼んで、離れの研究室に使っている部屋を借りる。ソファで寝るつもりだったが、離れの風呂を借りているうちに、小さいながらも寝台が運び込まれていた。風呂から出るとすでに、ヤーデにぴったりの新しい下着と服が、何着か用意されていた。
「俺はこっちの部屋にいる。シルビオもいるから何かあれば、遠慮せずシルビオを呼べよ」
 頷くだけで返事をし、寝台に座った。ありがとうも、おやすみも言葉が何も出てこなかった。ドミトリーが負傷した、という情報しかない。負傷ということは、死んではいないということだった。だがあくまで、早馬が出されたその時点で、の話である。多少の怪我なら治癒が効くから、早馬で負傷者に名前が挙げられているということは、相当ひどいということだ。

 今すぐ現場に行きたかった。役に立たないことはわかっているが、眠れそうもない。馬車に夜通し揺られて、少しでも近くへ行った方がましな気がした。
「申し訳ありませんが、侯爵家からお出しすることはできません」
 そっと離れを出ようとしたヤーデを、後ろから止めたのはギュンターの専属従者シルビオだった。
「侯爵様にも、ギュンター様にも、そのように申しつけられております」
 自分が正気とはほど遠いことはわかっていた。他人に指摘されて、はっとする。
「明日には早馬が参ります。正しい情報がなければ、今お出になられたとしても、入れ違いになる可能性もございます。どうか、今夜はもうおやすみください」
 そうだ、明日まで待ってみよう。頷いてヤーデは寝台へ戻った。目をつぶって横になったが、知らない匂いのする寝台にいても、一睡もできなかった。

 翌日、早馬が来たと侯爵家に連絡が入った。侯爵がヤーデに「ドミトリーは現地近くの村で医療班が見ている」と伝えた。「帰ってこれないんですか」とヤーデはうろたえる。「また次の情報を待て」と侯爵に言われたら、それ以上何も言えなかった。
 負傷者は一番最初の馬車で運ばれてくると知っている。まだ誰も現場から帰れないのか、動かせないほどひどい状態なのか。少しずつ知らされる情報を待つだけの時間に、焦りを感じる。半刻がいつもの何倍も長い。
 午後になって騎士団の人間が侯爵家にやって来た。早馬からの情報を伝えにきたのである。手にはマクシミリアンからヤーデへ直接渡すよう、手紙を持っていた。折りたたんで蝋を潰しただけの封がしてある手紙を、その場で開いて目を通す。「ああ」なんてこと。ヤーデは絶望した。

『ヤーデ、すまない。
 ドミトリーが負傷した。魔方陣を発動させているところで魔物に襲われ怪我をした。血が流れすぎて意識がない、頭も強く打っている可能性があるため、すぐには移動できない。今は近くの村で医療班が常時付いて看ている。
 現場はまだ魔物がいて危険だ、来てはいけない。連絡を待て。マクシミリアン』

「ぼくのせいだ」
 ヤーデの言葉に、側にいたギュンターが手紙を引き抜いた。素早く目を通していく。
「お前のせいじゃない」
 ギュンターから渡された手紙を読んで、侯爵も力強く頷く。
「前線で戦う者みな起こりうる事だ」
 その通りだった。だからドミトリーを前線へ行かせたくなかった。身を守る術を持たないあの人に、無事に帰ってきてほしいから。だから魔方陣の研究をはじめたのに。魔方陣を発動させているところで、魔物に襲われ怪我をした、と手紙に書いてあった。魔方陣の結界があったからだと、ヤーデは自分を責める。
「お前のせいじゃない」
 ギュンターがヤーデを羽交い締めにした。暴れた覚えはなかったが、ギュンターの頭はぐちゃぐちゃにかき回されている。侯爵は少し距離をとった場所に移動していた。数人の使用人に囲まれた状態で、ギュンターだけがヤーデに触れていた。
「大丈夫だ、兄上がついてる」
 羽交い締めにしたまま、ギュンターが低い声でゆっくりと話す。
「ドミトリーは絶対大丈夫だ」
 大丈夫、大丈夫と何度も繰り返すギュンターの低い声に、ヤーデも落ちついてきた。
「あ、ばれ、てすみません。家にか、かえります」
「馬鹿だなお前、帰ってどうするんだよ。来るなって兄上に言われたろ」
 ギュンターはまだ、ヤーデを捕まえたままである。結局そのまま腕をとられ、引っ張るように強引に、離れへと連れて行かれた。いつもの研究室のソファに座らされると、暖かい茶が出てきた。ヤーデが好んで飲んでいる、ミルクを垂らした茶だった。ひとくち飲んでようやく落ちついたが、家で茶を飲むドミトリーを思い出してしまい、またひどく気分が落ち込んだ。

