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祝賀会の喧騒が、遠い波音のように聞こえるバルコニー。
冷たい夜風が、火照った私の頬を心地よく撫でていく。
私は手すりに寄りかかり、夜空に浮かぶ月を見上げた。
「……ギルバート。本日の祝賀会における経済波及効果の概算が出たぞ」
「……この期に及んで、まだ数字の話か? 君という女性は」
隣に立つギルバートが、あきれたように、けれど愛おしそうに溜息をつく。
「当然だ。この宴のために投じられた公金は一、二〇〇万ゴールド。それに見合うだけの外交的成果と、貴族たちの支持率向上を確認しなければ、今夜は安眠できない」
「外交的成果なら、十分すぎるほどだ。君が微笑むたびに、隣国の使節たちが友好条約の更新を前向きに検討し始めていたからな」
「私の微笑みにそれほどの資産価値があったとは。……次はもっと単価を上げる必要があるな」
私は真面目に手帳へメモを書き込もうとした。
だが、ギルバートの手が、そっと私のペンを止めた。
「スコット。……今は、仕事の話は抜きだ。一人の男としての、わがままを聞いてほしい」
「わがまま? 残業の申請か? それとも休日出勤の打診か?」
「……もっと、非生産的で、非論理的なことだ」
ギルバートが私の体を自分の方へ向けた。
銀縁眼鏡を外し、私を見つめるその瞳は、いつになく熱く、そしてどこか不安げに揺れている。
「前回のプロポーズ(仮)で、君は『生涯独占業務提携』と言ってくれた。……だが、私はそれでは足りないことに気づいてしまったんだ」
「足りない? 契約条項に不備があったか? それなら即座に修正案を――」
「違う。言葉が足りないんだ。……私の言葉が」
ギルバートが私の両手を包み込むように握った。
その手のひらは、少しだけ汗ばんでいて、彼の緊張がダイレクトに伝わってくる。
「私は、君の事務処理能力だけを愛しているわけじゃない。君の冷徹な判断力だけを欲しているわけでもない」
「……」
「君が美味しいものを食べた時に、ほんの一瞬だけ緩む口元。難しい問題に直面した時に、眉間に寄せる小さな皺。……そして、私が無理をした時に、お姫様抱っこをしてまで守ろうとしてくれる、その不器用な優しさ」
ギルバートが、一歩踏み込む。
私たちの距離が、ゼロになる。
「私は、君のすべてを愛している。スコティア・ハミルトンという一人の女性を、心から愛しているんだ」
ドクン、と心臓が跳ねた。
脳内の計算機が、今まで聞いたことのないエラー音を上げている。
「……非効率だ。そんな言葉を並べても、生産性は向上しない」
「向上しなくていい。停滞してもいい。……君と一緒にいられるなら、私は無能な男になっても構わないとさえ思っている」
「それは困る。宰相が無能になれば、私の業務負担が激増する」
「……ふっ。そうだったな。君を困らせるわけにはいかない」
ギルバートは苦笑し、懐から小さな革張りの箱を取り出した。
「改めて、言わせてくれ」
彼はバルコニーに膝をついた。
王国の最高権力者である宰相が、一人の令嬢の前で、最も謙虚な姿勢をとる。
パカッ、と箱が開けられた。
そこにあったのは、精巧な装飾が施された、燃えるような紅色のルビーの指輪だった。
「これは、私の母から受け継いだものだ。いつか、命をかけて守りたい女性に出会った時に渡せと言われていた」
「……ルビーか。資産価値としては申し分ないが、私の誕生石ではないぞ」
「情熱の赤だ。私の君への想い、そして……君の燃えるような瞳の色だ」
ギルバートが、私の左手を恭しく持ち上げた。
「スコット。……いや、スコティア。私と結婚してほしい。仕事のパートナーとしてではなく、私の魂の伴侶として。……一生、私の隣で笑っていてくれないか」
