婚約破棄で純愛アップデート、偽装婚約から真実の婚約へ

恋の箱庭

文字の大きさ
21 / 27

21

しおりを挟む
市場での「視察」という名の甘い拷問から帰宅し、わたくしは自室の机で頭を抱えておりました。
髪から外した青い石の髪飾りが、ランプの光を反射してキラキラと輝いています。

「……不合理ですわ。この胸の動悸、そして作業効率の低下。……ヴィンセント殿下という変数は、わたくしの演算システムを根本から破壊しつつあります」

わたくしが独り言を呟きながら、偽装婚約の契約書を修正しようとしたその時です。
ノックの音と共に、ヴィンセント殿下が一本のワインと二つのグラスを持って現れました。

「夜分に失礼。……リーマ、少し『契約内容の再検討』をしたいと思ってね」

「……殿下。ちょうどよろしかったですわ。わたくしも、第ニ条の接触制限に関する解釈の齟齬(そご)について、厳重な抗議を申し立てようとしていたところです」

わたくしは背筋を伸ばし、事務的な表情を作りました。
しかし、殿下はわたくしの隣に椅子を引き寄せると、至近距離で座り、ゆっくりとワインを注ぎました。

「抗議なら後で聞こう。……それより、俺はこの契約書に『重大な欠陥』を見つけてしまったんだ」

「欠陥? ……あり得ませんわ。わたくしが三度も見直して、論理的な矛盾をすべて排除したはずですけれど」

「いいや、最大級の矛盾がある。……第三条、『愛の囁きは雑音として処理する』という項目だ。……これは、現在の実態を反映していない『虚偽の記載』に当たるんじゃないかな?」

ヴィンセント殿下の低い声が、わたくしの鼓動をさらに加速させます。
彼はわたくしの手からペンを取り上げ、机に置きました。

「……実態、とは何のことかしら? わたくしたちの関係は、あくまで利害の一致に基づくビジネス的な……」

「ビジネス? ……ビジネスで、男が女に、こんな目を向けると思うかい?」

ヴィンセント殿下がわたくしの顎を指先でクイと持ち上げ、その熱い瞳でわたくしを射抜きました。
逃げ場のない、圧倒的なまでの「本気」がそこにはありました。

「リーマ。……俺は、君の有能さに惚れた。だが今は、君の不器用な優しさも、怒った時の眉間の皺も、……君という存在のすべてを、愛してしまっているんだ。……これはもう、『偽装』という枠には収まりきらない」

「……で、殿下。……それは、……契約の逸脱ですわ。……わたくしの予測モデルに、そのような熱烈な……」

「予測できないなら、今この場で『新しい事実』として上書きしてくれ。……リーマ、俺は君との『偽装』を、今日この時をもって終了したい」

わたくしの心臓が、一瞬停止したかのような錯覚に陥りました。
終了。……それは、わたくしがこの国を去ることを意味するのでしょうか?
不安が脳内を駆け巡った瞬間、殿下はわたくしの両手を強く握りしめました。

「代わりに、……『真実の婚約』を申し入れたい。……利害ではなく、愛によって結ばれる、恒久的なパートナーシップだ。……報酬は、俺の生涯のすべて。……どうだい、この条件で契約を更新してくれないかな?」

「……。……。……」

わたくしの誇る高度な言語処理能力が、完全にフリーズいたしました。
代わりに出てきたのは、計算式でも論理でもない、熱い涙でした。

「……ずるいですわ、殿下。……わたくし、数字にならないものは信じないと申し上げたのに。……あなたのその、……不合理すぎる熱意を、計算に入れる方法なんて、どこにも載っていませんもの」

「ははは。……載っていないなら、俺たちで新しい数式を作ればいい。……君が納得するまで、何度でも証明してあげるよ」

ヴィンセント殿下は優しく微笑み、わたくしの涙を親指で拭いました。
そして、誓いを立てるように、わたくしの唇にそっと、でも確かな重みを持って、自身の唇を重ねました。

それは、わたくしの人生で最も非論理的で、そして最も「正しい」と感じる瞬間でした。

「……さて。……更新手続き、完了ということでよろしいかしら?」

「ああ。……不備はないよ。……ただ、一点だけ追加させてくれ。……『愛の囁き』は、これから二十四時間、年中無休で受け取ってもらう。……いいね、婚約者殿?」

「……。……。……残業代、……いえ、……相応の『愛』を、きっちり請求させていただきますわよ」

わたくしは顔を真っ赤にしながら、彼の胸に顔を埋めました。
偽装が真実へと変わった夜。
わたくしの人生の貸借対照表からは「孤独」という負債が完全に消え去り、代わりに「幸福」という名の、測定不能な巨大資産が計上されたのでした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あなたが決めたことよ

