殿下、私の名前わかりますか?婚約破棄された悪役令嬢。

恋の箱庭

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その日、宰相府には珍しく雨が降っていた。

窓を叩く雨音だけが響く深夜の執務室。

私とギルバートは、いつものようにデスクを並べて書類と格闘していた。

だが、私の体内時計(および鋭敏な観察眼)が、ある異常を検知した。

「……ギルバート」

「なんだ」

「一九時三〇分以降、君のペン先が止まる頻度が増加している。一分間に平均三回。さらに、瞬きの回数が通常時の〇・八倍に減少。……体調不良か?」

私が指摘すると、ギルバートは少しだけ顔をしかめた。

「……観察が行き届いているな。だが問題ない。少し頭が重いだけだ」

「嘘をつくな。顔色が羊皮紙よりも白いぞ」

私は立ち上がり、彼のデスクに近づいた。

ギルバートは拒絶するように手を挙げる。

「寄るな、スコット。もし風邪なら、君に感染る(うつる)。それは宰相府にとって最大の損失だ」

「君が倒れることの方が損失だ。体温測定を行う」

私は問答無用で手を伸ばし、彼のおでこに自分の掌を当てた。

「……!」

熱い。

茹でたての卵くらい熱い。

「推定体温三八・五度。発熱だ。即刻業務停止、強制送還とする」

「待て……まだこの決裁が……」

ギルバートが立ち上がろうとした、その瞬間だった。

ガタンッ!

椅子が倒れる音がした。

ギルバートの体が大きく傾き、意識を失いかけるように崩れ落ちる。

「ギルバート!」

私は反射的に体を滑り込ませた。

通常の令嬢なら「きゃあ!」と叫んで共に倒れ込むところだろう。

だが、私はスコティア・ハミルトン。

毎日、分厚い六法全書と広辞苑をダンベル代わりに筋トレしている女だ。

ガシッ!!

私は倒れてくるギルバートの体を、完璧なバランスで受け止めた。

そして、そのまま流れるような動作で――。

「よいしょ、っと」

彼を横抱きに抱え上げた。

いわゆる『お姫様抱っこ』である。

ただし、抱えているのは公爵令嬢(私)、抱えられているのは一八〇センチを超える大男(宰相)だ。

「……ん、あ……?」

揺れを感じて、ギルバートが薄く目を開ける。

彼の視界には、私の鎖骨と顎のラインが映っているはずだ。

「す、スコット……? これは……いったい……?」

「緊急搬送だ。君の足取りは覚束ない。私が運んだ方が、移動時間を六〇パーセント短縮できる」

「い、いや、待て……! 降ろせ! 逆だ! 普通は逆だ!」

ギルバートが真っ赤な顔で抗議する。

高熱のせいか、羞恥心のせいかは不明だが、茹でダコのように赤い。

「逆も正位置もない。運べる者が運ぶ。それが効率だ」

「だとしても! 男として、妻に抱えられるなど……!」

「暴れるな。重心がズレて腰に負担がかかる。大人しくしていろ」

私は彼の抵抗を無視し、スタスタと執務室を出た。

廊下には、まだ残業していた部下たちが数名いた。

彼らは私たちを見て、彫像のように固まった。

「えっ……」

「あ、あれ……?」

「閣下が……スコット様に……お姫様抱っこされてる……?」

「幻覚か? 俺たち、疲れすぎてるのか?」

部下たちが目をこする。

私は彼らに向かって、凛とした声で告げた。

「総員に通達! 宰相閣下は機能不全(ダウン)により緊急メンテナンスに入る! 以降の指揮権は私が一時的に引き継ぐ! ルーク、馬車を回せ! 最短ルートで屋敷へ戻るぞ!」

