婚約破棄に歓喜で高飛びしたいのに、逃してくれません

恋の箱庭

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「国外追放など、私が許すと思うか?」

月明かりの下、宰相セリウス・アークライト閣下は、絶対零度の瞳でそう告げた。

その威圧感たるや、並の令嬢なら悲鳴を上げて卒倒しているレベルだ。

だが、私は並の令嬢ではない。

伊達に十年間、あのバカ王子……レイド殿下の尻拭いをしてきたわけではないのだ。

私は恐怖を腹の底に押し込め、あくまで冷静に、そして事務的に口を開いた。

「閣下。お言葉ですが、これは王族であるレイド殿下の『勅命』に準ずる命令です」

「……何?」

「公衆の面前で下された『国外追放』の宣言。これを無視して王都に居座れば、私は王家への不敬罪、ひいては反逆罪に問われます。違いますか?」

セリウス閣下の眉がピクリと動く。

彼は法と秩序の守護者だ。いかに彼が実力者であろうと、王族の決定という「形式」を無下にはできない。

私はその一瞬の隙を見逃さなかった。

「宰相閣下ともあろうお方が、私に『反逆者になれ』と強要されるのですか? それは法治国家の長として、いかがなものでしょう」

「……口の減らない女だ」

「お褒めにあずかり光栄です。では、これにて!」

私は電光石火の早業で馬車に飛び乗った。

「御者! 出して! 全速力で!」

「は、はいっ!?」

戸惑う御者を怒鳴りつけ、馬車が急発進する。

窓から後ろを振り返ると、セリウス閣下が苦虫を噛み潰したような顔でこちらを睨んでいるのが見えた。

だが、追ってはこない。論理武装で足止めしたのが功を奏したようだ。

「……勝った」

私は馬車のソファに深く沈み込み、大きく息を吐いた。

「危ないところだったわ……。あの方に捕まったら、骨の髄までこき使われるに決まっているもの」

セリウス閣下は優秀だ。優秀すぎて、自分と同じ処理能力を他人にも求めてくる。

あんなブラック上司の下で働くなんて、真っ平ごめんだ。

「さあ、急がないと。あの『氷の宰相』のことだもの、すぐに法的な抜け穴を見つけて追いかけてくるに違いないわ」

私は懐中時計を取り出し、時間を確認した。

現在時刻は二十一時。

夜明けまではあと八時間。

それまでに屋敷に戻り、荷物をまとめ、王都を脱出しなければならない。

まさに時間との勝負だ。

          ◇

「お、お嬢様!? お早いのですね!」

ベルベット公爵邸に到着するなり、出迎えた老執事が目を丸くした。

私は馬車から飛び降りるなり、早口で指示を飛ばす。

「セバス、緊急事態よ。レイド殿下から婚約破棄と国外追放を言い渡されたわ」

「は……?」

セバスがフリーズする。

無理もない。仕えている主人の娘が、夜会に行ったと思ったら「追放された」と言って帰ってきたのだから。

だが、私に彼を再起動させている時間はない。

「説明は後! お父様とお母様は?」

