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夕暮れ時の図書室。
静寂が支配するはずのその場所に、私の苛立ちを含んだ声が低く響いた。
「……貴女、正気なの? この建国史のテスト、赤点どころか白旗を上げているじゃない」
私は目の前に置かれた答案用紙を、人差し指と中指でつまみ上げた。
そこには、まるで芸術的な幾何学模様のように、真っ赤なバツ印が並んでいる。
「あはは……。年号を覚えようとすると、どうしても数字がダンスし始めちゃって……」
クララが申し訳なさそうに、机の隅で小さくなっている。
「ダンス? 優雅な言い訳ね。いい、クララ。この国の歴史を知らないということは、自分がどこに立っているかを知らないのと同じよ。そんな無防備な頭で社交界に出れば、海千山千の貴族たちに言葉の槍で串刺しにされるわ」
私は手に持っていた教科書を、机の上に「ドン!」と叩きつけた。
「ひゃいっ! お、お姉様、怖いですぅ!」
「怖い? 結構。その恐怖を脳の栄養にしなさい。……エクレア、例のものを」
背後に控えていたエクレアが、スッと一本の真っ黒な指示棒を取り出した。
先端には、なぜか小さな悪魔の角のような装飾がついている。
「はい、お嬢様。特製の『暗記促進スティック』でございます。これを使えば、頭に入らない知識も物理的に押し込める気がいたします」
「……物理的に? まあ、いいわ。クララ、今からこの年号を暗唱しなさい。一つ間違えるごとに、今日のティータイムのスコーンを一口分減らすわよ」
「そ、そんな! 食糧難は嫌です! 私、必死で覚えます!」
クララが必死の形相で教科書にかじりつく。
私は彼女の横に立ち、その視線を厳しく追った。
「いい? 一三二二年の『チョコラータ協定』。これは王家と公爵家が……」
「王家と公爵家が、えーっと……おいしいお菓子を一緒に食べる約束をした記念日!」
「違うわよ! 関税の撤廃と相互防衛の誓約よ! 誰がお菓子パーティーのために国を動かすのよ!」
私は思わず、指示棒で机をバシバシと叩いた。
(……おかしいわ。私はただ、あの子が次の試験で落第して退学に追い込まれないように面倒を見ているだけなのに。どうしてこんなに血圧が上がるのかしら)
その時、図書室の大きな本棚の影で、何かがガサリと動いた。
(……鼠? いえ、この気配は……)
私は気づかないふりをして、さらに声を張り上げた。
「いい、クララ。貴女がこの年号を覚えないなら、私は貴女をこの地下牢……もとい、図書室に一生閉じ込めて、知識の奴隷にしてあげてもいいのよ!」
「お、お姉様……! 私、お姉様の奴隷になれるなら、それはそれで幸せかも……」
「変な方向にポジティブにならないで! ほら、次! 一四〇五年の……」
その時、本棚の影から「ヒッ!」という短い悲鳴が聞こえた。
そして案の定、金色の髪を振り乱した男が飛び出してきた。
「そこまでだ、毒婦ミルフィー! ついに本性を現したな!」
レオン王子である。
彼は手に持っていた虫眼鏡(なぜ持っているのかしら)を私に向け、正義のヒーロー然として叫んだ。
「今、はっきりと聞いたぞ! クララを一生閉じ込めて奴隷にすると! なんて恐ろしい女だ。図書室を地下牢と呼び変えるその発想、まさに悪の化身!」
「殿下……。また貴方ですか。盗み聞きとは、王族の嗜みとしては少々品性に欠けるのでは?」
私は冷ややかな視線を向けたが、王子は聞く耳を持たない。
「黙れ! クララ、今すぐ私の後ろへ! こんな女と一緒にいたら、君の清らかな心が闇に染まってしまう!」
王子がクララの腕を引こうとしたが、クララは机にしがみついて拒否した。
「嫌です、レオン様! 今、私はとっても大事なところなんです! 『チョコラータ協定』を覚えないと、明日のスコーンが減っちゃうんです!」
「なっ……! スコーンで君を釣るなんて、卑劣だぞミルフィー! 食糧を武器にするとは、禁じ手中の禁じ手だ!」
「……あの、殿下。これは単なる学習の動機付けでして……」
