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昨夜のココアの甘い余韻が、まだ脳の片隅に「未処理のタスク」として残っていた翌朝のことです。
わたくしが執務室で、隣国の港湾使用料のシミュレーションを行っていると、ヴィンセント殿下がこれ以上なく爽やかな笑顔で現れました。
「リーマ、今日は外に出よう。街の流通システムを直接この目で確認する『実地視察』が必要だ」
「実地視察、ですか。……確かに、提出された書類の数字と現場の乖離率を算出するのは、統計の精度を上げるために不可欠ですわね。……分かりました。十五分で準備いたしますわ」
わたくしは即座に立ち上がり、機能性を重視した外出用のドレスを選びました。
手元には、街の地図と記録用の手帳、そして計算用の小型そろばん。
準備万端で馬車に乗り込みましたが、ヴィンセント殿下はなぜか、視察用の資料ではなく、わたくしの手をじっと見つめておりました。
「……殿下。わたくしの手に、何か計算ミスを誘発するような汚れでもついておりますの?」
「いいや。……ただ、今日の君はいつも以上に気合が入っているなと思ってね。……あ、地図はそこに置いて。街を歩く時は、俺の腕に掴まっていないと危ないから」
「……。殿下、わたくしの平衡感覚を侮らないでいただけます? 石畳の凹凸による転倒リスクは、歩行速度を調整することでゼロに近づけられますわ」
「理屈じゃないんだよ、リーマ。……これは『婚約者としての標準プロトコル』だ」
結局、わたくしは彼の腕に無理やり腕を絡めさせられた状態で、活気に満ちた王都の市場へと降り立ちました。
視界に飛び込んでくるのは、色とりどりの果物、香辛料の香り、そして人々の喧騒。
わたくしの脳は、即座に露店の配置効率と客層の流動解析を開始しました。
「……見てください、殿下。あそこの乾物屋、商品の陳列角度がバラバラですわ。死角が多すぎて機会損失を招いています。……今すぐ黄金比に基づいた配置を提案して差し上げたい……!」
「待て待て、リーマ。今日は『視察』であって『抜き打ち監査』じゃないんだ。……ほら、あそこのアクセサリー屋を見てごらん。君に似合いそうな青い石があるよ」
ヴィンセント殿下は、わたくしの分析を遮るように、一軒の小洒落た店へとわたくしを誘いました。
店主が差し出したのは、澄んだ湖のような色をした、美しい髪飾りでした。
「おや、美男美女のお二人さん。……その髪飾り、お嬢さんの瞳の色にぴったりですよ。……今なら旦那さんへの特別価格にしておきますぜ!」
「……店主。その『特別価格』の算出根拠を教えていただけます? もし原価率を無視した不当な値引きであれば、市場経済を乱す行為として見過ごせませんわ」
わたくしが手帳を取り出そうとすると、ヴィンセント殿下は楽しそうに笑って、店主に金貨を差し出しました。
「彼女は少し『真面目』すぎるんだ。……お釣りはいらないよ。彼女の笑顔へのチップだと思ってくれ」
「毎度あり!」
ヴィンセント殿下は、受け取った髪飾りを、わたくしの髪にそっと差し込みました。
鏡を見るまでもなく、彼の指が触れた場所が熱を帯びていくのが分かります。
「……殿下。……不合理です。……この髪飾りは、わたくしの業務遂行能力を向上させるものではありません。……このような『非生産的な支出』は、わたくしの管理方針に反しますわ」
「いいや、リーマ。……これは投資だよ。……君の気分が良くなれば、俺の仕事もはかどる。……つまり、国家レベルの利益に繋がる『間接的投資』だ」
ヴィンセント殿下は、わたくしの肩を引き寄せ、耳元で囁きました。
「それに。……仕事抜きの俺が、ただ、君に綺麗なものを贈りたいと思った。……その気持ちを数字で説明しろなんて、野暮なことは言わないだろう?」
「……。……説明、不可能ですわ」
わたくしは顔を伏せました。
論理では片付けられない、胸の奥の疼き。
これを「恋」と定義してしまえば、わたくしのこれまでの人生の数式は、すべて書き換えなくてはならなくなります。
市場を歩く間、ヴィンセント殿下は一度もわたくしの手を離しませんでした。
行き交う人々が、わたくしたちを見て「幸せそうなカップルだ」と微笑みかけます。
……偽装。
そう、これは偽装視察。
でも、わたくしの髪で揺れる青い石は、どの偽造書類よりも重く、確かな温度を持っていました。
「……さて。……殿下。……視察の続きをいたしますわよ。……次は、あそこの肉屋の計量器が、法的に正しい基準を満たしているか確認を……」
「ははは! 分かったよ、俺の可愛い監査官殿。……でも、十回に一回は、俺の顔を見て笑うこともタスクに入れてくれないかな?」
「……。……検討、いたしますわ」
わたくしたちの「視察」という名のデートは、夕暮れ時まで続きました。
数字で埋め尽くされていたわたくしの世界が、ヴィンセント殿下という不確定要素によって、鮮やかに彩られていく。
……それが、これほどまでに恐ろしく、そして心地よいものだとは、どの教科書にも載っていませんでした。