「は、はいぃぃっ! スコット閣下、カッケェェェ!!」

部下たちの称賛(?)を背に、私は堂々と廊下を闊歩した。

腕の中のギルバートは、両手で顔を覆っていた。

「……死にたい。末代までの恥だ……」

「生きて償え。仕事でな」



宰相邸の寝室。

私はギルバートをベッドに放り投げ……ではなく、丁寧に寝かせた。

すぐにメイドに指示を出し、氷枕と着替え、消化の良いスープを用意させる。

「さあ、着替えろ。汗をかいているだろう」

「……自分でやる」

「手が震えているぞ。ボタンの掛け違いが発生する確率は九八パーセントだ。私がやる」

「スコット……! 頼むから、私の尊厳を守ってくれ……!」

「尊厳で熱は下がらない」

私はテキパキと彼の上着を脱がせ、シャツのボタンを外し、寝間着に着替えさせた。

その間、ギルバートは借りてきた猫のように大人しくなり、視線を宙に彷徨わせていた。

氷枕をセットし、額に冷却シートを貼る。

「よし。これで応急処置は完了だ。あとは自己治癒能力に任せる」

私はベッドの脇に椅子を引き寄せ、腰を下ろした。

「私はここで監視業務を行う。君が寝付くまでな」

「……すまない」

ギルバートが弱々しい声を出した。

普段の「氷の宰相」の威圧感は消え失せ、そこにはただの体調を崩した青年がいた。

「君に……また迷惑をかけた」

「迷惑? これは『投資』だ。君に早く復帰してもらわないと、私の業務量が増える」

「……口が悪いな」

ギルバートはふっと笑い、そして私の手を探るようにシーツの上で指を動かした。

私はため息をつき、その手を握ってやった。

熱い掌だ。

「スコット」

「なんだ」

「……君は、強いな」

「知っている」

「私は……君の隣に立つ男として、相応しいだろうか」

不意に、弱気な言葉が漏れた。

高熱が見せる不安なのだろうか。

「君は完璧だ。私より計算が速い。私より胆力がある。……私なんかが、君を縛り付けていていいのかと、時々思う」

ギルバートの瞳が揺れている。

あの自信家の宰相が、こんなことを言うなんて。

私は空いている方の手で、彼の冷却シートの上からデコピンをした。

パチン。

「いっ……」

「馬鹿なことを言うな。熱で脳の回路がショートしたか?」

私は彼の目を真っ直ぐに見つめた。

「いいか、よく聞け。私は公爵令嬢だ。これまで数多の男たちが私に言い寄ってきたが、全員『可愛げがない』『男勝りだ』と逃げ出した。あの馬鹿王子も含めてな」

「……」

「だが、君だけだ。私を『補佐官』として認め、私の能力を『心臓』だと必要とし、あまつさえ徹夜明けの私に万年筆を贈ってきた変人は」

私は強く手を握り返した。

「私が隣に立ちたいと思うのは、この世で君だけだ。ギルバート・フォン・アイゼンシュタイン」

「……スコット」

「だから、さっさと治せ。君がいないと、張り合いがなくてつまらん」

ギルバートはしばらく呆然としていたが、やがて顔をクシャリと歪めた。

泣きそうなのを堪えているような、あるいは嬉しさを噛み締めているような表情。

彼は私の手を引き寄せ、その甲に額を押し付けた。

「……勝てないな、君には」

「勝負などしていない」

「ああ、そうだな。……ありがとう」

その声は、甘く、震えていた。

「……寝るまで、手を握っていてくれるか?」

「追加料金が発生するが?」

「いくらでも払う」

「契約成立だ」

私は彼のわがままを聞き入れ、手を握り続けた。

数分もしないうちに、ギルバートの寝息が聞こえ始めた。

安心しきった寝顔。

眼鏡を外したその顔は、年相応に幼く見えて、少しだけ可愛いと思ってしまった。

(……これは、私の負けかもしれんな)

彼の世話を焼くことが、苦痛どころか、妙な充足感を与えていることに気づいてしまったからだ。

「おやすみ、私の夫」

私は誰にも聞こえない声で呟いた。



翌朝。

ギルバートの熱は嘘のように下がっていた。

「おはよう、スコット。昨夜は……その、すまなかった」

朝食の席で、ギルバートは気まずそうに目を逸らした。

「気にするな。看病代は請求書に入れておいた」

「……手厳しいな。で、金額は?」

「『キス一回』としてある」

「ぶっ!!」

ギルバートがコーヒーを噴き出した。

私は澄ました顔でパンにバターを塗る。

「なんだ、不服か? 市場価格よりかなり安く見積もったつもりだが」

「い、いや……不服ではないが……君からそんな要求が来るとは……」

「合理的だろう? 金銭のやり取りは税金がかかるが、現物支給なら非課税だ」

「……そういう問題か?」

ギルバートは口元を拭い、居住まいを正した。

そして、真剣な顔で私を見る。

「では、支払いを実行する」

「今か? ここはダイニングだが」

「延滞利息を取られる前に払うのが、賢い債務者だ」

ギルバートが身を乗り出す。

私も逃げずに顔を上げた。

チュッ。

触れるだけの、小鳥のようなキス。

だが、私の顔が一気に沸騰するのを感じた。

(……計算外だ。あんな弱っていたくせに、攻める時は速い)

「……完済だ」

ギルバートがニヤリと笑う。

その顔は、昨夜の弱々しい彼ではなく、いつもの不敵な「氷の宰相」に戻っていた。

いや、少しだけ温度が上がっている気がする。

「……領収書は発行しないぞ」

「いらんよ」

私たちは視線を絡ませ、朝の光の中で微笑み合った。

雨降って地固まる、とはよく言ったものだ。

私の「お姫様抱っこ」と「看病」を経て、私たちの社畜パートナーシップは、新たなステージ(たぶん恋愛)へと進化したようだった。

だが、そんな平和な朝をぶち壊す報告が、再びルークからもたらされることになる。

「た、大変です閣下!! スコット様!! ジェラルド殿下が……殿下が変な手紙を送ってきました!!」

「……またか」

私たちは同時にため息をつき、甘い空気を切り裂いて「仕事モード」へと戻った。
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