「は、はい。旦那様と奥様は、領地の視察で不在でございますが……」

「ラッキー! 神は私に味方したわ!」

私はガッツポーズをした。

両親がいたら、「王家に謝罪に行くぞ」だの「家門の恥だ」だのと面倒なことになりかねない。不在なら、事後承諾で全てを済ませられる。

「いいこと、セバス。今から一時間後にここを出るわ。馬車はそのまま待機させておいて。あと、旅に耐えられる馬を二頭、予備で用意して」

「い、一時間!? 国外追放の準備を、でございますか!?」

「十分すぎる時間よ。私の部屋には誰も入れないでね!」

私はドレスの裾を翻し、階段を駆け上がった。

自室の扉を勢いよく開け、鍵をかける。

そこは、広いだけの殺風景な部屋だ。

「さあ、『オペレーション・高飛び』の開始よ」

私はクローゼットを開け放ち、中にある大量のドレスを睨みつけた。

フリル、レース、リボン。王子の好みに合わせた、パステルカラーのふわふわしたドレスたち。

「ゴミ」

私は一番手前のドレスを掴み、床に放り投げた。

「これもゴミ。あれもゴミ。全部ゴミ!」

次々と高価なドレスを床に積み上げていく。

これらは全て『王太子婚約者』としての戦闘服だ。リゾート地での優雅な隠居生活には、嵩張るだけで何の役にも立たない。

「必要なのは……これよ」

私はクローゼットの奥底に隠されていた、地味な革のトランクを引きずり出した。

これは私が十二歳の時から準備していた『緊急避難セット』だ。

中身を確認する。

一、換金性の高い小粒の宝石類(ダイヤ、ルビー、サファイア)。
二、各国で使える金貨と手形。
三、動きやすい平民風の衣服。
四、護身用の短剣と、即効性の睡眠薬(暴漢用)。
五、携帯食料と水筒。

「完璧ね」

私はトランクを閉め、満足げに頷いた。

準備にかかった時間は、わずか三分。

残りの五十七分は、ティータイムに充ててもいいくらいだ。

コンコン、と控えめなノックの音がした。

「お嬢様……? 侍女のアンナでございます。お着替えのお手伝いを……」

「入らないで! 今、人生の断捨離中だから!」

「は、はあ……?」

扉の向こうでアンナが困惑している気配がする。

私は床に散らばるドレスの山を見下ろし、少しだけ考えた。

これらを置いていけば、両親が処分に困るだろうか。

いや、むしろ「王家に媚びを売るための道具」がなくなったのだから、せいぜい有効活用してもらえばいい。

「そうだわ」

私は机に向かい、サラサラと手紙を書いた。

『お父様、お母様へ。
 急なことですが、殿下より暇を出されましたので、予てよりの計画通り南国へ移住します。
 この部屋にあるドレスや装飾品は全て売却し、領地の赤字補填に充ててください。
 慰謝料の五万枚については、私の退職金として頂戴いたします。
 それでは、お元気で。探さないでください。
 追伸:レイド殿下は近いうちに失脚すると思いますので、今のうちに距離を置くことをお勧めします』

