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彼があんまり屈託のない笑顔なんて見せるから。
つい距離感を忘れて額の様子を見ようと、手を伸ばして髪に触れてしまった。そもそも湿布のされた患部だ、腫れ具合など見えるはずもないのに。
彼が目を閉じたから具合が悪くなったのかと焦る、俺の手が離れると彼の額にハラリと前髪が落ちた。視線を合わさず伏し目がちに大丈夫と言う彼に、少し見惚れる。
フリスビーが頭に当たった彼を病院へ連れて行き、彼の代わりに予診票を記入した。名前も住所も電話番号も生年月日も、全部俺が書いた。病歴はなし、喫煙歴もなし、酒は週にビール2本程度、花粉アレルギーあり、未婚。
てっきり年下かと思っていた彼が二歳年上だった、そんな彼の個人情報を一気に手に入れて俺はとても満足する。彼が怪我をしたというのに俺はそれを利用して喜んでいる、こんなに気持ち悪い男だと気づかれるわけにはいかない。
毎朝河原を走る彼に会うのが楽しみだった。会うとはいってもどこから来ているのかは知らないが、大体同じ時間にすれ違うだけだ。
一瞬すれ違う、そこで視線を交わして挨拶するだけ。毎日声を掛け続けていれば、笑顔を見せてくれるようになった。いっそ思い切って立ち止まり声を掛けて話をしてみたい、どこに住んでいるのか、近くなら今度飲みに行きませんか。
何度も誘おうとして、朝陽に照らされて眩しそうに目を細めている彼に見惚れて、できなかった。
早朝のランニングですれ違うだけの男から誘われて、もし俺だったら付いていくか。冷静に考えてすっぱりと断るだろう、よほど趣味でも合えば考えるかも知れないが朝の挨拶だけの関係に、趣味も何もわからない。
いつか彼と酒でもお茶でも食事でも、とにかく一緒に座ってゆっくりと話をしてみたい。そんなことを考えながら挨拶を交わし、走っているときのことだ。
叫び声が聞こえて振り向けば、彼の頭に何かがぶつかるのが見えた。
一瞬避けようとしたが間に合わず、スローモーションのように彼が目の前で倒れた。
彼のそばにフリスビーが転がるのがゆっくりと見えてはっと気づいて走り寄り、頭が地面に打ち付けられるのだけは阻止した。俺の部屋は河原からすぐだから走るときには鍵以外を持ち歩かない。集まってきた野次馬に聞いても、携帯電話を持つ人間がこんなときに限って一人もいない。
俺はフリスビーを投げた男の顔をしっかりと見ると、連絡先を聞いて覚えた。とにかく彼を病院へと促され、野次馬たちは年配の女性ばかりだから俺が彼を背負った。
部屋まで背負って戻り、フローリングに転がすわけにもいかずひとまず寝具に置かせてもらった。すぐに義理の兄へと連絡を入れ、とりあえず受け入れの準備をしてもらう。
病院へ連れて行くなら会社へも連絡が必要だろう、電話に出た早めに出社していた部下に休む旨を伝えて、冷蔵庫から水を取り出して飲みようやく一息ついた。
彼の目が覚め、病院へ連れて行き、流れのままに食事をして少し調子に乗ってしまった。彼は今朝怪我をしたばかりなのだ、それをいい気になって連れ回せば体調も悪くなるだろう。
「怪我して具合が悪いのに、無理させてすまない」
車で自宅まで送るかと彼に言えば、わずかに不安そうな顔をした。それはそうだ、朝は意識を失って目まいがすると言っていた。もし一人になるのが不安なら俺の部屋へ来るかと誘えば、お邪魔でなければと小さな声で彼が答えた。
ゆっくりと二人で歩きながら部屋へと戻り、鍵を開けてドアを押さえる。わたるさんどうぞと促して彼に先に入ってもらう。洗面所と風呂の扉を指さして説明しながら短い廊下を進み、対面式のキッチンとリビングが一緒になった部屋と階段を上がったロフトが寝るところと説明すれば、部屋の紹介は終わりだ。
一人暮らしだから邪魔ということはないと言えば、おれも一人暮らしですと彼が笑った。知ってますよと笑えば一瞬キョトンとして、あぁそうだったと言って白い歯が見えた。
