婚約破棄に歓喜で高飛びしたいのに、逃してくれません

恋の箱庭

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「テレナ・フォン・ベルベット! 貴様との婚約を、この場を持って破棄する!」

王立学園の卒業パーティー。

その華やかな喧騒を切り裂くように、王太子レイド・アークライトの声が響き渡った。

会場の空気が、一瞬にして凍りつく。

楽団の演奏は止まり、踊っていた生徒たちは驚愕に目を見開き、そして一斉に私――公爵令嬢テレナへと視線を集中させた。

レイド殿下の隣には、小柄で愛らしい男爵令嬢、ミナの姿がある。彼女は怯えたように殿下の腕にしがみつき、潤んだ瞳でこちらを見ていた。

まさに、絵に描いたような「断罪イベント」の開幕だ。

周囲からは、「まさか」「やはり」「悪役令嬢への断罪か」といったひそひそ話が漏れ聞こえてくる。

私は扇子で口元を隠し、冷ややかな視線を殿下へと向けた。

「……殿下。今の言葉、本気でございますか?」

「当たり前だ! これ以上、貴様のような冷酷非道な女を、将来の国母として迎えるわけにはいかん!」

レイド殿下は、まるで正義の英雄にでもなったかのように胸を張り、私を指差した。

その指先が微かに震えているのを、私は見逃さない。

「貴様は、そこのミナに対し、数々の嫌がらせを行ってきたな! 身分の差を笠に着て、彼女を嘲笑い、精神的に追い詰めた罪は重い!」

「嫌がらせ、ですか」

私は小首を傾げる。

「具体的に、どのようなことを指していらっしゃるのでしょうか?」

「しらばっくれるな! 先日の茶会でも、ミナが淹れた紅茶を『泥水』と呼んで捨てただろう!」

会場がざわめく。なんて酷い、という非難の視線が私に突き刺さる。

けれど、私は表情一つ変えずに答えた。

「ああ、あの件ですか。あれは事実と異なりますわ」

「何だと!?」

「私は『泥水』とは申しておりません。『抽出時間が長すぎてタンニンが出過ぎているわ。これでは渋すぎて飲めたものではないし、茶葉への冒涜よ。淹れ直してきなさい』と、正しい淹れ方を指導しただけです」

「それを嫌がらせと言うんだ!」

「教育です。王族に供する茶もまともに淹れられないようでは、侍女としても失格ですから」

私の淡々とした反論に、レイド殿下は顔を真っ赤にして言葉を詰まらせた。

「へ、屁理屈を! それだけではない! ミナが提出した課題の書類を、貴様はビリビリに破り捨てたそうだな!」

「それも誤解ですわ。破り捨てたのではありません」

私は扇子を閉じ、パチンと小気味良い音を立てた。

「計算間違いが十七箇所、スペルミスが二十五箇所もありましたので、『書き直した方が早い』と助言し、リサイクルボックスへ丁寧に分別したのです。あのような不備だらけの書類を提出すれば、恥をかくのは彼女自身ですから」

「貴様……! ミナの努力を認めてやろうという気はないのか!」

「努力で国は動きません。必要なのは結果と正確性です」

正論は、時に暴力よりも人を傷つけるらしい。

レイド殿下はワナワナと震え、隣のミナ嬢は「ううっ……テレナ様、怖いですぅ」と殿下の胸に顔を埋めた。

「見ろ! ミナが怯えているではないか! 貴様のその氷のような性格には、もう我慢ならん!」

殿下は声を荒らげ、高らかに宣言した。

「よって、この婚約は破棄とする! 貴様には国外追放を命じるつもりだ!」

国外追放。

その単語が出た瞬間、会場のざわめきは最高潮に達した。

公爵令嬢に対する処遇としては、あまりにも重い。普通なら泣き崩れるか、慈悲を乞う場面だろう。

しかし。

(……来た)

私は、扇子の裏で隠した口元を、にやりと歪めた。

(待ちに待った、この時が……!)

厳しい王妃教育。

休みのない公務補佐。

予算管理のできない殿下の尻拭い。

それら全てから解放される瞬間が、ついに訪れたのだ。

私はスッと背筋を伸ばし、扇子を畳んで一歩前に出た。

「レイド殿下。その言葉、二言はございませんね?」

「あ、ああ! もちろんだ! 今さら泣いて謝っても遅いぞ!」

「結構です」

私は懐から、あらかじめ用意していた分厚い封筒を取り出した。

「謹んで、お受けいたします」

「……は?」

殿下が間の抜けた声を出す。

予想外の反応だったのだろう。周囲の野次馬たちも、ポカンと口を開けている。

私は封筒から書類の束を取り出し、流れるような動作で殿下の前に突きつけた。

「婚約破棄、合意いたしました。つきましては、こちらの書類に署名と捺印をお願いします」

「な、なんだこれは……?」

「『婚約破棄合意書』および『慰謝料請求書』です」

「い、慰謝料……だと?」

「ええ、当然でしょう」

私はニッコリと、商談をまとめる商人のような笑みを浮かべた。

「一方的な婚約破棄には、正当な対価が必要です。まず、この十年間における私の『王妃教育費』の返還。これは国庫ではなくベルベット家の私費で賄っておりましたので、全額請求させていただきます」

