婚約破棄で純愛アップデート、偽装婚約から真実の婚約へ

恋の箱庭

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深夜二時。
別荘の執務室には、一本の蝋燭の灯火と、わたくしが羽ペンを走らせる音だけが響いておりました。
静寂。これこそが、脳の演算速度を最大化させるための最適環境です。

わたくしは現在、隣国の物流網を再編するための「コスト・ベネフィット分析」の最終調整に入っておりました。
この数字が完成すれば、ヴィンセント殿下の発言力はさらに高まり、この国はより強固な経済基盤を手に入れる。
そう思うと、睡魔などという非効率な現象は、わたくしの精神力の外側へと追いやられていきました。

その時、音もなく扉が開き、ふわりと甘い香りが部屋に満ちました。

「……まだ起きていたのかい、俺の仕事中毒の婚約者殿」

ヴィンセント殿下が、銀色の髪を少し崩したラフな格好で立っておりました。
その手には、湯気を立てる二つのカップ。

「殿下。……深夜の無断入室は、プライバシーの侵害、および集中力の強制遮断に当たりますわ。……それから、その格好。……目の保養にはなりますが、わたくしの視覚野を刺激して作業効率を下げないでいただけます?」

「ははは。……君のその、論理的で容赦ない拒絶を聞くと、なんだか安心するよ。……ほら、ココアだ。……脳を酷使した後は、糖分の補給が必要だろう?」

殿下はわたくしの机の、書類が一枚も載っていない「空きスペース」にカップを置きました。
流石ですわね。わたくしの整理整頓された陣地を乱さない、その配慮。
わたくしは渋々、羽ペンを置きました。

「……感謝いたします。……ですが殿下、ココアに含まれる糖分とテオブロミンの効果を考慮しても、この時間に休息を取ることによる納期の遅延リスクの方が……」

「……リーマ。……少し、黙って飲みなさい。……これは雇用主命令ではなく、一人の男としての、わがままだ」

ヴィンセント殿下は、わたくしの向かいの椅子に腰を下ろし、静かにわたくしを見つめました。
ココアの甘い香りに混じって、彼の体温が伝わってくるような気がして、わたくしは慌ててカップを口に運びました。

「……。……甘いですわね。……過剰なまでの糖分ですわ」

「そうかい? ……俺には、今のこの静かな時間が、どんな贅沢な晩餐会よりも甘く感じるよ」

殿下は窓の外、月明かりに照らされた湖を眺めながら、ぽつりと呟きました。
その横顔には、昼間の不敵な笑みとは違う、どこか孤独で、そして深い優しさが滲んでいました。

「リーマ。……君は時々、自分を『ただの歯車』や『有能な道具』のように語るけれど。……君が前の国でどれほど軽んじられていたか、想像すると胸が痛むんだ。……君という存在の価値は、生み出す利益だけじゃない。……君がいるだけで、俺の世界の解像度が上がる。……それが真実だ」

「……。……殿下。……そのような主観的で、証明不可能な……」

「証明してあげるよ。……一生かけてね」

ヴィンセント殿下が、机越しにわたくしの手をそっと包み込みました。
熱い。
ココアよりもずっと熱い体温が、指先からわたくしの心臓へと逆流してきます。

「……偽装婚約の契約期間は、特に定めておりませんでしたわね」

「ああ。……だから、俺がこの契約を『終身雇用』……いや、『永久契約』に書き換えても文句はないだろう?」

「……。……条件によりますわ。……わたくしを一生、数字と論理の迷宮から逃がさない覚悟がおありですの?」

わたくしが震える声で問い返すと、ヴィンセント殿下は立ち上がり、わたくしの隣へと歩み寄りました。
そして、わたくしの額に、羽が触れるような優しいキスを落としたのです。

「もちろんだ。……君が迷宮に迷うなら、俺がその地図になろう。……君を愛するという、絶対的な座標を示す地図に」

「……。……バグです。……わたくしの脳内に、修復不能なバグが発生いたしましたわ」

わたくしは顔を真っ赤にしながら、空になったカップを両手で握りしめました。
不合理。非論理。予測不能。
わたくしが忌み嫌ってきたはずのそれらの言葉が、今は不思議と、心地よい旋律のように響いていました。

深夜二時の執務室。
そこにはもう、「効率」を追い求める冷徹な令嬢の姿はなく。
ただ、初めての「本気」の恋に戸惑う、一人の不器用な少女が座っているだけでした。

「……さて。……殿下。……この動揺を鎮めるため、ココアをもう一杯要求いたしますわ」

「ははは。……承知したよ、俺の可愛い婚約者様」

わたくしたちの「偽装」という名の防壁が、じわじわと、でも確実に、本物の熱によって溶け始めていたのでした。
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