ペンを置き、封をする。

これで義理は果たした。

私は『緊急避難セット』のトランクを片手に持ち、もう片方の手には、先ほど殿下からふんだくった『慰謝料合意書』と『前払い金の手形』が入った鞄を持つ。

「さようなら、激務の日々。さようなら、猫を被っていた私」

鏡に映る自分に向かって、ニカッと笑いかける。

そこに映っていたのは、お淑やかな公爵令嬢ではなく、野心に満ちた一人の自由人だった。

「これからは、自分のために計算し、自分のために稼ぐのよ」

私は窓を開け、夜風を入れた。

最高の気分だ。

あとは、誰にも見つからずに裏口から出るだけ――。

ガチャリ。

不意に、部屋の鍵が開く音がした。

「え?」

私は振り返る。

私は確かに鍵をかけたはずだ。この部屋の鍵を持っているのは私と、あとはマスターキーを持っている執事のセバスだけ。

「セバス? 入らないでと言ったでしょ……」

言いかけた言葉が、喉の奥で凍りついた。

ゆっくりと開いた扉の向こうに立っていたのは、初老の執事ではない。

銀色の髪。

氷のような瞳。

そして、先ほど振り切ったはずの、絶対零度の微笑み。

「……随分と手際が良いな、テレナ嬢」

宰相セリウス・アークライトが、そこにいた。

手には、針金のような細い金属片が握られている。

「まさか、ピッキング……!?」

「城の宝物庫を開けるより簡単だったよ」

彼は優雅に部屋の中へ足を踏み入れ、床に散乱するドレスの山を、まるで汚物でも見るかのように避けて歩いてきた。

そして、私の目の前で立ち止まる。

「な、なぜここに……いえ、どうやって私より先に……?」

「近道を使った。それに、君の思考パターンなら、真っ先に実家に戻って逃走資金を回収すると予測できたからな」

セリウス閣下は、私が持っているトランクに視線を落とした。

「ほう。それが逃走用グッズか。用意周到だな」

「……お褒めいただき、どうも」

私はトランクを背中に隠し、ジリジリと窓際へ後退る。

「閣下、ここは私の私室です。不法侵入ですよ」

「公務だ。国家の重要人物が国外逃亡を図っているとの情報を得たのでな、確保に来た」

「誰が重要人物ですか! 私はただの、傷心の婚約破棄令嬢です!」

「傷心?」

セリウス閣下は鼻で笑った。

「その顔のどこが傷心だ。遠足前の子供のような顔をしておいて」

バレている。

完全に私の心中を見透かされている。

「……単刀直入にお聞きします。何しに来たんですか?」

私は観念して、問いかけた。

「連れ戻しに来た? それとも、王子を傷つけた罪で投獄ですか?」

「どちらでもない」

セリウス閣下は、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。

「取引だ、テレナ・フォン・ベルベット」

「取引……?」

「君のその類稀なる事務処理能力と、王子の失態をカバーし続けてきた危機管理能力。それを国のために使え」

彼は羊皮紙を私に突きつける。

そこには、王家の紋章が入った正式な雇用契約書の形式が取られていた。

「レイドの尻拭い役……いや、『王太子補佐官』として、私直属の部下になれ」

「はあ!?」

私は素っ頓狂な声を上げた。

よりによって、あのバカ王子の補佐?

しかも、この魔王のような宰相の直属?

「お断りします! 私は自由になりたいんです! 南の島で、昼まで寝て、美味しいフルーツを食べる生活がしたいんです!」

「給料は弾むぞ」

「お金なら慰謝料があります!」

「慰謝料の三倍だ」

「……っ!」

私の動きが止まる。

さ、三倍? 金貨十五万枚相当?

いや、落ち着けテレナ。金に目が眩んではいけない。自由はお金では買えないプライスレスなものだ。

「……じ、条件が良すぎます。何か裏があるんでしょう?」

「裏などない。単純に、君以外にあのバカ……いや、レイドの相手が務まる人間がいないだけだ」

セリウス閣下は、疲れたように溜息をついた。

その表情に、ほんの一瞬だけ人間味が見えた気がした。

だが、私は首を振る。

「残念ですが、私の心は決まっています。さようなら、閣下!」

私は窓枠に足をかけた。

ここは二階だ。下は芝生になっている。受け身を取れば怪我はない。

「待て!」

セリウス閣下が手を伸ばす。

その手が私に届くより早く、私は夜の闇へと身を躍らせた。

「きゃっ……!」

ドサッ!

着地成功。ドレスが汚れたが、どうせ捨てるつもりだった服だ。

「逃がすか!」

窓からセリウス閣下が身を乗り出す。

私は庭を全速力で駆け抜けた。

待たせてある馬車までは数十メートル。

走りながら、私は勝利を確信していた。

屋敷の地理は私のほうが詳しい。このまま裏門へ抜ければ、閣下でも追いつけないはず――。

そう思った瞬間だった。

ガシャン!

目の前で、裏門の鉄格子が、けたたましい音を立てて閉ざされた。

「……は?」

立ち止まる私の前に、影の中から数人の騎士たちが現れる。

彼らの鎧には、アークライト公爵家……つまり、セリウス閣下の私兵団の紋章が刻まれていた。

「なっ……包囲されている!?」

「言っただろう。君の行動は予測済みだと」

背後から、悠然とした足音が近づいてくる。

振り返ると、窓から飛び降りた様子もないのに、いつの間にかセリウス閣下がそこに立っていた。

「チェックメイトだ、テレナ嬢」

氷の宰相は、楽しそうに口角を上げた。

「さあ、馬車から降りたまえ。仕事の時間だ」
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