夜風が止まった。
周囲の音が消え、世界には私たち二人しかいないような錯覚に陥る。
私は自分の胸の奥が、熱い何かで満たされていくのを感じた。
それは、どんな数式でも、どんな経済理論でも説明できない、未知のエネルギーだった。
(……ああ、なるほど。これが『愛』という名の、最強の非合理か)
私は、ようやく理解した。
この男が隣にいるだけで、私の世界は最適化される。
彼が笑うだけで、私の不備だらけの心が補完される。
「……ギルバート。君は、大きな損失を抱えることになるぞ」
「損失?」
「ああ。私は可愛げがない。料理もできない。愛の囁きよりも、予算案の修正の方が得意だ。……私と結婚すれば、君の人生は常に私の『指導』の下に置かれることになる」
私は、彼の指にある指輪を、自らの薬指へと滑り込ませた。
サイズは、驚くほどぴったりだった。
「それでもいいのか?」
「……ああ。それが私の望む、最高の未来だ」
ギルバートが立ち上がり、私を強く抱きしめた。
「受諾、ということでいいんだな?」
「……契約成立だ。キャンセルは一切受け付けない」
私は彼の背中に手を回し、その広い胸に顔を埋めた。
「……ありがとう、ギルバート」
「……こちらこそ。愛しているよ、スコット」
私たちは、月の光に祝福されながら、二度目の、そして今度は契約書のない口づけを交わした。
私の左手で光るルビーは、これからの私たちの未来を予見するように、どこまでも熱く、強く、輝き続けていた。
「……さて。誓いの儀式は終わったな」
一分後、私は彼の腕の中で冷静に告げた。
「……早すぎるぞ、切り替えが」
「当然だ。次は結婚式のコスト削減案の策定に入る。ギルバート、今夜は寝かせないぞ」
「……ああ、望むところだ。ただし、仕事以外の『夜の業務』も、覚悟してもらうがな」
「……! ……善処しよう」
最強の宰相夫妻。
その真の誕生は、もうすぐそこまで迫っていた。
冷たい夜風が、火照った私の頬を心地よく撫でていく。
私は手すりに寄りかかり、夜空に浮かぶ月を見上げた。
「……ギルバート。本日の祝賀会における経済波及効果の概算が出たぞ」
「……この期に及んで、まだ数字の話か? 君という女性は」
隣に立つギルバートが、あきれたように、けれど愛おしそうに溜息をつく。
「当然だ。この宴のために投じられた公金は一、二〇〇万ゴールド。それに見合うだけの外交的成果と、貴族たちの支持率向上を確認しなければ、今夜は安眠できない」
「外交的成果なら、十分すぎるほどだ。君が微笑むたびに、隣国の使節たちが友好条約の更新を前向きに検討し始めていたからな」
「私の微笑みにそれほどの資産価値があったとは。……次はもっと単価を上げる必要があるな」
私は真面目に手帳へメモを書き込もうとした。
だが、ギルバートの手が、そっと私のペンを止めた。
「スコット。……今は、仕事の話は抜きだ。一人の男としての、わがままを聞いてほしい」
「わがまま? 残業の申請か? それとも休日出勤の打診か?」
「……もっと、非生産的で、非論理的なことだ」
ギルバートが私の体を自分の方へ向けた。
銀縁眼鏡を外し、私を見つめるその瞳は、いつになく熱く、そしてどこか不安げに揺れている。
「前回のプロポーズ(仮)で、君は『生涯独占業務提携』と言ってくれた。……だが、私はそれでは足りないことに気づいてしまったんだ」
「足りない? 契約条項に不備があったか? それなら即座に修正案を――」
「違う。言葉が足りないんだ。……私の言葉が」
ギルバートが私の両手を包み込むように握った。
その手のひらは、少しだけ汗ばんでいて、彼の緊張がダイレクトに伝わってくる。
「私は、君の事務処理能力だけを愛しているわけじゃない。君の冷徹な判断力だけを欲しているわけでもない」