「おれ、まきさんに部屋の鍵預けたんでした」
「そうそう、リュックサックに勝手に着替え詰めてきたんで、うちで風呂入って着替えたらさっぱりするでしょ」
「そういえば二人ともランニングの恰好のままだ。おれはともかく、まきさんはすみませんでした」
「いやいや、休日の恰好はこんなもんです」
「じゃあ普段は?」
普段はスーツですね、仕事柄と答えると彼の笑顔が固まった。俺は何かまずいことを言ってしまったのだろうか。彼は硬い顔のまま、立ち入ったことを聞いてすみませんと謝った。
スーツがまずかったのか、それとも仕事か。次の言葉を探していると、彼が口を開いた。失業したばかりであること、会社都合で失業保険を受けられるのでしばらく休暇のつもりでのんびり過ごそうと思っていたこと。
「……だけど、まきさんはきちんとスーツ着て毎日働いているのに、おれは裕福なわけでもないのにのんびり過ごそうだなんて考えて。休み過ぎるなって、バチが当たっちゃったのかな」
話しながら何が恥ずかしいのか彼の耳が赤い。
「わからないんですけど、」
と前置きして俺は彼に向き合った。テレビをつけたまま昼寝をするにはちょうどいい三人掛けのソファーに彼を座らせて、俺はその前に屈んで膝をつきしっかりと目線を合わせる。半日ほど一緒にいて、彼があまり目を合わせたがらない人なのかな、という印象を受けた。それでもきちんと話すときには目を見て話すべきだと俺は思う。
「わたるさんはずっと働いてきたんでしょう?頑張ってきた人間に、バチなんて当たるはずがない。バチが当たるなら、むしろ俺の方。わたるさんが怪我をして痛い思いしてるのに、今日一日でわたるさんとこんなに仲良くなれたって喜んでる」
「え、と……ありがとうございます」
「俺はこんなずるいこと考える人間で、実は前からずっとわたるさんのことが気になってた」
「………あの、」
「気持ち悪いって、嫌なら嫌って言ってください。俺はこういう人間なんです」
彼は目を逸らさず俺の話を最後まで聞いて、それでも首を少しだけ横に振った。
「気持ち悪いだなんて……あの、おれもまきさんのこと気になっていました」
「えっ、どんな?どんな風に?」
「えと、あの、おれとは接点のなさそうな人だなぁと……」
期待で膨らんだ風船のような気持ちがしゅんと萎しぼむ。あからさまに気落ちした俺を気遣ってか、彼は慌ててまきさんは格好良いからと付け足してくれた。
お気遣いありがとうと礼を言いつつも、俺は彼との距離を計る。彼の気持ちは全く読めない、脈があるのかないのか、ノンケなのかこちら側なのか。彼のことはそれすらもさっぱり分からない。
まぁ顔見知りから一歩進んで、今日名前を知ったばかりだ。しばらくはこのままでいって、気軽に誘える友人という立場まで持っていきたいものだ。
「良ければ先にシャワー浴びちゃって。頭は洗わないほうがいいと思うけど」
「あ、あ、はいっ。お借りしますっ」
ぎくしゃくとした動きでリュックサックを開けて中身を確認する彼がかわいらしい。
「勝手に詰めたけど、服はそれで大丈夫そう?」
「だ、大丈夫、です。ありがとう」
「バスタオルは、これ。洗ってあるから使って」
「うん。……ありがとう」
なぜだか嬉しそうな顔をして、彼は浴室に入っていった。浴室の水音はすぐに止んで、お先にありがとうございましたと言いながら、彼はTシャツにハーフパンツという恰好で出てきた。
先ほどまでの走っていた恰好と変わらないのだが、荷物を取りに入った彼の部屋で見える場所に置いてあったのがそれしかなかったのだから仕方ない。
身体を繋げるわけでもないのだから、シャワーが早いのは当たり前だ。頭を濡らせない彼のシャワーが早いのも当然のことだが、通常当たり前のことを妙に新鮮に感じつつ俺も素早くシャワーを済ませた。
彼と同じような恰好で髪を拭きながら部屋へ戻れば、ソファーから振り返った彼が俺を見て耳まで赤くした。何が彼をそうさせたのかわからないので、髪をガシガシと拭きながらどうしたと尋ねたのだが、首を横に振って何でもないと言うばかりだ。
