殿下、私の名前わかりますか?婚約破棄された悪役令嬢。

恋の箱庭

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時刻は深夜二時を回っていた。

宰相府の執務室は、相変わらず不夜城の様相を呈している。

だが、以前のような悲壮感はない。

そこにいるのは、私の指揮下で精鋭部隊へと進化した官僚たちだ。

「第三班、西方地域の農業報告書まとめ完了!」

「よし、次は東方の鉱山開発計画の精査だ。休憩は五分。糖分を摂取しろ」

「イエス・マム!!」

軍隊のような規律と、謎の高揚感が支配する空間。

私は愛用の万年筆(インク切れ三回目)を交換しながら、満足げに頷いた。

「悪くないペースだ。これなら明日の朝までに今月の未処理案件をゼロにできる」

ふと、背後に気配を感じる。

振り返ると、そこにはギルバートが立っていた。

彼はいつものように完璧な着こなしだが、その手には小さな包みと、怪しげな瓶を持っていた。

「……ギルバート? どうした、自分の担当分は終わったのか?」

「ああ。君のおかげで余裕ができた。……少し、休憩しないか」

ギルバートの声色が、いつもより少し柔らかい。

執務室の空気が一変した。

聞き耳を立てていたルークたち部下が、ざわめき始める。

(おっ、おい見ろよ! 閣下がデレたぞ!)

(ついに愛の告白か!? こんな深夜のオフィスで……!)

(キャー! 差し入れを持ってくるなんて、まるで恋人同士みたい!)

部下たちの期待に満ちた視線が突き刺さる。

ギルバートは私のデスクの端に腰掛け、持っていた包みを差し出した。

「スコット。これを君に」

「私に? 報酬は給与として振り込まれる契約だが」

「個人的な贈り物だ。受け取ってくれ」

おおーっ、と歓声が上がりそうになるのを、部下たちが必死に堪えている気配がする。

箱の大きさからして、アクセサリーか? それとも香水か?

私はリボンの掛かった箱を受け取り、包装を解いた。

現れたのは、黒塗りの重厚なケース。

パカッ、と蓋を開ける。

そこに入っていたのは――。

「……万年筆?」

「そうだ。最高級の『ペリカン・スーパースムース五〇〇〇』だ」

宝石ではなかった。

だが、私の目はダイヤモンドを見た時以上に輝いた。

「こ、これは……! 重心が低く設計されていて、手首への負担を極限まで減らすという幻の逸品……! しかもペン先はオリハルコン合金製か!?」

「ああ。君の筆圧と筆記速度を計算し、特注で調整させた。これなら従来の三倍の速度でサインをしても、ペン先が摩耗しない」

「素晴らしい……! なんて機能美だ!」

私は震える手でその万年筆を握りしめた。

指に吸い付くようなグリップ感。

空中で試し書きをしてみると、空気抵抗すら感じないほどの滑らかさだ。

「ありがとう、ギルバート! これならあと二〇〇〇枚は連続で決裁できる!」

「気に入ってくれてよかった。君にはそれが一番似合うと思ってな」

ギルバートが優しげに微笑む。

部下たちは(えぇ……色気ねぇ……)という顔をしていたが、私たちは至って真剣だった。

「それともう一つ」

ギルバートは、もう一方の手に持っていた小瓶を差し出した。

毒々しい紫色をした液体が入っている。

「これは?」

「王室薬学研究所に作らせた、特製栄養ドリンクだ」

「色が凄いな。魔界の沼のような色だが」

「味は泥と雑巾を煮詰めたようなものらしい。だが、効果は保証する。飲めば三〇秒で脳の疲労が吹き飛び、一二時間は不眠不休で戦える」

「……合法か?」

「ギリギリだ」

私はその瓶を受け取ると、躊躇なく蓋を開けた。

ツンとした刺激臭が鼻を突く。

普通の令嬢なら卒倒するレベルだが、今の私には甘露の予感しかしなかった。

「いただきます」

グイッ。

一気に煽る。

「んぐっ……!? ま、ず……っ!!」

凄まじい味が舌を直撃した。

しかしその直後、食道から胃にかけて熱い塊が落ち、爆発的なエネルギーとなって全身を駆け巡った。

カッ!!

視界がクリアになり、重かった肩が嘘のように軽くなる。

「おおお……! 力が……力が湧いてくるぞ……!」

「どうだ?」

「最高だ、ギルバート! 脳の回転数が倍になった気がする! これなら徹夜明けの会議も余裕だ!」

「だろう? 私も愛飲している」

ギルバートは満足そうに頷き、そしておもむろに手を伸ばしてきた。

彼の冷ややかな指先が、私の頬に触れる。

(!!)

