アイスみたいにぜんぶ溶かして

コーヤダーイ

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 いい年をして失業した。割と大手だったはずの会社はあっけなくなくなってしまった。すぐに次の仕事に就かなければ生活が成り立たなくなるのはわかっていたが、どうにも気力が追い付かなかった。

 会社都合で失業すると、すぐに失業保険が適用されるらしい。しばらくの間自由な時間を過ごせるというので、有給どころか休日返上で働いていたのだからと、この機会にゆっくり休むことにした。



 ゆっくり休むと決めたくせに、日の出の時間にはきちんと起きて昇ってくる太陽を浴びながら河原を走る。この時間は犬の散歩をする人が多いらしく、こんなに犬を飼っている人がいるのかというくらい河原はわんわんパラダイスだ。チワワにダックスにトイプードル、ボーダーコリーにレトリーバー、たまにボルゾイなんかも混じって仲良く走り回ったあとは、飼い主たちの立ち話に犬たちがお行儀よく付き添っている。

 あっちで一匹大きなボールに飛び掛かっているのは、足の短いコーギーだ。あの犬はいつも他の犬とは遊ばずに飼い主とボール遊びをしている。



 走り抜けざまにおはようございます、と飼い主さんたちから声を掛けられ笑顔で挨拶を返す。走り始めたころは戸惑ったけれど、今では慣れて名前を覚えた犬にも挨拶をしている。



「おはようございます」

「おはよう、ございますっ」



 河原にいるのは犬の散歩をする人ばかりじゃない。よく整備された道は土とアスファルトと2種類あって、車が入れないから安全に走れると、ランナーにも人気があるのだ。

 今挨拶を交わしたのは、そんな早朝ランナーの一人だった。



(今日も格好良かったな)



 すれ違いざまにいつもにこりと笑いかけて挨拶をしてくれる長身の男性、失業して朝早く起きる必要はなくなったけれど、毎朝走っているのは彼と朝の挨拶を交わすためだけといってもいい。

 最初は体力が落ちないようにと始めたランニングだったが、走り始めた初日にすれ違った彼に笑顔で挨拶をされ、たちまち恋に落ちた。以来雨の日以外は、同じ時間に走るよう心掛けている。



(どんな仕事をしている人なのかなぁ)



 自分とはまるで接点のなさそうな男性のことを考えて、ぼんやり走っていたのが悪かったのだろうか。きゃーっという声、危ないという声が一斉に聞こえた瞬間、何かが顔面に向かってものすごい勢いで飛んできた。

 とっさに顔を背そむけたのは良かったのか悪かったのか。ゴッッ、と重い音が聞こえて視界が暗くなり、そのままフェードアウトした。











 目が覚めてまず視界に飛び込む自分の部屋とは違う高い天井に違和感を感じて、瞬きを繰り返す。少し首を動かせば目の上がズキリと痛んだ。



「……っ?」



 痛んだ場所に手をやれば、少し柔らかくなってはいるが冷たいものが額に乗っている。ここはどこだろう、と視線を巡らせても知らない部屋である。知らない部屋に知らない寝具、落ち着いた室内にわずかな生活感。

 ふと男性の声が聞こえてきた。視線の先に階段があるのに気づき、自分が横になっている寝具のある場所が広いロフトなのだと気づいた。



「あぁ、あぁ、そうだ、すまないが。……急用で申し訳ない、何かあれば連絡を頼む。では」



 どうやら階下の男性は電話を終えたらしい、ガチャリと開ける音と閉める音。天井の高さが原因か室内の静けさゆえか、意外とロフトまで音が響く。ぎし、ぎしと階段を上る足音が聞こえて黒髪が見え、次いで見知った顔が階段から覗いた。