これは脈があると、思ってもいいのだろうか。
試しに少しだけ距離を縮めてみようかと彼の方へ身体を傾けてみれば、身体がぎくりと強張こわばった。この反応はつまりえーと、どういうことだ?拒否なのか警戒しているだけなのか。彼が怖がってしまわないように、そのままするりとソファーに手を掛け彼から少し離れた場所に腰掛けた。
「うち映画とかスポーツとかアニメとか、見放題だけど何か観る?」
テレビを点けてチャンネルを回しながら、好きなのあればどうぞとリモコンごと彼に手渡す。それを律儀に両手で受け取って、この時間にどんな映画がやってるんだろうと呟く彼を見守る。
「このボタンで公開されてる映画欄が出るから、こっちで選んで緑のボタンで始まるからどうぞ」
「おぉー、すごい!あっ、観たかったやつがある」
「じゃそれで」
「いいんですか?古い映画で退屈かも……」
「わたるさんが観たかったんでしょ、一緒に観よう?」
俺は彼と一緒にいられるだけで満足なのだから退屈なわけがない、またもや顔を赤らめた彼がこくこくと頷いた。もしかしたら、彼はただの赤面症なのかもしれない。
飲み物を持ってくるけどコーヒーでいいかと尋ねれば、牛乳を入れたいんだけどある?と聞かれた。リモコンを両手で持ったまま上目遣いとか、無自覚か。押し倒したくなる衝動をぐっとこらえて、笑顔で了解と答えてソファーから立ち上がった。
彼が観たかったといった映画は本当に古い映画で、だけどワンカットごとに切り取ってポストカードにできるのではないかというくらい洗練された映画だった。長い映画を案外真剣に観てしまい、終わって感想を話し合う。
映像も良いけど曲が良かったと言えば、うんうんと彼が頷く。
「これは若い時に観てもよくわからない映画だったかも、今日まきさんと一緒に観られて良かったです」
「それはある、あと今すぐ飲みたいのが、「濃いコーヒー」」
ふはっと二人で笑って、試してみようと一緒にキッチンへ立った。映画の通りに試してみようとして冷蔵庫を開けると、卵がなかった。ないものは仕方ないと濃い目のコーヒーを淹れて、彼の分は少しだけ温めた牛乳を加えてカフェオレにする。
「持っていくから、向こう座って」
「あ、うん」
ソファーに座った彼にマグカップを渡すと、やはり両手で受け取ってありがとうと頬を緩めた。
「美味しい」
「そう、良かった」
わたるさんも美味しそう、と心の中で思いながらとりとめのない会話を続ける。俺の仕事のこと、会社は駅の近くにある某社だと言えば、会社が近いと呼び出しされたりしない?と眉をひそめられた。彼はそんなブラックに勤めていたんだろうか、うちではそんなことはないと言えば安心したように笑った。
気づけば俺ばかりが話していて、彼はとても聞き上手だった。わたるさんのことも聞きたいとねだれば、面白くもないけれどと前置いてぽつぽつと話してくれた。
お母さんはフィリピン人で、彼を産んですぐに国へ帰ってしまったこと。父親のところに残されたが結局養護施設に預けられ、施設にいられる18歳までそこで育ったこと。父親の元に戻って大学へ通い就職後一人暮らしを始めて、最近離職したこと。
「あー、なるほど。だからわたるさん綺麗な顔してるんだ」
「き、きれいって……」
「あ、言い方まずかった?綺麗だと思うけど、すごく整ってるし」
仕事柄色んな国の人が働いているけど、フィリピン人はみんな鼻が低くて丸い。彼は肌の色も白いし鼻筋はしゅっと通っていて言うなればフィリピン人ぽくはない。
「わたるさんて顔は結構、父親似?」
「顔はそうかも。性格は全然似てないけど」
「そっか、俺も小さい頃はそんなことなかったんだけど、最近めちゃくちゃ親父に似てきたって言われる」
「お父さんも格好良いんだ」
「向こうは腹出てるけどね。電話の声とかそっくりらしい」
ふふふと笑う彼は本当にかわいらしい。この頃には、俺にはもうわたるさんを手放すつもりなど毛頭なくなっていた。全力で向かい合って、絶対に手に入れる。
