悪役令嬢は断罪される前に、既に攻略済ですわ。

恋の箱庭

文字の大きさ
4 / 28

4

しおりを挟む
夕暮れ時の図書室。
静寂が支配するはずのその場所に、私の苛立ちを含んだ声が低く響いた。


「……貴女、正気なの? この建国史のテスト、赤点どころか白旗を上げているじゃない」


私は目の前に置かれた答案用紙を、人差し指と中指でつまみ上げた。
そこには、まるで芸術的な幾何学模様のように、真っ赤なバツ印が並んでいる。


「あはは……。年号を覚えようとすると、どうしても数字がダンスし始めちゃって……」


クララが申し訳なさそうに、机の隅で小さくなっている。


「ダンス? 優雅な言い訳ね。いい、クララ。この国の歴史を知らないということは、自分がどこに立っているかを知らないのと同じよ。そんな無防備な頭で社交界に出れば、海千山千の貴族たちに言葉の槍で串刺しにされるわ」


私は手に持っていた教科書を、机の上に「ドン!」と叩きつけた。


「ひゃいっ! お、お姉様、怖いですぅ!」


「怖い? 結構。その恐怖を脳の栄養にしなさい。……エクレア、例のものを」


背後に控えていたエクレアが、スッと一本の真っ黒な指示棒を取り出した。
先端には、なぜか小さな悪魔の角のような装飾がついている。


「はい、お嬢様。特製の『暗記促進スティック』でございます。これを使えば、頭に入らない知識も物理的に押し込める気がいたします」


「……物理的に? まあ、いいわ。クララ、今からこの年号を暗唱しなさい。一つ間違えるごとに、今日のティータイムのスコーンを一口分減らすわよ」


「そ、そんな! 食糧難は嫌です! 私、必死で覚えます!」


クララが必死の形相で教科書にかじりつく。
私は彼女の横に立ち、その視線を厳しく追った。


「いい? 一三二二年の『チョコラータ協定』。これは王家と公爵家が……」


「王家と公爵家が、えーっと……おいしいお菓子を一緒に食べる約束をした記念日!」


「違うわよ! 関税の撤廃と相互防衛の誓約よ! 誰がお菓子パーティーのために国を動かすのよ!」


私は思わず、指示棒で机をバシバシと叩いた。


(……おかしいわ。私はただ、あの子が次の試験で落第して退学に追い込まれないように面倒を見ているだけなのに。どうしてこんなに血圧が上がるのかしら)


その時、図書室の大きな本棚の影で、何かがガサリと動いた。


(……鼠? いえ、この気配は……)