 翌日の午後遅く、マクシミリアンが侯爵邸にやって来た。汚れた騎士服のままですまない、と使用人が案内するよりも早く離れに到着していた。
「連絡が遅くなってすまない。これでも馬を換えながら飛ばして戻った」
「っ兄上!」
「……マクシミリアン様」
「ヤーデ、側にいたのにドミトリーを守れず、すまなかった」
「今、どうなってますか」
 頭を下げるマクシミリアンに、ドミトリーは生きているんですかとは聞けなかった。目の前の男もまた、憔悴しきっているのがわかった。騎士団長が早馬とそれほど変わらぬ速度で戻って来たのだ。この人がどれだけ無理をしたのかわかる。
「私が出る前に様子を見た時には、まだ意識が戻っていなかった。腹に負った傷は、使えるだけの回復薬を使っている。付きっきりで治癒の魔法使いが交代で看ている。倒れたときに頭を打った可能性があるため、馬車で動かすのは危険だと判断した」
「魔物はどうですか。村は安全なんでしょうか」
「あ、あぁ。大丈夫だ、私も報告が終わり次第、戻る予定でいる」
「ぼくも、その村へ行っていいですか」
「それは、」
「自分の面倒は自分でみられます。絶対お邪魔はしません」
「それはそうだろうが……」
「……あるんですね。何か駄目な理由が」
 いつになく歯切れの悪いマクシミリアンに、ヤーデが察する。
「魔物がすり抜けて我々の方へやって来て……全員結界の魔方陣を発動させた。ドミトリーが発動を途中で止め、雷撃を放った」
「………」
「新人が一人、もたついてな。結界が間に合わなかったんだ。それをドミトリーが助けたが、近距離すぎた」
 燃えて焦げた魔物が最後の道連れにと、ドミトリーに飛びかかった。結界の魔方陣を発動させたが間に合わず、魔物に腹を狙われた。マクシミリアンが魔物を切り伏せたが、胴体から離れた頭は、腹に食いついたままだった。ドミトリーは地面に倒れ、魔物の頭を引き剥がしたときには、血が流れすぎていた。
 体中から血の気が失せた。ドミトリーを失うくらいなら、自分が死んだ方がよかった。その場にへたり込みそうになるのを、ぐっとこらえるが、体は震え涙は止まらない。
「やっぱりぼくのせいだ」
「っ言っただろヤーデ、お前のせいじゃないって」
 ギュンターの声は聞こえるが、姿が見えない。視界が揺れる。それとも体が揺れているのか。倒れている場合じゃない、やれることは、まだまだあるはずだ。そう頭のどこかで思うものの、心は暗闇のなかに落ちていく。

「戻ってこい。ヤーデ・ドミトリー」
 揺れていた体がぴたりと止まる。ヤーデを大きな暖かいものが包み込んでいだ。
「お前の家族は、まだ生きている」
 大きな手で背中をさすりながら、低い声が大丈夫だと繰り返す。
「でもでもっ……ぼくが魔方陣の結界なんて作ったから、だからドミトリーさんはっ………」
 暴れ出しそうになった体を腕の中に抱え込んだまま、ヤーデの後頭部を大きな手が撫でる。大丈夫だとあやされ、体は思い通りに動かない。小さな子どもに戻ったようだ。
「お前の作った結界の魔方陣で助かった命が、どれだけあるかわかるか」
 助かった命がどれだけあろうと、ドミトリーがこの世にいなくなったら、ヤーデにとって何の意味もない。そもそもヤーデが生きる意味もないのだから。
「あきらめるな、ヤーデ。悔やむのは死んでからでいい。思い出せ、今なすべきことを」
 心の底に小さな灯りがともる。あの日に食べたトーストの味が、急に蘇った。ぼくが死んでいたら、食べられなかった。生きていたから、助けてもらったから。
「今度はお前が助ける番だ」
 心の奥底まで届く、力強い言葉だった。
「もしもの時は、俺がお前を逝かせてやる。安心しろ、俺も一緒に逝ってやる」
 側にいたギュンターにも聞こえないほどの、小さなささやきだった。抱きしめられた体に密着する分厚い体、低い声でかすかにささやかれたのは、とんでもなく重い愛だった。
 虚ろだったヤーデの瞳に、徐々に光が戻ってくる。
「もう平気です」
 背中に腕を伸ばして、とんとんと叩いた。広すぎる背中は、ヤーデの腕では回りきらなかったが。
「ありがとうございます、マクシミリアン様」
 この強い腕に守られて愛されて。それもひとつのしあわせの在り方だったかもしれない。でもヤーデから、その愛は返せない。ヤーデの愛する人は、ただ一人だから。
「このまま抱いて馬に乗っていくか?」
「ふふっ、一度家に戻って支度がしたいです」
 抱擁が緩んだ。腕を抜け出すとき、マクシミリアンの騎士服の右袖に、見覚えのある刺繍が残っているのを見た。もう魔方陣としては用を為さないだろう。
「お守りみたいなものだ」
 ヤーデの視線に気づいたマクシミリアンが蒼瞳を細める。
「ぼく、もっともっとがんばります」
 同じ愛を返すことはできない。だからマクシミリアンが守りたい人々を守るために、そしてマクシミリアン自身を守るために、何が起こってもできることをやっていこうと思った。



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