婚約破棄で純愛アップデート、偽装婚約から真実の婚約へ

恋の箱庭

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翌日、わたくしの別荘の応接室には、何やら高級そうな香油の匂いと、あからさまに「下好々爺」を装った太った男の笑い声が満ちていました。

「いやあ、ヴィンセント殿下。我が商会としても、この関税率での合意は断腸の思いでございましてな。何せ、海路の魔物避けの魔石代が高騰しておりまして……」

揉み手をして卑屈な笑みを浮かべているのは、王都でも指折りの豪商、ギルド連合の幹部でもあるバロン氏です。
わたくしは、ヴィンセント殿下の「隣の席」に座らされていました。あくまで「ただの書記」という体裁で。

わたくしの前には、先ほど手渡されたばかりの分厚い契約書。
そして、わたくしの手元には、昨夜一晩で書き上げた「バロン商会の過去五年の収支予測グラフ(非公式)」がございます。

「……ふむ。魔石代の高騰、ですか」

わたくしは紅茶を一口すすり、静かに口を開きました。

「バロン様、その『魔石代』というのは、先月隣国の鉱山で落盤事故があった件を指していらっしゃいますの?」

バロン氏が、一瞬だけ動きを止めました。

「おや、書記のお嬢さん、よくご存知で。左様でございます。供給が滞り、価格は平時の三倍に……」

「あら。でも、バロン商会は半年前の安値の時期に、二年間分の魔石を先物予約で買い叩いていらっしゃいましたわよね? 契約番号は……ええと、たしか『B—409』。輸送記録によれば、先週すべて貴殿の倉庫に納品済みのはずですが」

応接室に、ひゅっと空気が凍りつく音が聞こえた気がしました。
バロン氏の額から、脂汗が一筋流れます。

「な、……な、なぜそれを……!? いや、それは別の用途の……」

「別の用途? まさか、横流しでもなさるおつもり? だとしたら、ギルド規約第十二条『戦略物資の不正蓄財および転売の禁止』に抵触いたしますわね。……殿下、これは査察を入れるべき案件ではなくて?」

わたくしが首を傾げてヴィンセント殿下を見ると、彼は愉快でたまらないといった様子で、顎を撫でました。

「ほう。それは聞き捨てならないな。バロン、君は俺に嘘をついて、不当な利益を得ようとした上に、規約違反まで犯しているというのか?」

「め、滅相もございません! 書記殿の勘違いでございます! ああ、そうでした、魔石の件は私の記憶違いで……!」

「記憶違い、ですか。随分と都合の良い脳細胞をお持ちですのね。羨ましい限りですわ。わたくし、一度見た数字は忘却したくてもできない体質なものですから」

わたくしは冷ややかな微笑を浮かべ、次のページをめくりました。
この手の人間は、一度付け入る隙を見せると、どこまでも食い荒らしてきます。
セドリック殿下の周りにいた「おべっか使い」たちを論破し続けてきたわたくしにとって、この程度の嘘を見破るのは、朝食のパンを焼くよりも簡単です。

「続きまして、この『輸送警備費』。馬車一台につき騎士三名と同等の戦力を配備とありますが……。経路を確認したところ、現在は王軍が定期巡回している治安維持区域を通るルートですよね? なぜ民間ギルドにこれほど高額な警備費を払う必要があるのかしら」

「そ、それは……用心に越したことはないと……」

「用心ではなく、これは『裏金』の洗浄ではありませんの? 支払い先の『黒犬傭兵団』は、たしか貴殿の従兄弟が経営している組織だったはず。親族間で資金を循環させて経費を水増しする。……古典的すぎて、あくびが出ますわ」

わたくしが淡々と指摘を続けるたびに、バロン氏の顔色は、赤、青、そして土気色へと変化していきました。
まさにカメレオン並みの色の変わりようですわ。

最終的に、バロン氏は椅子から転げ落ちるようにして床に跪きました。

「……ま、待ってください! 分かりました! 関税率は当初の提案の二割減、いえ、三割減で手を打ちましょう! ですから、どうか、その資料をこれ以上……!」

「あら、交渉とは本来『誠実』に行うべきものですわよ。……殿下、いかがなさいます?」

ヴィンセント殿下は、満足げに立ち上がりました。

「バロン。君との契約は、三割減、かつ今回の不誠実な行為に対するペナルティとして、今後三年間、我が国の公共事業への参入を禁止する。……不服があるなら、今すぐ彼女がギルド本部にその資料を届けることになるが?」

「……承知、いたしました……」

幽霊のような足取りで去っていくバロン氏を見送りながら、わたくしは深くため息をつきました。

「……殿下。わたくし、今日は『検討』のために同席しただけのはずなのですが」

「いやあ、期待以上の働きだったよ、リーマ。君が口を開いた瞬間、彼の心臓が止まるんじゃないかとヒヤヒヤしたけどね」

ヴィンセント殿下は、わたくしの手元の資料を覗き込み、感心したように声を上げました。

「これ、本当に昨夜だけで調べたのかい?」

「別荘の地下に、セドリック殿下が放置していた古い交易記録と、わたくしの実家から取り寄せた商報を照らし合わせただけですわ。数字というものは、嘘をつきませんから」

「君のその『数字への愛』、そして『悪意への容赦のなさ』。……確信したよ。君は隠居するには、あまりにも惜しい逸材だ」

ヴィンセント殿下は、わたくしの手を取り、その指先に軽く唇を寄せました。
王族としての洗練された仕草ですが、その瞳の奥には、獲物を追い詰める猟師のような光が宿っています。

「契約成立だ、リーマ・フォルテシモ。君の『週休三日、残業なし』の生活は、俺が保証しよう。その代わり、俺の敵をすべて、その鋭い舌でズタズタにしてくれ」

「……殿下、一つ訂正を」

わたくしは、そっと手を引き抜きました。

「わたくしは、ズタズタにしたいわけではありません。ただ、『整えたい』だけなのです。世の中の不合理を、ゴミを片付けるように、綺麗に、論理的に」

「ははは! ゴミ掃除、か。それはいい。俺の周りにはゴミが山ほどあるからね」

こうして、わたくしの「穏やかな隠居生活」は、どこへやら。
隣国の王子という、最大級に厄介な雇用主を得て、わたくしの第ニの人生——「王宮の掃除屋」としてのキャリアが、本格的にスタートしてしまったのでした。
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