私は気づかないふりをして、さらに声を張り上げた。


「いい、クララ。貴女がこの年号を覚えないなら、私は貴女をこの地下牢……もとい、図書室に一生閉じ込めて、知識の奴隷にしてあげてもいいのよ!」


「お、お姉様……! 私、お姉様の奴隷になれるなら、それはそれで幸せかも……」


「変な方向にポジティブにならないで! ほら、次! 一四〇五年の……」


その時、本棚の影から「ヒッ!」という短い悲鳴が聞こえた。
そして案の定、金色の髪を振り乱した男が飛び出してきた。


「そこまでだ、毒婦ミルフィー! ついに本性を現したな!」


レオン王子である。
彼は手に持っていた虫眼鏡(なぜ持っているのかしら)を私に向け、正義のヒーロー然として叫んだ。


「今、はっきりと聞いたぞ! クララを一生閉じ込めて奴隷にすると! なんて恐ろしい女だ。図書室を地下牢と呼び変えるその発想、まさに悪の化身!」


「殿下……。また貴方ですか。盗み聞きとは、王族の嗜みとしては少々品性に欠けるのでは?」


私は冷ややかな視線を向けたが、王子は聞く耳を持たない。


「黙れ! クララ、今すぐ私の後ろへ! こんな女と一緒にいたら、君の清らかな心が闇に染まってしまう!」


王子がクララの腕を引こうとしたが、クララは机にしがみついて拒否した。


「嫌です、レオン様! 今、私はとっても大事なところなんです! 『チョコラータ協定』を覚えないと、明日のスコーンが減っちゃうんです!」


「なっ……! スコーンで君を釣るなんて、卑劣だぞミルフィー! 食糧を武器にするとは、禁じ手中の禁じ手だ!」


「……あの、殿下。これは単なる学習の動機付けでして……」


「言い訳は無用だ! クララ、スコーンなら私がいくらでも買ってあげよう。王室御用達の、君の顔より大きいやつをだ!」


王子が胸を張るが、クララは首を横に振った。


「違うんです! お姉様と一緒に食べる、お姉様に怒られながら食べるスコーンが、世界で一番美味しいんです! 殿下には分かりません!」


「……は?」


王子が石のように固まった。
私も少しだけ、頬が熱くなるのを感じて顔を背けた。


「……聞いたかしら、殿下。彼女は私のスパルタ教育を楽しんでいるのよ。さあ、邪魔者は去りなさい。勉強の続きよ」


「そ、そんなバカな……。クララ、君は洗脳されているんだ! 毒を盛られたか、あるいは怪しい魔術を……!」


「魔術なんて使ってませんわ。使っているのは私の『根気』だけです。エクレア、殿下をお出口まで案内して」


「承知いたしました。……殿下、こちらへ。これ以上騒がれますと、司書室から『静粛に』という名の物理的な制裁が下りますので」


エクレアが王子の襟首を掴むようにして、ずるずると引きずっていく。


「待て! 離せ! 私は王子だぞ! クララー! 目を覚ますんだー!」


王子の叫び声が遠ざかっていく。
図書室に再び、(比較的)穏やかな静寂が戻ってきた。


「……さて。邪魔が入ったけれど、続きをやるわよ。一四〇五年、何があった?」


「はい! 『ラングドシャ公爵家が王家に愛想を尽かした年』……でしたっけ?」


「……それは未来の歴史になりそうね。正解は『第二次国境紛争の終結』よ。……もう、本当におバカさんなんだから」


私はため息をつきながらも、彼女の隣に座り直した。
窓から差し込む夕日は、机の上の答案用紙をオレンジ色に染めている。


(婚約破棄される前に、せめてこの子の成績を人並みにしないと……私のプライドが許さないわ)


「お姉様、今のところ、私、スコーン一口分くらいは合格ですか?」


「……半分だけね。あとの半分は、次のページを全部暗記できたら考えてあげるわ」


「わーい! お姉様大好き!」


抱きついてこようとするクララを扇で押し返しつつ、私はひっそりと口角を上げた。
悪役令嬢としての評判は地に落ちている気がするけれど、不思議と悪い気分ではなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

お飾り王妃の死後~王の後悔~

ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。 王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。 ウィルベルト王国では周知の事実だった。 しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。 最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。 小説家になろう様にも投稿しています。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

公爵令嬢の辿る道

ヤマナ
恋愛
公爵令嬢エリーナ・ラナ・ユースクリフは、迎えた5度目の生に絶望した。 家族にも、付き合いのあるお友達にも、慕っていた使用人にも、思い人にも、誰からも愛されなかったエリーナは罪を犯して投獄されて凍死した。 それから生を繰り返して、その度に自業自得で凄惨な末路を迎え続けたエリーナは、やがて自分を取り巻いていたもの全てからの愛を諦めた。 これは、愛されず、しかし愛を求めて果てた少女の、その先の話。 ※暇な時にちょこちょこ書いている程度なので、内容はともかく出来についてはご了承ください。 追記  六十五話以降、タイトルの頭に『※』が付いているお話は、流血表現やグロ表現がございますので、閲覧の際はお気を付けください。

【完結】仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

王太子妃専属侍女の結婚事情

蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。 未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。 相手は王太子の側近セドリック。 ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。 そんな二人の行く末は......。 ☆恋愛色は薄めです。 ☆完結、予約投稿済み。 新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。 ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。 そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。 よろしくお願いいたします。

仕事で疲れて会えないと、恋人に距離を置かれましたが、彼の上司に溺愛されているので幸せです!

ぽんちゃん
恋愛
 ――仕事で疲れて会えない。  十年付き合ってきた恋人を支えてきたけど、いつも後回しにされる日々。  記念日すら仕事を優先する彼に、十分だけでいいから会いたいとお願いすると、『距離を置こう』と言われてしまう。  そして、思い出の高級レストランで、予約した席に座る恋人が、他の女性と食事をしているところを目撃してしまい――!?

処理中です...