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王宮の一角にある、第一王子の執務室。
かつては常に清潔に保たれ、百合の花の香りが漂っていたその場所は、今や崩壊したダムから溢れ出した濁流……もとい、書類の山に飲み込まれていた。
「……おい、この書類は何だ。なぜ私が、隣国の牛の関税について、こんなに細かく計算しなければならないのだ!」
レオン・ド・チョコラータ王子は、乱れた金髪をかきむしり、手にした書類を机に叩きつけた。
「……殿下。それは以前、ミルフィー様が『片手間で』処理されていた通商合意書の草案でございます」
冷徹な声で答えたのは、王子の新しい補佐官、バニラだ。
彼はミルフィーがいなくなった後、その後釜として任命された不運な男だった。
「片手間でだと? 君は、あの女を過大評価しすぎだ。彼女はただ、私の後ろで扇をパタパタさせながら、高慢な態度をとっていただけだろう?」
「いいえ。彼女は扇をパタパタさせながら、もう片方の手で計算尺を操り、三カ国語の契約書を同時に添削しておりました。ちなみに、殿下の自慢話を聞き流すのも、彼女の『重要業務』の一つだったようです」
バニラが淡々と事実を突きつけると、レオンは顔を真っ赤にして立ち上がった。
「うるさい! 私がいれば、あんな毒婦の助けなど不要だ! 鏡を持ってこい! 私の美しい顔を見て、インスピレーションを……」
「鏡なら、先ほど経費削減のために売却いたしました。今の殿下には、自分を愛でる時間よりも、この三百枚の未決済書類にサインする時間が必要ですので」
バニラが、地響きを立てるような勢いで新たな書類の束を置いた。
「……なっ、三百枚!? 私の指が疲れて、優雅なティーカップの持ち方が変わってしまったらどうする!」
「その心配は無用です。今の王宮には、殿下と優雅にお茶を飲むような、物好きなご令嬢は一人もいらっしゃいません。皆様、ミルフィー様から『殿下の誘いを回避するための護身術』を伝授されているようです」
「護身術だと……? 何だそれは!」
「『殿下が髪を触り始めたら、緊急の腹痛を訴えて脱出しなさい』という、非常に実用的なマニュアルだそうです」
レオンは、がっくりと椅子に崩れ落ちた。
彼は確信していたのだ。
ミルフィーを追い出せば、クララという可愛らしい小鳥が自分の腕の中に飛び込み、社交界は自分の「真実の愛」を祝福するはずだと。
だが、現実は違った。
ミルフィーという「有能すぎる盾」を失った瞬間、王宮内の面倒な実務、貴族同士のドロドロした調整、そして外交上の駆け引きが、すべて王子の頭上に直撃したのだ。
「……おかしい。なぜだ。クララはどこへ行った? 彼女なら、私の疲れた心をお菓子で癒してくれるはず……」
「クララ様なら、ミルフィー様の公爵邸で、毎日三食おやつ付きの『マブダチ合宿』を満喫されているようです。報告によりますと、昨日は二人で『王子のいない人生、最高!』という垂れ幕を作ってパーティーをしていたとか」
「ぐはぁっ……!」
王子の胸に、見えない矢が突き刺さった。
「殿下。そろそろ現実を直視されてはいかがでしょうか。貴方が『悪役』と決めつけていたミルフィー様こそが、この国の経済を、そして貴方の体裁を支えていた『真の功労者』だったということを」
「……だ、黙れ! 私は王子だぞ! 主人公なのだ! ヒロインに捨てられ、元婚約者に嘲笑われる主人公など、聞いたことがない!」
「残念ながら、これは物語ではなく現実です。……さあ、サインを。それとも、ミルフィー様に泣きついて、土下座して戻ってきてもらいますか?」
バニラが差し出したペンを、レオンはわなわなと震える手で見つめた。
「……な、泣きつく? 私が? あんな恐ろしい女に?」
脳裏に浮かぶのは、自分を「カボチャ頭」と呼び捨て、清々しい笑顔で去っていったミルフィーの姿。
そして、その横で「お姉様ー!」と尻尾を振ってついていくクララの姿。
(……あいつらが、あんなに楽しそうにしているのは許せん。……だが、あの書類の山を、私が一人で片付けるのは、もっと許せん!)
