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市場での「視察」という名の甘い拷問から帰宅し、わたくしは自室の机で頭を抱えておりました。
髪から外した青い石の髪飾りが、ランプの光を反射してキラキラと輝いています。
「……不合理ですわ。この胸の動悸、そして作業効率の低下。……ヴィンセント殿下という変数は、わたくしの演算システムを根本から破壊しつつあります」
わたくしが独り言を呟きながら、偽装婚約の契約書を修正しようとしたその時です。
ノックの音と共に、ヴィンセント殿下が一本のワインと二つのグラスを持って現れました。
「夜分に失礼。……リーマ、少し『契約内容の再検討』をしたいと思ってね」
「……殿下。ちょうどよろしかったですわ。わたくしも、第ニ条の接触制限に関する解釈の齟齬(そご)について、厳重な抗議を申し立てようとしていたところです」
わたくしは背筋を伸ばし、事務的な表情を作りました。
しかし、殿下はわたくしの隣に椅子を引き寄せると、至近距離で座り、ゆっくりとワインを注ぎました。
「抗議なら後で聞こう。……それより、俺はこの契約書に『重大な欠陥』を見つけてしまったんだ」
「欠陥? ……あり得ませんわ。わたくしが三度も見直して、論理的な矛盾をすべて排除したはずですけれど」
「いいや、最大級の矛盾がある。……第三条、『愛の囁きは雑音として処理する』という項目だ。……これは、現在の実態を反映していない『虚偽の記載』に当たるんじゃないかな?」
ヴィンセント殿下の低い声が、わたくしの鼓動をさらに加速させます。
彼はわたくしの手からペンを取り上げ、机に置きました。
「……実態、とは何のことかしら? わたくしたちの関係は、あくまで利害の一致に基づくビジネス的な……」
「ビジネス? ……ビジネスで、男が女に、こんな目を向けると思うかい?」
ヴィンセント殿下がわたくしの顎を指先でクイと持ち上げ、その熱い瞳でわたくしを射抜きました。
逃げ場のない、圧倒的なまでの「本気」がそこにはありました。
「リーマ。……俺は、君の有能さに惚れた。だが今は、君の不器用な優しさも、怒った時の眉間の皺も、……君という存在のすべてを、愛してしまっているんだ。……これはもう、『偽装』という枠には収まりきらない」
「……で、殿下。……それは、……契約の逸脱ですわ。……わたくしの予測モデルに、そのような熱烈な……」
「予測できないなら、今この場で『新しい事実』として上書きしてくれ。……リーマ、俺は君との『偽装』を、今日この時をもって終了したい」
わたくしの心臓が、一瞬停止したかのような錯覚に陥りました。
終了。……それは、わたくしがこの国を去ることを意味するのでしょうか?
不安が脳内を駆け巡った瞬間、殿下はわたくしの両手を強く握りしめました。
「代わりに、……『真実の婚約』を申し入れたい。……利害ではなく、愛によって結ばれる、恒久的なパートナーシップだ。……報酬は、俺の生涯のすべて。……どうだい、この条件で契約を更新してくれないかな?」
「……。……。……」
わたくしの誇る高度な言語処理能力が、完全にフリーズいたしました。
代わりに出てきたのは、計算式でも論理でもない、熱い涙でした。
「……ずるいですわ、殿下。……わたくし、数字にならないものは信じないと申し上げたのに。……あなたのその、……不合理すぎる熱意を、計算に入れる方法なんて、どこにも載っていませんもの」
「ははは。……載っていないなら、俺たちで新しい数式を作ればいい。……君が納得するまで、何度でも証明してあげるよ」
ヴィンセント殿下は優しく微笑み、わたくしの涙を親指で拭いました。
そして、誓いを立てるように、わたくしの唇にそっと、でも確かな重みを持って、自身の唇を重ねました。
それは、わたくしの人生で最も非論理的で、そして最も「正しい」と感じる瞬間でした。
「……さて。……更新手続き、完了ということでよろしいかしら?」
「ああ。……不備はないよ。……ただ、一点だけ追加させてくれ。……『愛の囁き』は、これから二十四時間、年中無休で受け取ってもらう。……いいね、婚約者殿?」
「……。……。……残業代、……いえ、……相応の『愛』を、きっちり請求させていただきますわよ」
わたくしは顔を真っ赤にしながら、彼の胸に顔を埋めました。
偽装が真実へと変わった夜。
わたくしの人生の貸借対照表からは「孤独」という負債が完全に消え去り、代わりに「幸福」という名の、測定不能な巨大資産が計上されたのでした。