落とすにはまず胃袋からだと、早速俺はターゲット本人にリサーチを始めた。
つい距離感を忘れて額の様子を見ようと、手を伸ばして髪に触れてしまった。そもそも湿布のされた患部だ、腫れ具合など見えるはずもないのに。
彼が目を閉じたから具合が悪くなったのかと焦る、俺の手が離れると彼の額にハラリと前髪が落ちた。視線を合わさず伏し目がちに大丈夫と言う彼に、少し見惚れる。
フリスビーが頭に当たった彼を病院へ連れて行き、彼の代わりに予診票を記入した。名前も住所も電話番号も生年月日も、全部俺が書いた。病歴はなし、喫煙歴もなし、酒は週にビール2本程度、花粉アレルギーあり、未婚。
てっきり年下かと思っていた彼が二歳年上だった、そんな彼の個人情報を一気に手に入れて俺はとても満足する。彼が怪我をしたというのに俺はそれを利用して喜んでいる、こんなに気持ち悪い男だと気づかれるわけにはいかない。
毎朝河原を走る彼に会うのが楽しみだった。会うとはいってもどこから来ているのかは知らないが、大体同じ時間にすれ違うだけだ。
一瞬すれ違う、そこで視線を交わして挨拶するだけ。毎日声を掛け続けていれば、笑顔を見せてくれるようになった。いっそ思い切って立ち止まり声を掛けて話をしてみたい、どこに住んでいるのか、近くなら今度飲みに行きませんか。
何度も誘おうとして、朝陽に照らされて眩しそうに目を細めている彼に見惚れて、できなかった。
早朝のランニングですれ違うだけの男から誘われて、もし俺だったら付いていくか。冷静に考えてすっぱりと断るだろう、よほど趣味でも合えば考えるかも知れないが朝の挨拶だけの関係に、趣味も何もわからない。
いつか彼と酒でもお茶でも食事でも、とにかく一緒に座ってゆっくりと話をしてみたい。そんなことを考えながら挨拶を交わし、走っているときのことだ。
叫び声が聞こえて振り向けば、彼の頭に何かがぶつかるのが見えた。
一瞬避けようとしたが間に合わず、スローモーションのように彼が目の前で倒れた。
彼のそばにフリスビーが転がるのがゆっくりと見えてはっと気づいて走り寄り、頭が地面に打ち付けられるのだけは阻止した。俺の部屋は河原からすぐだから走るときには鍵以外を持ち歩かない。集まってきた野次馬に聞いても、携帯電話を持つ人間がこんなときに限って一人もいない。
俺はフリスビーを投げた男の顔をしっかりと見ると、連絡先を聞いて覚えた。とにかく彼を病院へと促され、野次馬たちは年配の女性ばかりだから俺が彼を背負った。
部屋まで背負って戻り、フローリングに転がすわけにもいかずひとまず寝具に置かせてもらった。すぐに義理の兄へと連絡を入れ、とりあえず受け入れの準備をしてもらう。
病院へ連れて行くなら会社へも連絡が必要だろう、電話に出た早めに出社していた部下に休む旨を伝えて、冷蔵庫から水を取り出して飲みようやく一息ついた。
彼の目が覚め、病院へ連れて行き、流れのままに食事をして少し調子に乗ってしまった。彼は今朝怪我をしたばかりなのだ、それをいい気になって連れ回せば体調も悪くなるだろう。
「怪我して具合が悪いのに、無理させてすまない」
車で自宅まで送るかと彼に言えば、わずかに不安そうな顔をした。それはそうだ、朝は意識を失って目まいがすると言っていた。もし一人になるのが不安なら俺の部屋へ来るかと誘えば、お邪魔でなければと小さな声で彼が答えた。
ゆっくりと二人で歩きながら部屋へと戻り、鍵を開けてドアを押さえる。わたるさんどうぞと促して彼に先に入ってもらう。洗面所と風呂の扉を指さして説明しながら短い廊下を進み、対面式のキッチンとリビングが一緒になった部屋と階段を上がったロフトが寝るところと説明すれば、部屋の紹介は終わりだ。
一人暮らしだから邪魔ということはないと言えば、おれも一人暮らしですと彼が笑った。知ってますよと笑えば一瞬キョトンとして、あぁそうだったと言って白い歯が見えた。
「おれ、まきさんに部屋の鍵預けたんでした」