王子の誤算。
それは、自分が「愛の力」で国を動かしているのではなく、単に「ミルフィーの我慢」の上に胡座をかいていただけだという、あまりにも残酷な真実だった。
「……いいだろう。私は、あえて、この書類を片付けてみせる! 私の真の才能を見せてやる!」
「はい。では、明日の朝までに終わらせてください。終わらなければ、殿下の明日の朝食は『もやし』のみとなります。ミルフィー様からの『浪費王子への教育的指導』に従わせていただきます」
「もやしぃぃぃー!?」
王子の絶叫が、書類の山に虚しく吸い込まれていった。
かつては常に清潔に保たれ、百合の花の香りが漂っていたその場所は、今や崩壊したダムから溢れ出した濁流……もとい、書類の山に飲み込まれていた。
「……おい、この書類は何だ。なぜ私が、隣国の牛の関税について、こんなに細かく計算しなければならないのだ!」
レオン・ド・チョコラータ王子は、乱れた金髪をかきむしり、手にした書類を机に叩きつけた。
「……殿下。それは以前、ミルフィー様が『片手間で』処理されていた通商合意書の草案でございます」
冷徹な声で答えたのは、王子の新しい補佐官、バニラだ。
彼はミルフィーがいなくなった後、その後釜として任命された不運な男だった。
「片手間でだと? 君は、あの女を過大評価しすぎだ。彼女はただ、私の後ろで扇をパタパタさせながら、高慢な態度をとっていただけだろう?」
「いいえ。彼女は扇をパタパタさせながら、もう片方の手で計算尺を操り、三カ国語の契約書を同時に添削しておりました。ちなみに、殿下の自慢話を聞き流すのも、彼女の『重要業務』の一つだったようです」
バニラが淡々と事実を突きつけると、レオンは顔を真っ赤にして立ち上がった。
「うるさい! 私がいれば、あんな毒婦の助けなど不要だ! 鏡を持ってこい! 私の美しい顔を見て、インスピレーションを……」
「鏡なら、先ほど経費削減のために売却いたしました。今の殿下には、自分を愛でる時間よりも、この三百枚の未決済書類にサインする時間が必要ですので」
バニラが、地響きを立てるような勢いで新たな書類の束を置いた。
「……なっ、三百枚!? 私の指が疲れて、優雅なティーカップの持ち方が変わってしまったらどうする!」
「その心配は無用です。今の王宮には、殿下と優雅にお茶を飲むような、物好きなご令嬢は一人もいらっしゃいません。皆様、ミルフィー様から『殿下の誘いを回避するための護身術』を伝授されているようです」
「護身術だと……? 何だそれは!」
「『殿下が髪を触り始めたら、緊急の腹痛を訴えて脱出しなさい』という、非常に実用的なマニュアルだそうです」
レオンは、がっくりと椅子に崩れ落ちた。
彼は確信していたのだ。
ミルフィーを追い出せば、クララという可愛らしい小鳥が自分の腕の中に飛び込み、社交界は自分の「真実の愛」を祝福するはずだと。
だが、現実は違った。
ミルフィーという「有能すぎる盾」を失った瞬間、王宮内の面倒な実務、貴族同士のドロドロした調整、そして外交上の駆け引きが、すべて王子の頭上に直撃したのだ。
「……おかしい。なぜだ。クララはどこへ行った? 彼女なら、私の疲れた心をお菓子で癒してくれるはず……」
「クララ様なら、ミルフィー様の公爵邸で、毎日三食おやつ付きの『マブダチ合宿』を満喫されているようです。報告によりますと、昨日は二人で『王子のいない人生、最高!』という垂れ幕を作ってパーティーをしていたとか」
「ぐはぁっ……!」
王子の胸に、見えない矢が突き刺さった。
「殿下。そろそろ現実を直視されてはいかがでしょうか。貴方が『悪役』と決めつけていたミルフィー様こそが、この国の経済を、そして貴方の体裁を支えていた『真の功労者』だったということを」
「……だ、黙れ! 私は王子だぞ! 主人公なのだ! ヒロインに捨てられ、元婚約者に嘲笑われる主人公など、聞いたことがない!」
「残念ながら、これは物語ではなく現実です。……さあ、サインを。それとも、ミルフィー様に泣きついて、土下座して戻ってきてもらいますか?」
バニラが差し出したペンを、レオンはわなわなと震える手で見つめた。
「……な、泣きつく? 私が? あんな恐ろしい女に?」
脳裏に浮かぶのは、自分を「カボチャ頭」と呼び捨て、清々しい笑顔で去っていったミルフィーの姿。
そして、その横で「お姉様ー!」と尻尾を振ってついていくクララの姿。
(……あいつらが、あんなに楽しそうにしているのは許せん。……だが、あの書類の山を、私が一人で片付けるのは、もっと許せん!)
王子の誤算。
それは、自分が「愛の力」で国を動かしているのではなく、単に「ミルフィーの我慢」の上に胡座をかいていただけだという、あまりにも残酷な真実だった。
「……いいだろう。私は、あえて、この書類を片付けてみせる! 私の真の才能を見せてやる!」
「はい。では、明日の朝までに終わらせてください。終わらなければ、殿下の明日の朝食は『もやし』のみとなります。ミルフィー様からの『浪費王子への教育的指導』に従わせていただきます」
「もやしぃぃぃー!?」
王子の絶叫が、書類の山に虚しく吸い込まれていった。
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