髪から外した青い石の髪飾りが、ランプの光を反射してキラキラと輝いています。
「……不合理ですわ。この胸の動悸、そして作業効率の低下。……ヴィンセント殿下という変数は、わたくしの演算システムを根本から破壊しつつあります」
わたくしが独り言を呟きながら、偽装婚約の契約書を修正しようとしたその時です。
ノックの音と共に、ヴィンセント殿下が一本のワインと二つのグラスを持って現れました。
「夜分に失礼。……リーマ、少し『契約内容の再検討』をしたいと思ってね」
「……殿下。ちょうどよろしかったですわ。わたくしも、第ニ条の接触制限に関する解釈の齟齬(そご)について、厳重な抗議を申し立てようとしていたところです」
わたくしは背筋を伸ばし、事務的な表情を作りました。
しかし、殿下はわたくしの隣に椅子を引き寄せると、至近距離で座り、ゆっくりとワインを注ぎました。
「抗議なら後で聞こう。……それより、俺はこの契約書に『重大な欠陥』を見つけてしまったんだ」
「欠陥? ……あり得ませんわ。わたくしが三度も見直して、論理的な矛盾をすべて排除したはずですけれど」
「いいや、最大級の矛盾がある。……第三条、『愛の囁きは雑音として処理する』という項目だ。……これは、現在の実態を反映していない『虚偽の記載』に当たるんじゃないかな?」
ヴィンセント殿下の低い声が、わたくしの鼓動をさらに加速させます。
彼はわたくしの手からペンを取り上げ、机に置きました。
「……実態、とは何のことかしら? わたくしたちの関係は、あくまで利害の一致に基づくビジネス的な……」
「ビジネス? ……ビジネスで、男が女に、こんな目を向けると思うかい?」
ヴィンセント殿下がわたくしの顎を指先でクイと持ち上げ、その熱い瞳でわたくしを射抜きました。
逃げ場のない、圧倒的なまでの「本気」がそこにはありました。
「リーマ。……俺は、君の有能さに惚れた。だが今は、君の不器用な優しさも、怒った時の眉間の皺も、……君という存在のすべてを、愛してしまっているんだ。……これはもう、『偽装』という枠には収まりきらない」
「……で、殿下。……それは、……契約の逸脱ですわ。……わたくしの予測モデルに、そのような熱烈な……」
「予測できないなら、今この場で『新しい事実』として上書きしてくれ。……リーマ、俺は君との『偽装』を、今日この時をもって終了したい」
わたくしの心臓が、一瞬停止したかのような錯覚に陥りました。
終了。……それは、わたくしがこの国を去ることを意味するのでしょうか?
不安が脳内を駆け巡った瞬間、殿下はわたくしの両手を強く握りしめました。
「代わりに、……『真実の婚約』を申し入れたい。……利害ではなく、愛によって結ばれる、恒久的なパートナーシップだ。……報酬は、俺の生涯のすべて。……どうだい、この条件で契約を更新してくれないかな?」
「……。……。……」
わたくしの誇る高度な言語処理能力が、完全にフリーズいたしました。
代わりに出てきたのは、計算式でも論理でもない、熱い涙でした。
「……ずるいですわ、殿下。……わたくし、数字にならないものは信じないと申し上げたのに。……あなたのその、……不合理すぎる熱意を、計算に入れる方法なんて、どこにも載っていませんもの」
「ははは。……載っていないなら、俺たちで新しい数式を作ればいい。……君が納得するまで、何度でも証明してあげるよ」
ヴィンセント殿下は優しく微笑み、わたくしの涙を親指で拭いました。
そして、誓いを立てるように、わたくしの唇にそっと、でも確かな重みを持って、自身の唇を重ねました。
それは、わたくしの人生で最も非論理的で、そして最も「正しい」と感じる瞬間でした。
「……さて。……更新手続き、完了ということでよろしいかしら?」
「ああ。……不備はないよ。……ただ、一点だけ追加させてくれ。……『愛の囁き』は、これから二十四時間、年中無休で受け取ってもらう。……いいね、婚約者殿?」
「……。……。……残業代、……いえ、……相応の『愛』を、きっちり請求させていただきますわよ」
わたくしは顔を真っ赤にしながら、彼の胸に顔を埋めました。
偽装が真実へと変わった夜。
わたくしの人生の貸借対照表からは「孤独」という負債が完全に消え去り、代わりに「幸福」という名の、測定不能な巨大資産が計上されたのでした。
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