アーエル
恋愛
その日は私の誕生日パーティーの三日前のことでした。 前触れもなく「婚約の話は無かったことにしよう」と言われたのです。 ‪✰他社でも公開

悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。
恋愛
王国の侯爵令嬢ルゥナ=フェリシェは、些細なすれ違いから突発的に家出をする。本人にとっては軽いお散歩のつもりだったが、方向音痴の彼女はそのまま隣国の帝国に迷い込み、なぜか牢獄に収監される羽目に。しかし無自覚な怪力と天然ぶりで脱獄してしまい、道に迷うたびに騒動を巻き起こす。 一方、婚約破棄を告げようとした王子レオニスは、当日にルゥナが失踪したことで騒然。王宮も侯爵家も大混乱となり、レオニス自身が捜索に出るが、恐らく最後まで彼女とは一度も出会えない。 ルゥナは道に迷っただけなのに、なぜか人助けを繰り返し、帝国の各地で英雄視されていく。そして気づけば彼女を慕う男たちが集まり始め、逆ハーレムの中心に。だが本人は一切自覚がなく、むしろ全員の好意に対して煙たがっている。 帰るつもりもなく、目的もなく、ただ好奇心のままに彷徨う“無害で最強な天然令嬢”による、帝国大騒動ギャグ恋愛コメディ、ここに開幕!

【完結】伯爵令嬢の25通の手紙 ~この手紙たちが、わたしを支えてくれますように~

朝日みらい
恋愛
煌びやかな晩餐会。クラリッサは上品に振る舞おうと努めるが、周囲の貴族は彼女の地味な外見を笑う。 婚約者ルネがワインを掲げて笑う。「俺は華のある令嬢が好きなんだ。すまないが、君では退屈だ。」 静寂と嘲笑の中、クラリッサは微笑みを崩さずに頭を下げる。 夜、涙をこらえて母宛てに手紙を書く。 「恥をかいたけれど、泣かないことを誇りに思いたいです。」 彼女の最初の手紙が、物語の始まりになるように――。

報われなかった姫君に、弔いの白い薔薇の花束を

さくたろう
恋愛
 その国の王妃を決める舞踏会に招かれたロザリー・ベルトレードは、自分が当時の王子、そうして現王アルフォンスの婚約者であり、不遇の死を遂げた姫オフィーリアであったという前世を思い出す。  少しずつ蘇るオフィーリアの記憶に翻弄されながらも、17年前から今世まで続く因縁に、ロザリーは絡め取られていく。一方でアルフォンスもロザリーの存在から目が離せなくなり、やがて二人は再び惹かれ合うようになるが――。 20話です。小説家になろう様でも公開中です。

お飾りの婚約者で結構です! 殿下のことは興味ありませんので、お構いなく!

にのまえ
恋愛
 すでに寵愛する人がいる、殿下の婚約候補決めの舞踏会を開くと、王家の勅命がドーリング公爵家に届くも、姉のミミリアは嫌がった。  公爵家から一人娘という言葉に、舞踏会に参加することになった、ドーリング公爵家の次女・ミーシャ。  家族の中で“役立たず”と蔑まれ、姉の身代わりとして差し出された彼女の唯一の望みは――「舞踏会で、美味しい料理を食べること」。  だが、そんな慎ましい願いとは裏腹に、  舞踏会の夜、思いもよらぬ出来事が起こりミーシャは前世、読んでいた小説の世界だと気付く。

始まりはよくある婚約破棄のように

喜楽直人
恋愛
「ミリア・ファネス公爵令嬢! 婚約者として10年も長きに渡り傍にいたが、もう我慢ならない! 父上に何度も相談した。母上からも考え直せと言われた。しかし、僕はもう決めたんだ。ミリア、キミとの婚約は今日で終わりだ!」 学園の卒業パーティで、第二王子がその婚約者の名前を呼んで叫び、周囲は固唾を呑んでその成り行きを見守った。 ポンコツ王子から一方的な溺愛を受ける真面目令嬢が涙目になりながらも立ち向い、けれども少しずつ絆されていくお話。 第一章「婚約者編」 第二章「お見合い編(過去)」 第三章「結婚編」 第四章「出産・育児編」 第五章「ミリアの知らないオレファンの過去編」連載開始

大嫌いな従兄と結婚するぐらいなら…

みみぢあん
恋愛
子供の頃、両親を亡くしたベレニスは伯父のロンヴィル侯爵に引き取られた。 隣国の宣戦布告で戦争が始まり、伯父の頼みでベレニスは病弱な従妹のかわりに、側妃候補とは名ばかりの人質として、後宮へ入ることになった。 戦争が終わりベレニスが人質生活から解放されたら、伯父は後継者の従兄ジャコブと結婚させると約束する。 だがベレニスはジャコブが大嫌いなうえ、密かに思いを寄せる騎士フェルナンがいた。   

不機嫌な侯爵様に、その献身は届かない

翠月 瑠々奈
恋愛
サルコベリア侯爵夫人は、夫の言動に違和感を覚え始める。 始めは夜会での振る舞いからだった。 それがさらに明らかになっていく。 機嫌が悪ければ、それを周りに隠さず察して動いてもらおうとし、愚痴を言ったら同調してもらおうとするのは、まるで子どものよう。 おまけに自分より格下だと思えば強気に出る。 そんな夫から、とある仕事を押し付けられたところ──?

処理中です...