婚約破棄で純愛アップデート、偽装婚約から真実の婚約へ

恋の箱庭

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王都から馬車で半日。
そこには、鏡のように澄んだ湖を望む、白壁の麗しい別荘が建っていました。
元・王太子の婚約者という肩書きを捨て、わたくしリーマ・フォルテシモが手に入れた「自由」の象徴です。

「……素晴らしいわ。静か、無音、そして何より『殿下の尻拭い』というタスクが一つも存在しない空間!」

わたくしはバルコニーに立ち、深く深呼吸をしました。
空気は美味しく、鳥の声は心地よく。
今日からわたくしは、日がな一日読書を楽しみ、飽きたら湖を眺めて過ごす「究極のニート」になるのです。

そう意気込んで別荘に足を踏み入れたわたくしを待っていたのは、数年間放置されたことによる分厚い埃の山でした。

「……。セドリック殿下、あの方は本当に……。お気に入りの別荘と言いながら、管理の一つもさせていなかったのですか。無能にも程がありますわ」

わたくしはすぐさまドレスの袖をまくり上げました。
優雅な生活の前に、まずはこの「非効率的な汚れ」を排除しなくてはなりません。
わたくしは実家から連れてきた少数の精鋭の使用人たちに、テキパキと指示を飛ばしました。

「ハンス、あなたは一階の窓をすべて全開にして換気を。メアリ、あなたはキッチンの水回りの点検を。わたくしは執務室……ではなく、図書室の整理をいたします」

「お嬢様、本日はお休みになられるのでは?」

侍女のメアリが苦笑しながら尋ねてきました。

「これがわたくしの休息ですわ。汚れが落ち、物が整然と並ぶ。そのプロセスこそが精神の安定をもたらすのです。さあ、一時間以内に終わらせますわよ!」

わたくしは雑巾とバケツを手に、戦場へと赴きました。
やはり、無能な王太子の顔色を伺うよりも、頑固な油汚れと戦う方が数倍建設的ですわ。

作業開始からちょうど二時間。
別荘が見違えるほどに輝きを取り戻した頃、玄関のベルがけたたましく鳴り響きました。

「あら、ご近所の挨拶かしら? それとも業者?」

わたくしはエプロンをつけたまま玄関へ向かい、扉を開けました。
そこに立っていたのは、美しい銀髪を夕日に輝かせ、非の打ち所がない笑顔を浮かべた男でした。

「やあ、リーマ嬢。引っ越し早々、大掃除とは精が出るね」

「……。お帰りください。今すぐ。光の速さで」

「ひどいな。隣国の王子がわざわざ手土産を持って訪ねてきたというのに」

ヴィンセント殿下は、手に持っていた最高級と思われるワインボトルをひらひらと振ってみせました。
わたくしは無言で扉を閉めようとしましたが、彼の靴が隙間に挟まりました。

「待ってくれ。君に面白い話を持ってきたんだ。門前払いするには惜しい話だよ」

「殿下、わたくしは現在『隠居中』です。面白い話よりも、今は静かな昼寝の方が価値がありますの。それに、その靴、高級なカーフスキンでしょう? 挟んで台無しになっても責任は持てませんわ」

「君の論理的な拒絶、相変わらずゾクゾクするね。だが、この別荘の権利書、君の名義に書き換える作業を裏で手伝ったのは俺だと言ったら?」

わたくしは扉を押す手を止め、再び開きました。

「……貸しを盾にするタイプでしたのね。意外と俗っぽくて安心いたしましたわ。どうぞ、お入りください。埃はもうありませんから」

「それは重畳。お邪魔するよ」

ヴィンセント殿下は、まるで自分の家であるかのように堂々とリビングのソファに腰を下ろしました。
わたくしはエプロンを外し、メアリにお茶の用意を頼みました。

「それで? わざわざここまでいらした理由は? まさか、わたくしと一緒に湖を眺めにきたわけではありませんわよね」

「もちろん。君をスカウトしに来た。……正確には、俺の『秘書』兼『毒舌アドバイザー』になってほしい」

わたくしは吹き出しそうになるのをこらえ、紅茶を一口飲みました。

「お断りすると申し上げたはずです。わたくしはもう、誰かの秘書のような仕事はこりごりなのです。特に王族の相手は」

「セドリックと一緒にしないでくれ。俺が求めているのは、君の『管理能力』だ。現在、俺がこの国で進めている貿易交渉、相手がなかなかの曲者でね。数字に強くて、相手の矛盾をミリ単位で突ける人間が必要なんだ」

「それは……専門の官僚を雇えばよろしいのでは?」

「官僚は建前を気にする。だが君は、王太子の婚約破棄の場でエビのカナッペを食べながら、相手を法的に追い詰める度胸がある。俺が欲しいのは、その『壊れた倫理観』と『圧倒的な実務能力』のハイブリッドなんだ」

「褒め言葉として受け取っておきますけれど、今のわたくしには動機がありませんわ」

「報酬は、隣国の王室図書館へのフリーアクセス。それから、君がこの別荘を維持するための経費をすべて俺が持つ。さらに、週休三日、残業なし。どうだい?」

わたくしの手が、わずかに震えました。
隣国の王室図書館。そこには、この国にはない希少な古文書や税制の歴史資料が眠っていると聞きます。
そして、週休三日……。

「……ヴィンセント殿下。あなたは悪魔ですの?」

「いいや、合理主義者なだけさ。君が俺の隣にいれば、俺の仕事は半分になる。君は知的好奇心を満たし、俺は自由な時間を手に入れる。Win-Winだろう?」

ヴィンセント殿下は勝ち誇ったような笑みを浮かべました。
わたくしの理性が「逃げろ」と警鐘を鳴らしていますが、好奇心がそれを論破しようとしています。

「……まずは、その『曲者』の資料を見せていただけます? 検討するかどうかは、それ次第ですわ」

「話が早くて助かるよ」

ヴィンセント殿下がカバンから取り出したのは、膨大な数字が並んだ契約書の束でした。
わたくしはそれを受け取った瞬間、隠居生活の決意がガラガラと崩れ去る音を聞きました。

ああ、わたくしの体質が憎いですわ。
目の前に「整理すべき混沌」があると、放っておけないのです。

「……殿下、ここの利息計算、三箇所ほど間違っていますわ。これ、わざとやられていますわね?」

「おっと、五秒で見抜いたか」

ヴィンセント殿下の瞳が、妖しく光りました。
わたくしの「自由な隠居生活」は、開始からわずか数時間で、早くも暗雲が立ち込めてきたのでした。
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