「……あ、……」

「………目が覚めたか、良かった。気分は?」

「だ、大丈夫、です」

「痛みは?だいぶ痛むだろう」

「あ、あの、えっと……」



 彼だ。朝の河原の、恰好良い彼がいる。今朝すれ違った時の半袖シャツにハーフパンツのままだ。



 ということはここは彼の部屋で、ここは彼の寝具ということだ。事態がのみこめず慌てて起き上がろうとすれば、右目の上がズキリと痛んだ。



「俺、か、帰りま……いった!」

「わ、動かないで!やはり直接病院へ行った方がよかったか」

「びょ、病院?俺一体……」



 聞けば、あの悲鳴のあと俺の額にぶつかったのは、フリスビーだったそうだ。犬とフリスビーで訓練をしていた男性がいたらしく、どうやら投げ損ねたそれが直撃したらしい。

 救急車を呼ぼうにも誰もかれもが携帯電話すら持たず手ぶらだったため、ひとまず彼が俺を背負って一旦自宅へ戻り、その後病院へということだったらしい。



「君を横にならせてまだ5分程度だから。車で行けるからこのまま病院へ行こうか」

「あ、えと、あの……」



 俺も保険証とか財布とか自宅にあるから、と伝えたかったのだが動けば痛みにくらりとし。結局彼に背負われて階段を下り部屋を出て車へと乗せられた。

 助手席を目一杯倒されて横になり、自宅を伝えて立ち寄ってもらう。動けないから鍵を預けて、一人暮らしの部屋にあるリュックサックに財布と保険証が一緒に入っていると部屋番号を伝えれば、わかったと車に残された。



「お待たせ。勝手に悪いと思ったけど、見えるところにあった上着とか着替えもリュックに突っ込んできたから後で確認してもらえるかな」 

「ありがとうございます」



 部屋、汚くなかったかなといらない心配をしながら走り始めた車に揺られる。目を開けば運転席でハンドルを握る彼の横顔が見えて、あぁ横顔も格好良いと頬が緩む。信号で停まった瞬間、こちらを確認した彼と目が合ってドキリと心臓が跳ねる。

 大丈夫、痛む?と優しく尋ねられて、首を振ることはできないから、大丈夫と小さく答えればもうすぐ着くからねと微笑まれた。



 大きな総合病院で保険証を出し、彼に予診票の記入をしてもらい待合室の椅子で待てば、ほどなくして名前を呼ばれた。待合室は混んでいたがいいのだろうか、と脳神経外科の札をチラリと見上げて入室すれば、どうぞお掛けくださいと低い声で告げられた。



「よろしくお願いします」



 一人ではくらくらして歩けないから、彼が横に付き添ってくれている。椅子に座るまで支えてくれた彼にお礼を言おうとして、まだ名前も知らないことに驚いた。



「中野わたるさん、ですね」

「はい」

「まき、何があった?」

「?」



 まきと呼ばれた彼が脳神経外科の先生に事情を説明してくれている、知り合いだろうか。小首を傾げていたら苦笑した先生が、まきは僕の義理の弟でしてと言われた。

 なるほどと言えば、先生はまきさんに大事な人ならきちんと説明してから連れてきてあげなさいと少し厳しい声で言った。



「あ、あのっ、違うんですよ?走ってて挨拶するだけの、お名前も知らない方ですから、」



 焦ってフォローするつもりが、まずいことを口にしたのか先生の眉がくいっと寄せられた。



「まき、まずはお互いをよく知ること。相手に無理強いしては駄目だぞ」

「え、いや、あの……」

「義理とはいえ弟が申し訳ない、私は桜井雅紀まさきです、どうぞよろしく。ほれ、まき」



 促されて、困った風にまきさんが自己紹介をしてくれた。



「まきって呼ばれていますが、大島真樹まさきです」

「中野わたるです。助けてくださって、ありがとうございます」

「OK、では精密検査をしてしまうから、看護師の指示に従ってください」

「は、はい。よろしくお願いします」



 検査を受けて結果が出るまで待たねばならない、ということだったが座っているとくらりと目まいがする。目をつぶっていてもジェットコースターに揺られているようにぐらぐらするから、どうしたものかと思っていれば真樹が肩を貸してくれた。

 肩を抱いて支えてもらい頭を固定できれば、目まいはずいぶん楽になった。気持ちに余裕が出てくると男性に病院の待合室で肩を抱かれて頭を預ける図は、恥ずかしいのかもしれないと気づいたが今更だ。目をつぶったまま恥ずかしさに耐えていると、そのうち寝てしまったらしい。



「わたるさん、起きれますか?」



 優しく肩を叩かれて目を覚ます。先ほどよりもすっきりした気持ちで目覚めて顔を上げれば、整った真樹の顔が近くにあった。呼ばれましたから行きましょうかと促されて、脳神経外科の診察室へと入った。