「……」
「君が美味しいものを食べた時に、ほんの一瞬だけ緩む口元。難しい問題に直面した時に、眉間に寄せる小さな皺。……そして、私が無理をした時に、お姫様抱っこをしてまで守ろうとしてくれる、その不器用な優しさ」
ギルバートが、一歩踏み込む。
私たちの距離が、ゼロになる。
「私は、君のすべてを愛している。スコティア・ハミルトンという一人の女性を、心から愛しているんだ」
ドクン、と心臓が跳ねた。
脳内の計算機が、今まで聞いたことのないエラー音を上げている。
「……非効率だ。そんな言葉を並べても、生産性は向上しない」
「向上しなくていい。停滞してもいい。……君と一緒にいられるなら、私は無能な男になっても構わないとさえ思っている」
「それは困る。宰相が無能になれば、私の業務負担が激増する」
「……ふっ。そうだったな。君を困らせるわけにはいかない」
ギルバートは苦笑し、懐から小さな革張りの箱を取り出した。
「改めて、言わせてくれ」
彼はバルコニーに膝をついた。
王国の最高権力者である宰相が、一人の令嬢の前で、最も謙虚な姿勢をとる。
パカッ、と箱が開けられた。
そこにあったのは、精巧な装飾が施された、燃えるような紅色のルビーの指輪だった。
「これは、私の母から受け継いだものだ。いつか、命をかけて守りたい女性に出会った時に渡せと言われていた」
「……ルビーか。資産価値としては申し分ないが、私の誕生石ではないぞ」
「情熱の赤だ。私の君への想い、そして……君の燃えるような瞳の色だ」
ギルバートが、私の左手を恭しく持ち上げた。
「スコット。……いや、スコティア。私と結婚してほしい。仕事のパートナーとしてではなく、私の魂の伴侶として。……一生、私の隣で笑っていてくれないか」
夜風が止まった。
周囲の音が消え、世界には私たち二人しかいないような錯覚に陥る。
私は自分の胸の奥が、熱い何かで満たされていくのを感じた。
それは、どんな数式でも、どんな経済理論でも説明できない、未知のエネルギーだった。
(……ああ、なるほど。これが『愛』という名の、最強の非合理か)
私は、ようやく理解した。
この男が隣にいるだけで、私の世界は最適化される。
彼が笑うだけで、私の不備だらけの心が補完される。
「……ギルバート。君は、大きな損失を抱えることになるぞ」
「損失?」
「ああ。私は可愛げがない。料理もできない。愛の囁きよりも、予算案の修正の方が得意だ。……私と結婚すれば、君の人生は常に私の『指導』の下に置かれることになる」
私は、彼の指にある指輪を、自らの薬指へと滑り込ませた。
サイズは、驚くほどぴったりだった。
「それでもいいのか?」
「……ああ。それが私の望む、最高の未来だ」
ギルバートが立ち上がり、私を強く抱きしめた。
「受諾、ということでいいんだな?」
「……契約成立だ。キャンセルは一切受け付けない」
私は彼の背中に手を回し、その広い胸に顔を埋めた。
「……ありがとう、ギルバート」
「……こちらこそ。愛しているよ、スコット」
私たちは、月の光に祝福されながら、二度目の、そして今度は契約書のない口づけを交わした。
私の左手で光るルビーは、これからの私たちの未来を予見するように、どこまでも熱く、強く、輝き続けていた。
「……さて。誓いの儀式は終わったな」
一分後、私は彼の腕の中で冷静に告げた。
「……早すぎるぞ、切り替えが」
「当然だ。次は結婚式のコスト削減案の策定に入る。ギルバート、今夜は寝かせないぞ」
「……ああ、望むところだ。ただし、仕事以外の『夜の業務』も、覚悟してもらうがな」
「……! ……善処しよう」
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