「そうそう、リュックサックに勝手に着替え詰めてきたんで、うちで風呂入って着替えたらさっぱりするでしょ」
「そういえば二人ともランニングの恰好のままだ。おれはともかく、まきさんはすみませんでした」
「いやいや、休日の恰好はこんなもんです」
「じゃあ普段は?」
普段はスーツですね、仕事柄と答えると彼の笑顔が固まった。俺は何かまずいことを言ってしまったのだろうか。彼は硬い顔のまま、立ち入ったことを聞いてすみませんと謝った。
スーツがまずかったのか、それとも仕事か。次の言葉を探していると、彼が口を開いた。失業したばかりであること、会社都合で失業保険を受けられるのでしばらく休暇のつもりでのんびり過ごそうと思っていたこと。
「……だけど、まきさんはきちんとスーツ着て毎日働いているのに、おれは裕福なわけでもないのにのんびり過ごそうだなんて考えて。休み過ぎるなって、バチが当たっちゃったのかな」
話しながら何が恥ずかしいのか彼の耳が赤い。
「わからないんですけど、」
と前置きして俺は彼に向き合った。テレビをつけたまま昼寝をするにはちょうどいい三人掛けのソファーに彼を座らせて、俺はその前に屈んで膝をつきしっかりと目線を合わせる。半日ほど一緒にいて、彼があまり目を合わせたがらない人なのかな、という印象を受けた。それでもきちんと話すときには目を見て話すべきだと俺は思う。
「わたるさんはずっと働いてきたんでしょう?頑張ってきた人間に、バチなんて当たるはずがない。バチが当たるなら、むしろ俺の方。わたるさんが怪我をして痛い思いしてるのに、今日一日でわたるさんとこんなに仲良くなれたって喜んでる」
「え、と……ありがとうございます」
「俺はこんなずるいこと考える人間で、実は前からずっとわたるさんのことが気になってた」
「………あの、」
「気持ち悪いって、嫌なら嫌って言ってください。俺はこういう人間なんです」
彼は目を逸らさず俺の話を最後まで聞いて、それでも首を少しだけ横に振った。
「気持ち悪いだなんて……あの、おれもまきさんのこと気になっていました」
「えっ、どんな?どんな風に?」
「えと、あの、おれとは接点のなさそうな人だなぁと……」
期待で膨らんだ風船のような気持ちがしゅんと萎しぼむ。あからさまに気落ちした俺を気遣ってか、彼は慌ててまきさんは格好良いからと付け足してくれた。
お気遣いありがとうと礼を言いつつも、俺は彼との距離を計る。彼の気持ちは全く読めない、脈があるのかないのか、ノンケなのかこちら側なのか。彼のことはそれすらもさっぱり分からない。
まぁ顔見知りから一歩進んで、今日名前を知ったばかりだ。しばらくはこのままでいって、気軽に誘える友人という立場まで持っていきたいものだ。
「良ければ先にシャワー浴びちゃって。頭は洗わないほうがいいと思うけど」
「あ、あ、はいっ。お借りしますっ」
ぎくしゃくとした動きでリュックサックを開けて中身を確認する彼がかわいらしい。
「勝手に詰めたけど、服はそれで大丈夫そう?」
「だ、大丈夫、です。ありがとう」
「バスタオルは、これ。洗ってあるから使って」
「うん。……ありがとう」
なぜだか嬉しそうな顔をして、彼は浴室に入っていった。浴室の水音はすぐに止んで、お先にありがとうございましたと言いながら、彼はTシャツにハーフパンツという恰好で出てきた。
先ほどまでの走っていた恰好と変わらないのだが、荷物を取りに入った彼の部屋で見える場所に置いてあったのがそれしかなかったのだから仕方ない。
身体を繋げるわけでもないのだから、シャワーが早いのは当たり前だ。頭を濡らせない彼のシャワーが早いのも当然のことだが、通常当たり前のことを妙に新鮮に感じつつ俺も素早くシャワーを済ませた。
彼と同じような恰好で髪を拭きながら部屋へ戻れば、ソファーから振り返った彼が俺を見て耳まで赤くした。何が彼をそうさせたのかわからないので、髪をガシガシと拭きながらどうしたと尋ねたのだが、首を横に振って何でもないと言うばかりだ。
これは脈があると、思ってもいいのだろうか。