部下たちが息を呑む。

今度こそ、ロマンチックな展開か?

キスか? 抱擁か?

ギルバートの顔が近づいてくる。

その瞳は熱く、私を捉えて離さない。

「……スコット」

「なんだ?」

「口の端に、ドリンクが垂れている」

「あ」

「拭いてやる」

ギルバートは親指で私の唇の端を拭うと、その指についた紫色の液体を舐め取った。

「……うん。やはり不味いな」

「……君、趣味が悪いぞ」

「君限定だ」

その瞬間、執務室の空気が爆発した(主に部下たちの脳内で)。

『うわぁぁぁぁ! 見せつけやがったぁぁぁ!』

『栄養ドリンクを舐め合うカップルとか初めて見た!』

『でもなんか……尊い……のか? これ』

当の本人たちは、そんな周囲の反応など気にも留めない。

ギルバートは私の肩をポンと叩いた。

「さあ、燃料補給は完了だ。ラストスパートといこうか、我が妻よ」

「ああ、望むところだ、我が夫よ」

私たちはニヤリと笑い合い、再びそれぞれの戦場(デスク)へと戻っていった。

新しい万年筆の走りは最高だった。

インクが紙に吸い込まれるたびに、国の問題が一つ解決していく。

その快感に酔いしれながら、私はふと思った。

(……意外と、気が利くな。あいつ)

チラリと隣を見ると、ギルバートもまた、猛烈な勢いで書類を片付けている。

その横顔は真剣そのもので、余計な甘さはない。

けれど、私の手元にある万年筆と、体内で燃えるエネルギーが、彼の不器用な気遣いを物語っていた。

ジェラルド殿下からは、私の趣味に合わないドレスや花束ばかり贈られていた。

「君のためだ」と言いながら、結局は自分の理想を押し付けていただけだ。

だがギルバートは違う。

彼が贈ってくれたのは、私が最も必要とし、私の能力を最大限に活かせる「武器」だ。

私という人間を、正しく理解していなければ選べない品物だ。

「……ふっ」

自然と笑みがこぼれる。

「どうした? スコット」

「いや。……この万年筆、一生使うよ」

「……そうか。なら、インクの補充も私がやろう」

「契約成立だ」

言葉少ないやり取り。

でも、今の私にはどんな愛の言葉よりも心地よかった。

深夜の執務室。

紙とインクの匂い。

そして、隣で同じ速度で走ってくれるパートナー。

これが私の「幸せ」なのかもしれない。

……なんて感傷に浸っていたのは一瞬だった。

「スコット様! 大変です!」

ルークが血相を変えて飛び込んできた。

「今度はなんだ? 空から隕石でも降ってきたか?」

「いえ、もっと厄介です! 明日……いえ、今日の夜会についてですが……」

「夜会? ああ、国王陛下主催の定期晩餐会か。欠席でいいだろう、忙しい」

「それが……招待状の宛名が『ギルバート宰相夫妻』になっているんです! しかも、ジェラルド殿下が『私の元婚約者が宰相の元でどう変わったか、皆にお披露目してやろう』と息巻いているらしく……」

私は手を止めた。

ギルバートもペンを止める。

「……お披露目?」

「はい。どうやら殿下は、スコット様がボロボロの姿で現れて、恥をかくと確信しているようで……」

私は自分の姿を見下ろした。

機能性重視のパンツスーツ(男装に近い)。

徹夜続きだが、謎のドリンクのおかげで肌艶は異常にいい。

そして何より、今の私は「仕事の鬼」として覚醒状態にある。

「……面白い」

ギルバートが眼鏡を押し上げた。

「ボロボロの姿を見たい、か。期待を裏切るのは心苦しいが……倍返しにしてやるか」

「同感だ。売られた喧嘩は、利子をつけて買い取るのが商売の基本だ」

私は立ち上がり、新しい万年筆を空に掲げた。

「よし、総員! 現在の業務を一時凍結! これより作戦を変更する!」

「はっ!」

「目標、今夜の夜会! テーマは『最強の宰相夫妻』のプロモーションだ! 舐められたまま引き下がる私ではないこと、あの馬鹿王子に骨の髄まで教えてやる!」

「了解しましたぁぁぁ!」

こうして、私たちの次なる戦場は、煌びやかな夜会会場へと移ることになった。

ドレス? そんな軟弱なものは着ない。

私が纏うのは、宰相の隣に立つに相応しい「戦闘服」だ。
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