殿下、私の名前わかりますか?婚約破棄された悪役令嬢。

恋の箱庭

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王宮の夜会会場は、きらびやかなシャンデリアの光と、着飾った貴族たちの喧騒に包まれていた。

甘い香水と酒精の匂いが混ざり合うフロアの中心。

そこで今、音楽が止まり、張り詰めた沈黙が落ちてくる。

その中心に立っていたのは、この国の第二王子ジェラルドと、その腕にしがみつく男爵令嬢ミミー・ピンキー。

そして彼らと対峙するのは、公爵令嬢スコティア・ハミルトンだった。

ジェラルドは金髪を揺らし、芝居がかった仕草で叫ぶ。

「スコティア・ハミルトン! 貴様のような可愛げのない女との婚約は、今この時をもって破棄する!」

会場中がどよめいた。

誰もが、断罪された公爵令嬢の反応を固唾を飲んで見守る。

泣き崩れるのか、あるいは怒り狂うのか。

だが、スコティア――通称「スコット」の反応は、その場の誰の予想も裏切るものだった。

「承知いたしました」

スコットは、表情一つ変えずに即答した。

その声は驚くほど冷静で、まるで明日の天気を報告するキャスターのようだ。

彼女はすらりとした長身に、装飾の少ないミッドナイトブルーのドレスを纏っている。

艶やかな黒髪は無造作にかき上げられ、鋭い碧眼は氷のように冷徹だ。

「……は?」

拍子抜けした声を上げたのは、ジェラルドの方だった。

彼はスコットが足元に縋り付いてくる図を想像していたのだろう。

スコットは懐から革張りの手帳を取り出し、さらさらとペンを走らせる。

「婚約破棄の宣言、確かに受領いたしました。本日の日付は王暦五二五年六月一〇日、時刻は午後八時一五分。証人はこの場にいる全員ということでよろしいですね?」

「な、なんだその態度は! 少しは悲しむとか、悔しがるとかしないのか!?」

「感情の吐露は時間の無駄です。殿下、それより手続きを」

「て、手続きだと……?」

「はい。こちらをご覧ください」

スコットは手元の書類を一枚、バサリと広げた。

そこには細かな数字と品目がびっしりと羅列されている。

「これは、私が殿下の婚約者として費やした『交際費』および『精神的苦痛に伴う慰謝料』の請求書です」

「はあああああ!?」

ジェラルドが素っ頓狂な声を上げる。

スコットは淡々と、赤ペンで項目を指し示しながら解説を始めた。

「まず、殿下がそちらのピンキー男爵令嬢に贈られた宝飾品代。なぜか私の公爵家名義でツケられていました。計五〇〇万ゴールド。次に、殿下が公務をサボってデートに行かれた際の補填業務手当。私の残業代として計三〇〇万ゴールド。そして今回の婚約破棄による当家の風評被害対策費として――」

「待て待て待て! なんだそのふざけた金額は!」

「ふざけているのは殿下の頭の中身です。全て領収書と活動記録の裏付けがございます。後ほど弁護士を通じて王室経理部へ送付しますので、決済をお願いしますね」

会場の空気が凍りついた。

婚約破棄の現場で、まさか請求書を突きつける令嬢がいようとは。

ジェラルドの隣で、ミミーが震える声を出した。

「ひっ、ひどいですぅ……スコットお姉様、お金のことばかり……やっぱり冷たい人……」

ミミーは涙目になり、上目遣いで周囲の同情を誘おうとする。

ピンク色のふわふわした髪と小柄な体躯は、確かに庇護欲をそそるかもしれない。

だが、スコットには通用しなかった。

「ピンキー男爵令嬢。その涙、成分分析にかけましょうか?」

「えっ」

「先ほどから拝見していましたが、瞬きの回数が不自然に多いですね。それに涙の流れるラインが左右対称すぎます。市販の目薬『ナミダデール』の使用を疑わざるを得ませんが」

「な、なによそれ! 知らないわよ!」

「ほう、知らないと仰る。では、あなたのドレスのポケットの膨らみは? 形状からして目薬の瓶と推測されますが」

スコットが一歩踏み出すと、ミミーは「ひぃっ!」と悲鳴を上げてジェラルドの背後に隠れた。

その動きすらも計算尽くであることを見抜き、スコットは呆れたように息を吐く。

「まあいいでしょう。殿下、そちらの女性がお好みならどうぞご自由に。管理コストがかかるばかりで利益を生まない物件は、早めに手放すに限ります」

「ぶ、物件だと!? ミミーをモノ扱いするな!」

「おや、殿下こそ私を『便利な財布』兼『公務代行マシーン』として扱っておいででしたよね? その認識に相違が?」

スコットの正論パンチが炸裂する。

ジェラルドは顔を真っ赤にして口をパクパクさせたが、言い返す言葉が見つからないらしい。

周囲の貴族たちも、最初は「可哀想な令嬢」を見る目だったが、今は「この令嬢、強すぎる」という畏敬の念に変わっていた。

スコットはふと、自分の左手の薬指に視線を落とす。

そこには、王家から贈られた婚約指輪が嵌まっていた。

「ああ、そうでした。これを忘れてはいけませんね」

彼女は躊躇なく指輪を引き抜くと、ジェラルドに向かって放り投げた。

キラリと放物線を描いた指輪は、見事にジェラルドのワイングラスの中にポチャンと着水した。

「へっ!?」

「返却いたします。リサイズ代も請求項目に入れておきますので、ご安心を」

ワインを浴びたジェラルドが情けない声を上げる中、スコットは優雅に一礼した。

その姿は、舞踏会の誰よりも美しく、そして男前だった。

「では、私はこれにて。溜まっている書類がございますので」

「ま、待て! まだ話は終わってないぞ!」

「終わりました。殿下は自由、私は解放。これぞWin-Winの関係です。それでは、ごきげんよう」

スコットは踵を返し、颯爽と歩き出した。

ドレスの裾を翻すその背中には、「残業上等」「実務最高」という文字が見えるかのようだ。

呆然とするジェラルドとミミー、そして静まり返る会場。

だが、その様子を会場の隅から面白そうに見つめる男が一人いた。

この国の宰相、ギルバート・フォン・アイゼンシュタインである。

銀縁眼鏡の奥で、氷のような瞳が妖しく光った。

「……面白い」

彼は口元に笑みを浮かべ、独り言ちる。

「あの計算速度、あの胆力、そして何よりあの迷いのなさ……。素晴らしい。実に素晴らしい素材だ」

ギルバートは手元のグラスを揺らしながら、去りゆくスコットの背中を熱っぽい視線で追った。

「今の我が国の財政難を救えるのは、あの『鉄の女』しかいないかもしれないな」

それは恋の予感というよりは、優秀なヘッドハンターが逸材を見つけた時の目に近かった。

扉が閉まる音と共に、スコットの姿が見えなくなる。

しかし、この夜の出来事は、後に語り継がれる伝説の始まりに過ぎなかった。

廊下に出たスコットは、一人静かに呟く。

「ふう……これでやっと、あのアホ王子の尻拭いから解放される」

彼女は拳を握りしめ、ガッツポーズをした。

「さあ、帰って未決裁の書類を片付けるぞ! 今夜は徹夜だ!」

婚約破棄された令嬢とは思えない台詞を吐き捨て、彼女は夜の王宮を我が物顔で進んでいくのだった。
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