婚約破棄に歓喜で高飛びしたいのに、逃してくれません

恋の箱庭

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「チェックメイトだ、テレナ嬢」

月明かりの下、勝ち誇ったように微笑む宰相セリウス・アークライト。

その背後には、彼の手足となって動く精鋭部隊『影の騎士団』が、私の退路を完全に塞いでいた。

屋敷の裏庭は、物々しい黒鎧の集団によって完全に包囲されている。

私はトランクを握りしめたまま、ギリリと奥歯を噛み締めた。

「……職権乱用ではありませんか、宰相閣下。無実の市民を私兵で囲むなんて」

「人聞きが悪いな。これは『重要参考人の保護』だ」

「保護? 監禁の間違いでしょう!」

「言葉の定義については、後でじっくり議論しよう。今は時間がない」

セリウス閣下は片手を軽く振った。

すると、騎士の一人が私の手からトランクを奪い取ろうと近づいてくる。

「あっ、ちょっと! 私の逃走資金! 触らないで!」

「丁重にお運びしろ。彼女の商売道具だ」

「はっ!」

騎士は私の抵抗など赤子の手を捻るようにあしらい、トランクをひょいと持ち上げた。

ついでに、もう一人の騎士が私の両脇を抱え上げようとする。

「きゃっ!? 無礼者! 離しなさい! 私は歩けます!」

「暴れると危ない。運んでしまえ」

「荷物扱いですか!? これだから脳筋騎士は……!」

ジタバタと足を動かすが、鍛え上げられた騎士の腕はビクともしない。私はそのまま、セリウス閣下が乗ってきた漆黒の馬車へと連行された。

「放り込め」

「はいっ」

ドサッ。

私は馬車の座席に投げ出された。

ふかふかのクッションが衝撃を吸収してくれたおかげで痛みはないが、プライドはズタズタだ。

すぐにセリウス閣下が乗り込み、扉が重々しい音を立ててロックされる。

カチャン、という施錠音が、まるで私の自由への弔鐘のように響いた。

「出してください」

閣下が短く命じると、馬車は滑るように走り出した。

「……どこへ連れて行く気ですか」

私は乱れたドレスの裾を直しながら、正面に座る男を睨みつけた。

狭い密室。

向かいには、国一番の実力者にして、私の天敵。

彼は優雅に足を組み、まるで夜会の続きでも楽しんでいるかのようにリラックスしている。

「王城だ。私の執務室へ案内する」

「嫌です。降ろしてください。今すぐ」

「断る」

「労働基準法違反で訴えますよ!」

「我が国の法では、国家存亡の危機における緊急徴用は認められている」

「国家存亡の危機?」

私は鼻で笑った。

「大袈裟ですね。ただの婚約破棄でしょう? 痴話喧嘩で国は滅びません」

「滅びるさ」

セリウス閣下の声が、急に低くなった。

その瞳から笑みが消え、底知れぬ冷たさが宿る。

「テレナ。君は、レイドが次期国王としてやっていけると思うか?」

「……無理ですね」

即答だった。

私はお世辞や社交辞令が大嫌いだ。

「あの殿下は、人の話を聞かない、数字が読めない、感情で動く、の三拍子が揃った暗君の器です。彼が王になれば、五年……いいえ、三年で国庫は破綻するでしょう」

「正解だ。私も同意見だよ」

閣下は深く頷いた。

「だが、現国王陛下は病弱で、余命幾ばくもない。王弟である私の父も高齢だ。消去法で、レイドが王位を継ぐしかないのが現状だ」

「それはご愁傷様です。でも、私には関係ありません。私は国外へ逃げますので」

「関係あるさ」

セリウス閣下は、懐から一枚の硬貨を取り出し、親指で弾いた。

キンッ、と澄んだ音を立てて回転する金貨。

それを空中でパシリと掴み取り、私の目の前に突きつける。

「君は、レイドから慰謝料として金貨五万枚分の手形を受け取ったな?」

「ええ。それが何か?」

「もしレイドが即位し、その無能さで国家経済を破綻させたら……この国の通貨価値はどうなると思う?」

「……!」

心臓がドクリと跳ねた。

私は商人ではないが、カネの計算にはうるさい。

「……ハイパーインフレ……」

「その通りだ。国への信用が失墜すれば、通貨はただの紙切れ、あるいは鉄屑同然になる。君が必死にふんだくった五万枚も、パン一つ買えないゴミになるわけだ」

セリウス閣下は、悪魔のような笑みを深めた。

「君が逃げようとしている隣国のアズライトも、我が国との貿易に依存している。我が国が倒れれば、あちらも共倒れだ。君の安息の地など、どこにもない」

「っ……」

論破された。

完璧なまでに、ぐうの音も出ない正論で。

私がどれだけ大金を持って逃げようと、その「お金」の価値を保証する国家が消滅すれば意味がない。

私の老後計画が、根底から崩れ去る音がした。

「ずるい……」

私は呻いた。

「そんなの、脅迫じゃないですか」

「事実の提示だ。君のような合理的思考の持ち主なら、理解できるはずだ」

セリウス閣下は、私の顔を覗き込む。