「言い訳は無用だ! クララ、スコーンなら私がいくらでも買ってあげよう。王室御用達の、君の顔より大きいやつをだ!」
王子が胸を張るが、クララは首を横に振った。
「違うんです! お姉様と一緒に食べる、お姉様に怒られながら食べるスコーンが、世界で一番美味しいんです! 殿下には分かりません!」
「……は?」
王子が石のように固まった。
私も少しだけ、頬が熱くなるのを感じて顔を背けた。
「……聞いたかしら、殿下。彼女は私のスパルタ教育を楽しんでいるのよ。さあ、邪魔者は去りなさい。勉強の続きよ」
「そ、そんなバカな……。クララ、君は洗脳されているんだ! 毒を盛られたか、あるいは怪しい魔術を……!」
「魔術なんて使ってませんわ。使っているのは私の『根気』だけです。エクレア、殿下をお出口まで案内して」
「承知いたしました。……殿下、こちらへ。これ以上騒がれますと、司書室から『静粛に』という名の物理的な制裁が下りますので」
エクレアが王子の襟首を掴むようにして、ずるずると引きずっていく。
「待て! 離せ! 私は王子だぞ! クララー! 目を覚ますんだー!」
王子の叫び声が遠ざかっていく。
図書室に再び、(比較的)穏やかな静寂が戻ってきた。
「……さて。邪魔が入ったけれど、続きをやるわよ。一四〇五年、何があった?」
「はい! 『ラングドシャ公爵家が王家に愛想を尽かした年』……でしたっけ?」
「……それは未来の歴史になりそうね。正解は『第二次国境紛争の終結』よ。……もう、本当におバカさんなんだから」
私はため息をつきながらも、彼女の隣に座り直した。
窓から差し込む夕日は、机の上の答案用紙をオレンジ色に染めている。
(婚約破棄される前に、せめてこの子の成績を人並みにしないと……私のプライドが許さないわ)
「お姉様、今のところ、私、スコーン一口分くらいは合格ですか?」
「……半分だけね。あとの半分は、次のページを全部暗記できたら考えてあげるわ」
「わーい! お姉様大好き!」
抱きついてこようとするクララを扇で押し返しつつ、私はひっそりと口角を上げた。
悪役令嬢としての評判は地に落ちている気がするけれど、不思議と悪い気分ではなかった。
静寂が支配するはずのその場所に、私の苛立ちを含んだ声が低く響いた。
「……貴女、正気なの? この建国史のテスト、赤点どころか白旗を上げているじゃない」
私は目の前に置かれた答案用紙を、人差し指と中指でつまみ上げた。
そこには、まるで芸術的な幾何学模様のように、真っ赤なバツ印が並んでいる。
「あはは……。年号を覚えようとすると、どうしても数字がダンスし始めちゃって……」
クララが申し訳なさそうに、机の隅で小さくなっている。
「ダンス? 優雅な言い訳ね。いい、クララ。この国の歴史を知らないということは、自分がどこに立っているかを知らないのと同じよ。そんな無防備な頭で社交界に出れば、海千山千の貴族たちに言葉の槍で串刺しにされるわ」
私は手に持っていた教科書を、机の上に「ドン!」と叩きつけた。
「ひゃいっ! お、お姉様、怖いですぅ!」
「怖い? 結構。その恐怖を脳の栄養にしなさい。……エクレア、例のものを」
背後に控えていたエクレアが、スッと一本の真っ黒な指示棒を取り出した。
先端には、なぜか小さな悪魔の角のような装飾がついている。
「はい、お嬢様。特製の『暗記促進スティック』でございます。これを使えば、頭に入らない知識も物理的に押し込める気がいたします」
「……物理的に? まあ、いいわ。クララ、今からこの年号を暗唱しなさい。一つ間違えるごとに、今日のティータイムのスコーンを一口分減らすわよ」
「そ、そんな! 食糧難は嫌です! 私、必死で覚えます!」
クララが必死の形相で教科書にかじりつく。
私は彼女の横に立ち、その視線を厳しく追った。
「いい? 一三二二年の『チョコラータ協定』。これは王家と公爵家が……」
「王家と公爵家が、えーっと……おいしいお菓子を一緒に食べる約束をした記念日!」
「違うわよ! 関税の撤廃と相互防衛の誓約よ! 誰がお菓子パーティーのために国を動かすのよ!」
私は思わず、指示棒で机をバシバシと叩いた。