書類の一枚目をめくる。

「次に、殿下がこれまで私の名義で購入された服飾品、宝石、およびミナ嬢へのプレゼント代の立て替え分。これらも全て、証拠の領収書を添付してあります」

二枚目、三枚目と、私は次々にページをめくっていく。

「そして、精神的苦痛に対する慰謝料。これは公爵家としての体面を傷つけられたことへの賠償も含みます。……締めて、金貨五万枚となります」

「ご、五万……ッ!?」

殿下の目が飛び出さんばかりに見開かれた。

国家予算の一角を削り取るような金額だ。だが、私の計算に間違いはない。

「高いとおっしゃいますか? これでも、私の十年間の労働対価――殿下の公務を影で代行していた人件費は、『愛ゆえの奉仕』として計上しておりませんので、かなりお安くしてありますのよ?」

「き、貴様……金の話しかしないのか!」

「愛の話をご所望でしたら、ミナ嬢となさってください。私は現実的な精算の話をしております」

私は懐から携帯用のインクとペンを取り出し、殿下に握らせた。

「さあ、ここにサインを。国王陛下への報告と手続きは、私が責任を持って明朝一番に行いますので」

「ま、待て! そんな大金、今すぐ払えるわけが……」

「お支払いは分割でも可能ですが、その場合はベルベット家規定の利子が付きます。年利一五パーセントです」

「暴利だ!」

「法定内です」

私は一歩も引かない。

殿下は助けを求めるように周囲を見渡したが、誰も目を合わせようとはしなかった。

私が提示した証拠書類の束――殿下の浪費と無能さの証明――を見て、貴族たちは察してしまったのだ。

この婚約破棄が、殿下にとって「終わりの始まり」であることを。

「……くっ、分かった! サインすればいいんだろう、サインすれば!」

殿下は半ばヤケクソ気味に、震える手で書類に署名した。

「ありがとうございます。確かに」

私は書類を素早く回収し、インクが乾くのを確認してから丁寧に封筒へ戻した。

これで契約は成立だ。

もう誰にも文句は言わせない。

「それでは殿下、ミナ様。どうぞお幸せに」

私は完璧なカーテシーを披露した。

「私はこれにて失礼いたします。国外追放の準備がございますので」

「お、おい! 待てテレナ!」

殿下の呼び止める声を背中で聞き流し、私は踵を返した。

会場の出口へと向かう私の足取りは、羽根のように軽い。

(やった……やったわ!)

心の中でガッツポーズをする。

国外追放? 上等だ。

実家からは「ほとぼりが冷めるまで修道院へ」と言われるかもしれないが、私には別の計画がある。

隣国のリゾート地『アズライト』。

そこは年中温暖で、海が綺麗で、何より物価が安い。

私が長年コツコツと貯めてきた隠し資産があれば、そこで優雅な隠居生活が送れるはずだ。

もう、毎朝五時に起きて語学の勉強をしなくていい。

ダンスのステップで足を踏まれても笑顔で耐えなくていい。

「予算が足りない」と泣きつく殿下の尻を叩かなくていいのだ。

「自由……! ああ、なんて甘美な響き……!」

ホールを出て、夜の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。

星空さえも、今の私を祝福しているように見えた。

屋敷に帰ったら、すぐに荷造りを始めよう。

必要なのは現金と宝石、あとは身軽なドレス数着。

馬車の手配はすでに済ませてある。夜明けと共に王都を出発し、自由な新天地へ向かうのだ。

私の輝かしい第二の人生が、今まさに始まろうとしてい――。

「――随分とご機嫌だな、テレナ嬢」

不意に、闇の中から低い声がかかった。

心臓が跳ね上がる。

私が待たせていた馬車の前に、一人の男が立っていた。

月明かりを背負い、長い影を落とす長身の影。

銀色の髪が冷ややかに輝き、その瞳は、私を捕らえて離さない猛禽類のように鋭い。

「……セリウス閣下」

私は思わず呻いた。

セリウス・アークライト。

若くして宰相の地位に上り詰め、その冷徹な仕事ぶりから『氷の宰相』と恐れられる男。

そして、レイド殿下の叔父にあたる人物だ。

(最悪のタイミングで、最悪の人物に見つかった……!)

彼は私の目の前まで歩み寄ると、私が大事に抱えていた『婚約破棄合意書』の入った封筒を、無遠慮に見下ろした。

「夜会を早退とは感心しないな。それに、その荷物はなんだ?」

「……ただの記念品ですわ」

「ほう。レイドから、莫大な慰謝料をふんだくった記念品か?」

「……っ、耳がお早いですこと」

私は作り笑いを浮かべ、じりじりと後退った。

この男は危険だ。私の「円満退職(逃亡)」を阻む、最大の障壁になりかねない。

「閣下こそ、会場にいらっしゃらなくて宜しいのですか? 殿下がまた何かやらかすかもしれませんよ」

「あいつの相手はお前がしていただろう。だから安心して、ここで待っていたんだ」

セリウス閣下は、逃げようとする私の動きを封じるように、馬車のドアに手をかけた。

「さて、テレナ嬢。単刀直入に言おう」

彼は、まるで獲物を追い詰めるような、冷たく美しい笑みを浮かべた。

「国外追放など、私が許すと思うか?」

その言葉に、私は今日一番の絶望を味わうことになった。
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