「テレナ。君の資産を守りたければ、国を守れ。そのためには、レイドを裏から操縦できる『頭脳』が必要なんだ」

「……それが、私だと?」

「君以外に誰がいる? 十年間、あのバカの奇行を先回りして防ぎ、外交問題を未然に解決し、予算を黒字に保ってきたのは誰だ?」

「私ですけど……」

「そうだ。君は優秀だ。私が認めるほどに」

不意に、真っ直ぐな視線が私を貫いた。

「氷の宰相」と恐れられる男からの、混じりっけなしの評価。

悔しいけれど、少しだけ胸が熱くなる。

レイド殿下には一度も言われたことのない言葉だ。あの男は、私がやって当たり前だと思っていたから。

「……はぁ」

私は大きな溜息をつき、背もたれに体を預けた。

観念するしかない。

私の愛するお金と、平穏な老後のために。

「分かりました。話を聞きましょう」

「賢明な判断だ」

「ただし!」

私は人差し指を立てて、ビシッと閣下に突きつけた。

ここからはビジネスの時間だ。安売りするつもりはない。

「条件があります。タダ働きはしませんよ?」

「望むところだ。希望を言え」

「一つ。給与は宰相補佐官クラスの三倍。加えて、危険手当と精神的苦痛手当を別途支給すること」

「承認する」

セリウス閣下は即答した。

「早っ……。二つ。週休二日制の導入。および、有給休暇の完全消化」

「……善処しよう。だが、緊急時は例外だ」

「なら、休日出勤は割増賃金五〇〇パーセントで」

「強欲だな。……いいだろう、承認する」

「三つ。私の身分は『影の補佐官』とし、表舞台には出しません。社交、夜会、その他面倒な貴族の付き合いは全て免除してください。私はあくまで事務方です」

「それは困るな。夜会での牽制役も期待しているのだが」

「なら辞めます。馬車を止めてください」

「……分かった。基本は裏方に徹しろ。ただし、私が特に必要と判断した場合のみ、同行を命じる」

「む……まあ、妥協点ですね」

私は頭の中で素早く計算する。

提示された給与額は破格だ。一年働けば、逃亡資金がさらに倍になる。

国が安定するまで数年働き、レイド殿下が少しはマシになるか、あるいは廃嫡されて優秀な人間が王位に就くのを見届けてから、改めて高飛びすればいい。

「契約成立、ということでよろしいですね?」

「ああ。歓迎するよ、テレナ」

セリウス閣下は、初めて柔らかな笑みを浮かべ、右手を差し出した。

私はその大きな手を握り返す。

冷たいと思っていたその手は、意外にも温かかった。

これが、私と「氷の宰相」との共犯関係の始まりだった。

          ◇

「着いたぞ」

馬車が停止し、扉が開く。

そこは王城の裏口、宰相専用の通用門だった。

「さあ、早速仕事だ。積まれている案件が山ほどある」

「え、今からですか? もう深夜ですよ?」

「国政に昼夜はない」

ブラックだ。

やっぱりブラック上司だった。

私は死んだ魚のような目で、セリウス閣下の後に続いて城の廊下を歩く。

深夜の王城は静まり返っているが、宰相塔の方だけ煌々と明かりがついているのが不吉だ。

「ここが私の執務室だ」

閣下が重厚な扉を開け放つ。

私は中を覗き込み――そして、絶句した。

「……なんですか、これ」

そこは、部屋ではなかった。

紙の魔窟だった。

床が見えないほど散乱した書類。

天井近くまで積み上げられた未決裁の書類タワー。

机の上は雪崩が起きた後のようになっており、どこに人が座るのかも分からない。

部屋の隅では、数人の文官が屍のように床に突っ伏して寝ている。

「地獄……?」

「レイドが昨日、重要書類の入った棚を倒して、中身をぶち撒けてな。さらに分類不能にして逃走した結果がこれだ」

セリウス閣下は、無表情で惨状を解説した。

「さらに、隣国との条約期限が明日に迫っている。予算編成会議も明日だ。だが資料が見当たらない」

「……」

「助けてくれ、テレナ。私一人では、朝までに終わらない」

あの傲岸不遜な宰相閣下が、初めて弱音を吐いた。

その目には、微かにクマができている。

私はこめかみを押さえた。

これを片付ける? 私が?

(……追加料金、請求しなきゃやってられないわね)

私は袖をまくり上げ、深く息を吸い込んだ。

「……ミナ嬢への嫌がらせと言われて破り捨てた書類、あれも実は私が整理整頓していたものだったんですよ」

「知っている」

「なら、話は早い」

私は書類の海へと足を踏み入れた。

私の目は、瞬時に情報の選別を開始する。

「閣下、右の山は外交、左は内政、中央はゴミです! 私が仕分けますから、閣下はひたすら決裁印を押してください!」

「了解した」

「死ぬ気でやりますよ! 終わらなかったら、私の睡眠時間が減るんですから!」

「頼もしいな。……さあ、戦闘開始だ」

こうして。

私の優雅な隠居生活初日は、徹夜の残業祭りとして幕を開けたのだった。
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