(……おかしいわ。私はただ、あの子が次の試験で落第して退学に追い込まれないように面倒を見ているだけなのに。どうしてこんなに血圧が上がるのかしら)
その時、図書室の大きな本棚の影で、何かがガサリと動いた。
(……鼠? いえ、この気配は……)
私は気づかないふりをして、さらに声を張り上げた。
「いい、クララ。貴女がこの年号を覚えないなら、私は貴女をこの地下牢……もとい、図書室に一生閉じ込めて、知識の奴隷にしてあげてもいいのよ!」
「お、お姉様……! 私、お姉様の奴隷になれるなら、それはそれで幸せかも……」
「変な方向にポジティブにならないで! ほら、次! 一四〇五年の……」
その時、本棚の影から「ヒッ!」という短い悲鳴が聞こえた。
そして案の定、金色の髪を振り乱した男が飛び出してきた。
「そこまでだ、毒婦ミルフィー! ついに本性を現したな!」
レオン王子である。
彼は手に持っていた虫眼鏡(なぜ持っているのかしら)を私に向け、正義のヒーロー然として叫んだ。
「今、はっきりと聞いたぞ! クララを一生閉じ込めて奴隷にすると! なんて恐ろしい女だ。図書室を地下牢と呼び変えるその発想、まさに悪の化身!」
「殿下……。また貴方ですか。盗み聞きとは、王族の嗜みとしては少々品性に欠けるのでは?」
私は冷ややかな視線を向けたが、王子は聞く耳を持たない。
「黙れ! クララ、今すぐ私の後ろへ! こんな女と一緒にいたら、君の清らかな心が闇に染まってしまう!」
王子がクララの腕を引こうとしたが、クララは机にしがみついて拒否した。
「嫌です、レオン様! 今、私はとっても大事なところなんです! 『チョコラータ協定』を覚えないと、明日のスコーンが減っちゃうんです!」
「なっ……! スコーンで君を釣るなんて、卑劣だぞミルフィー! 食糧を武器にするとは、禁じ手中の禁じ手だ!」
「……あの、殿下。これは単なる学習の動機付けでして……」
「言い訳は無用だ! クララ、スコーンなら私がいくらでも買ってあげよう。王室御用達の、君の顔より大きいやつをだ!」
王子が胸を張るが、クララは首を横に振った。
「違うんです! お姉様と一緒に食べる、お姉様に怒られながら食べるスコーンが、世界で一番美味しいんです! 殿下には分かりません!」
「……は?」
王子が石のように固まった。
私も少しだけ、頬が熱くなるのを感じて顔を背けた。
「……聞いたかしら、殿下。彼女は私のスパルタ教育を楽しんでいるのよ。さあ、邪魔者は去りなさい。勉強の続きよ」
「そ、そんなバカな……。クララ、君は洗脳されているんだ! 毒を盛られたか、あるいは怪しい魔術を……!」
「魔術なんて使ってませんわ。使っているのは私の『根気』だけです。エクレア、殿下をお出口まで案内して」
「承知いたしました。……殿下、こちらへ。これ以上騒がれますと、司書室から『静粛に』という名の物理的な制裁が下りますので」
エクレアが王子の襟首を掴むようにして、ずるずると引きずっていく。
「待て! 離せ! 私は王子だぞ! クララー! 目を覚ますんだー!」
王子の叫び声が遠ざかっていく。
図書室に再び、(比較的)穏やかな静寂が戻ってきた。
「……さて。邪魔が入ったけれど、続きをやるわよ。一四〇五年、何があった?」
「はい! 『ラングドシャ公爵家が王家に愛想を尽かした年』……でしたっけ?」
「……それは未来の歴史になりそうね。正解は『第二次国境紛争の終結』よ。……もう、本当におバカさんなんだから」
私はため息をつきながらも、彼女の隣に座り直した。
窓から差し込む夕日は、机の上の答案用紙をオレンジ色に染めている。
(婚約破棄される前に、せめてこの子の成績を人並みにしないと……私のプライドが許さないわ)
「お姉様、今のところ、私、スコーン一口分くらいは合格ですか?」
「……半分だけね。あとの半分は、次のページを全部暗記できたら考えてあげるわ」
「わーい! お姉様大好き!」
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