 結果はどれも問題なさそうだ、ということだった。骨にも脳にも異常はなく、こぶになって腫れるだろうが、腫れが引けば大丈夫だろう。一応一週間後の診察をその場で予約してもらい、診察は終わった。

 ありがとうございましたと礼を言うと、なぜか先生がこちらこそ、まきをよろしくと答えた。



 会計を済ませると、真樹が領収証を預かってもよいか、と尋ねてきた。フリスビーを投げた男性に払わせるから、ということらしい。自分ではその辺はどうにもできないし、確かに無職でこの検査費用の出費は痛いので、払ってもらえるのならば助かりますと任せた。



 帰る前に洗面所へと行き鏡を見ると、看護師さんに湿布を貼られ簡易的な包帯で止められた額は痛々しい。これじゃ明日は走れないかなと額にかかる髪をかき上げて鏡を見ていたら、わたるさん大丈夫?と真樹が入り口から声を掛けてきた。



「お待たせしているのに、すいません」

「いや、俺は平気。わたるさんが具合悪いのかと思って」

「え、あの、大丈夫ですっ」



 病院の駐車場に向かってゆっくり歩きながら、ふと不安になってわたるは真樹に聞いてみる。



「あの、大島さん。今日お仕事は大丈夫ですか」

「あぁ大丈夫、連絡は入れてありますから」

「良かった、今日のお礼はまた改めてさせてください」



 迷惑は既にかけているが、仕事を無断欠勤させたわけではないのだとホッとすれば、真樹は毎朝すれ違うときの笑顔をわたるに見せた。



「できればわたるさんには、まきって呼んでもらいたいんですが」

「えっと、あの……」

「ね、わたるさん」

「……ではあの、まきさん………よろしくお願いします」

「はい、よろしくお願いします」



 もう昼も近いですから何か食べましょうかと言われて、わたるもずいぶんお腹が空いていることに気がついた。車へと乗り込みエンジンをかけ走り出す前に。当たり前のように助手席へと座らされ、目一杯倒していたシートを元に戻すからごめんねと言って、わたるの身体の向こう側にある助手席シートのレバーを操作する真樹に少しの間だけ密着され、わたるの心臓は跳ねた。



 真樹の家に車を停めて徒歩ですぐの場所に、美味しいと評判のカレー屋があった。わたるもテイクアウトで食べたことがある、焼き立てナンの美味しいカレー屋だ。

 辛さを5段階選べるのだが、辛さに強くないわたるはいつも1辛しか頼んだことがない。ランチで混みだす前の静かな店内で、真樹は2辛のカレーを頼んでいる。互いのカレーをナンで掬って食べ合い、やはり2辛でもわたるには少し辛すぎるように感じると言えば、真樹に笑われた。



 ラッシーを飲んでも辛さは薄れず、店を出たあとも何だか辛くて唇が腫れている気がすると言えば、立ち止まった真樹が真剣な顔でわたるの顔に手を伸ばしてきた。真樹の親指が唇に触れ、わずかに押す。

 一瞬視線が絡み合い、次いで唇から指を離した真樹が破顔した。



「大丈夫、腫れてないよ」

「あ、ぅ……」



 一瞬キスされるのかと期待してしまった自分にびっくりして、わたるは背負ったリュックサックの肩ひもをギュッと握りしめた。



(まきさんは親切なだけだ。期待しちゃ駄目、絶対駄目だ)



 目の前でフリスビーが頭に当たって人が倒れれば、そりゃ驚いて病院へ連れていくだろう。この人の親切は自分の気持ちとは違うのだと自分自身によく言い聞かせて、わたるはようやく笑うことができた。



「唇が腫れてないならよかった。腫れるのは額だけで十分だもんね」

「その額は、しばらく痛そうだ。明日とか色も変わりそう」



 離れた手がまた戻って来て、わたるの額の髪をかき上げた。真樹はわたるの心臓をいちいち跳ねさせる、治まったはずの心臓のドキドキがまた激しくなってきて、わたるはギュッと目をつぶった。



「わたるさんっ、大丈夫?具合悪い?」

「だ、大丈夫です……」



 真樹が恰好良すぎて心臓が辛いとは言えないわたるである。



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