わたくしが執務室で、隣国の港湾使用料のシミュレーションを行っていると、ヴィンセント殿下がこれ以上なく爽やかな笑顔で現れました。
「リーマ、今日は外に出よう。街の流通システムを直接この目で確認する『実地視察』が必要だ」
「実地視察、ですか。……確かに、提出された書類の数字と現場の乖離率を算出するのは、統計の精度を上げるために不可欠ですわね。……分かりました。十五分で準備いたしますわ」
わたくしは即座に立ち上がり、機能性を重視した外出用のドレスを選びました。
手元には、街の地図と記録用の手帳、そして計算用の小型そろばん。
準備万端で馬車に乗り込みましたが、ヴィンセント殿下はなぜか、視察用の資料ではなく、わたくしの手をじっと見つめておりました。
「……殿下。わたくしの手に、何か計算ミスを誘発するような汚れでもついておりますの?」
「いいや。……ただ、今日の君はいつも以上に気合が入っているなと思ってね。……あ、地図はそこに置いて。街を歩く時は、俺の腕に掴まっていないと危ないから」
「……。殿下、わたくしの平衡感覚を侮らないでいただけます? 石畳の凹凸による転倒リスクは、歩行速度を調整することでゼロに近づけられますわ」
「理屈じゃないんだよ、リーマ。……これは『婚約者としての標準プロトコル』だ」
結局、わたくしは彼の腕に無理やり腕を絡めさせられた状態で、活気に満ちた王都の市場へと降り立ちました。
視界に飛び込んでくるのは、色とりどりの果物、香辛料の香り、そして人々の喧騒。
わたくしの脳は、即座に露店の配置効率と客層の流動解析を開始しました。
「……見てください、殿下。あそこの乾物屋、商品の陳列角度がバラバラですわ。死角が多すぎて機会損失を招いています。……今すぐ黄金比に基づいた配置を提案して差し上げたい……!」
「待て待て、リーマ。今日は『視察』であって『抜き打ち監査』じゃないんだ。……ほら、あそこのアクセサリー屋を見てごらん。君に似合いそうな青い石があるよ」
ヴィンセント殿下は、わたくしの分析を遮るように、一軒の小洒落た店へとわたくしを誘いました。
店主が差し出したのは、澄んだ湖のような色をした、美しい髪飾りでした。
「おや、美男美女のお二人さん。……その髪飾り、お嬢さんの瞳の色にぴったりですよ。……今なら旦那さんへの特別価格にしておきますぜ!」
「……店主。その『特別価格』の算出根拠を教えていただけます? もし原価率を無視した不当な値引きであれば、市場経済を乱す行為として見過ごせませんわ」
わたくしが手帳を取り出そうとすると、ヴィンセント殿下は楽しそうに笑って、店主に金貨を差し出しました。
「彼女は少し『真面目』すぎるんだ。……お釣りはいらないよ。彼女の笑顔へのチップだと思ってくれ」
「毎度あり!」
ヴィンセント殿下は、受け取った髪飾りを、わたくしの髪にそっと差し込みました。
鏡を見るまでもなく、彼の指が触れた場所が熱を帯びていくのが分かります。
「……殿下。……不合理です。……この髪飾りは、わたくしの業務遂行能力を向上させるものではありません。……このような『非生産的な支出』は、わたくしの管理方針に反しますわ」
「いいや、リーマ。……これは投資だよ。……君の気分が良くなれば、俺の仕事もはかどる。……つまり、国家レベルの利益に繋がる『間接的投資』だ」
ヴィンセント殿下は、わたくしの肩を引き寄せ、耳元で囁きました。
「それに。……仕事抜きの俺が、ただ、君に綺麗なものを贈りたいと思った。……その気持ちを数字で説明しろなんて、野暮なことは言わないだろう?」
「……。……説明、不可能ですわ」
わたくしは顔を伏せました。
論理では片付けられない、胸の奥の疼き。
これを「恋」と定義してしまえば、わたくしのこれまでの人生の数式は、すべて書き換えなくてはならなくなります。
市場を歩く間、ヴィンセント殿下は一度もわたくしの手を離しませんでした。
行き交う人々が、わたくしたちを見て「幸せそうなカップルだ」と微笑みかけます。
……偽装。
そう、これは偽装視察。
でも、わたくしの髪で揺れる青い石は、どの偽造書類よりも重く、確かな温度を持っていました。
「……さて。……殿下。……視察の続きをいたしますわよ。……次は、あそこの肉屋の計量器が、法的に正しい基準を満たしているか確認を……」
「ははは! 分かったよ、俺の可愛い監査官殿。……でも、十回に一回は、俺の顔を見て笑うこともタスクに入れてくれないかな?」
「……。……検討、いたしますわ」
わたくしたちの「視察」という名のデートは、夕暮れ時まで続きました。
数字で埋め尽くされていたわたくしの世界が、ヴィンセント殿下という不確定要素によって、鮮やかに彩られていく。
……それが、これほどまでに恐ろしく、そして心地よいものだとは、どの教科書にも載っていませんでした。
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