試しに少しだけ距離を縮めてみようかと彼の方へ身体を傾けてみれば、身体がぎくりと強張こわばった。この反応はつまりえーと、どういうことだ?拒否なのか警戒しているだけなのか。彼が怖がってしまわないように、そのままするりとソファーに手を掛け彼から少し離れた場所に腰掛けた。
「うち映画とかスポーツとかアニメとか、見放題だけど何か観る?」
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「このボタンで公開されてる映画欄が出るから、こっちで選んで緑のボタンで始まるからどうぞ」
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「じゃそれで」
「いいんですか?古い映画で退屈かも……」
「わたるさんが観たかったんでしょ、一緒に観よう?」
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飲み物を持ってくるけどコーヒーでいいかと尋ねれば、牛乳を入れたいんだけどある?と聞かれた。リモコンを両手で持ったまま上目遣いとか、無自覚か。押し倒したくなる衝動をぐっとこらえて、笑顔で了解と答えてソファーから立ち上がった。
彼が観たかったといった映画は本当に古い映画で、だけどワンカットごとに切り取ってポストカードにできるのではないかというくらい洗練された映画だった。長い映画を案外真剣に観てしまい、終わって感想を話し合う。
映像も良いけど曲が良かったと言えば、うんうんと彼が頷く。
「これは若い時に観てもよくわからない映画だったかも、今日まきさんと一緒に観られて良かったです」
「それはある、あと今すぐ飲みたいのが、「濃いコーヒー」」
ふはっと二人で笑って、試してみようと一緒にキッチンへ立った。映画の通りに試してみようとして冷蔵庫を開けると、卵がなかった。ないものは仕方ないと濃い目のコーヒーを淹れて、彼の分は少しだけ温めた牛乳を加えてカフェオレにする。
「持っていくから、向こう座って」
「あ、うん」
ソファーに座った彼にマグカップを渡すと、やはり両手で受け取ってありがとうと頬を緩めた。
「美味しい」
「そう、良かった」
わたるさんも美味しそう、と心の中で思いながらとりとめのない会話を続ける。俺の仕事のこと、会社は駅の近くにある某社だと言えば、会社が近いと呼び出しされたりしない?と眉をひそめられた。彼はそんなブラックに勤めていたんだろうか、うちではそんなことはないと言えば安心したように笑った。
気づけば俺ばかりが話していて、彼はとても聞き上手だった。わたるさんのことも聞きたいとねだれば、面白くもないけれどと前置いてぽつぽつと話してくれた。
お母さんはフィリピン人で、彼を産んですぐに国へ帰ってしまったこと。父親のところに残されたが結局養護施設に預けられ、施設にいられる18歳までそこで育ったこと。父親の元に戻って大学へ通い就職後一人暮らしを始めて、最近離職したこと。
「あー、なるほど。だからわたるさん綺麗な顔してるんだ」
「き、きれいって……」
「あ、言い方まずかった?綺麗だと思うけど、すごく整ってるし」
仕事柄色んな国の人が働いているけど、フィリピン人はみんな鼻が低くて丸い。彼は肌の色も白いし鼻筋はしゅっと通っていて言うなればフィリピン人ぽくはない。
「わたるさんて顔は結構、父親似?」
「顔はそうかも。性格は全然似てないけど」
「そっか、俺も小さい頃はそんなことなかったんだけど、最近めちゃくちゃ親父に似てきたって言われる」
「お父さんも格好良いんだ」
「向こうは腹出てるけどね。電話の声とかそっくりらしい」
ふふふと笑う彼は本当にかわいらしい。この頃には、俺にはもうわたるさんを手放すつもりなど毛頭なくなっていた。全力で向かい合って、絶対に手に入れる。
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