10 / 30
10
「……十九時ちょうど。一秒の狂いもありませんわね。合格ですわ、カイル様」
王都の外れ、知る人ぞ知る高級レストラン『ラ・ポテンシャル』。
リーナは席に着くなり、懐中時計をパチンと閉じた。
対面に座るカイルは、少しだけ呆れたように、しかし口角を上げて彼女を見つめている。
「時間を守るのは信頼の基本だからね。……さて、リーナ。今夜は仕事の話は抜きだ。まずはこの、最高級の赤ワインを楽しもうじゃないか」
「……待ってください。この銘柄、昨年の不作の影響で市場価格が二割高騰しているはずですわ。レストランの仕入れ価格にサービス料を上乗せすると……。カイル様、一杯飲むごとに銀貨三枚を喉に流し込んでいるのと同じですわよ? 栄養価に対するコストが著しく悪いですわ」
「……君は、最高の雰囲気の中で『コストパフォーマンス』を語るのかい?」
「当然です。無駄に高いアルコールは判断力を鈍らせ、明日の労働生産性を低下させます。……ですが、今日はカイル様の全額奢りという契約でしたわね。ならば、この支出は私の資産には影響しません。……いただきますわ」
リーナは優雅な動作でグラスを回し、一口だけ含んだ。
その仕草は、どんな高貴な令嬢よりも美しく、完璧だった。
カイルは思わず見惚れそうになるが、彼女が次に口にしたのは甘い言葉ではなかった。
「……ふむ。タンニンの強さから見て、保存状態は良好。この店、地下倉庫の湿度管理にかなり投資していますわね。固定資産税の割当を確認したくなりますわ」
「……頼むから、今は税金の話はやめてくれないか。せっかく二人きりなんだ」
カイルは苦笑しながら、身を乗り出した。
キャンドルの炎が彼の整った顔立ちを照らし、大人の色気を醸し出している。
「リーナ。君は、自分の才能がどれほど恐ろしいものか自覚しているかい? 我が国の重鎮たちが、君のソロバン一つに怯えている。……そして、僕も。君という未知の資産をどう扱えばいいか、毎日頭を抱えているんだ」
「扱い……? 簡単ですわ。私を『高利回りの金融商品』だと思えばよろしいのです。適切な環境と予算を与えれば、私は必ずそれ以上の利益(リターン)をカイル様にもたらしますわ」
「僕が求めているのは、数字上の利益だけじゃないと言ったら?」
カイルの声が少しだけ低くなる。
彼はそっとリーナの手に、自分の手を重ねようとした。
だが、その手が触れる直前、リーナは電光石火の速さでメニュー表を盾にした。
「……カイル様。今、私のパーソナルスペースを侵食しようとされましたわね? 心理的距離の短縮による交渉の優位性確保……いわゆる『ハロー効果』を狙った接触(コンタクト)かしら。残念ですが、その手法に私の脳は屈しませんわ」
「……ははっ。降参だよ。本当に隙がないな」
「隙を作る時間は、損失と同義です。……それより、カイル様。一つお聞きしたいことがありますの」
リーナはメニューを置き、真剣な瞳で彼を見つめた。
「カイル様は、私に対して『好意』という名の投資を行おうとしておいでですか? 恋愛感情というものは、非常に変動率(ボラティリティ)が高く、維持費も馬鹿になりません。プレゼント、イベントの催行、感情のフォロー……。これらを全て計上した場合、最終的な『愛の純利益』は赤字になる可能性が極めて高いですわよ?」
「愛を純利益で計算する令嬢なんて、世界中で君一人だろうね。……だが、リーナ。リスクが高いからこそ、リターンが大きいとは考えないかい? もし、僕と君が完璧なパートナーシップを結べたなら……。この国どころか、大陸全体の経済を支配できる。これ以上のハイリターンな投資がどこにある?」
カイルの言葉に、リーナの眉がピクリと動いた。
彼は彼女の弱点……「巨大な利益への知的好奇心」を的確に突いてきたのだ。
「……大陸全体の、経済支配。……それは、興味深い提案ですわね」
「だろう? だから、これは『恋の経費』じゃない。二人で未来を買い占めるための『共同出資』だ。……そう思えば、この食事代も安く感じないかい?」
リーナはしばらく沈黙し、脳内で凄まじい速度のシミュレーションを行った。
カイル・ド・ヴァラン。
若くして商務卿に登り詰め、自分と同じ視点で世界を見ている男。
彼との「共同出資」は、確かにアッシェン公爵家を継ぐよりも、王子の妃になるよりも、遥かに高い収益性が見込める。
「……分かりましたわ。カイル様、貴方を『暫定的な特別提携候補者』として認定します。ただし、正式な契約の前に、デューデリジェンス(資産査定)を行わせていただきますわよ。貴方の人間性、健康状態、そして何より、私の自由をどれだけ損なわないか。……厳しくチェックさせていただきます」
「……厳しいな。だが、受けて立とう。君に査定されるなら本望だ」
カイルは満足げにワインを飲み干した。
結局、雰囲気もロマンスも数字に飲み込まれてしまったが、彼はかつてないほど充実した時間を過ごしていた。
リーナはリーナで、自分の胸の奥がわずかに熱くなっていることに気づいていた。
それを彼女は「ワインによる血流量の増加と、想定外の提案に対する代謝の向上」と分析したが、その頬が微かに赤い理由までは、計算式で導き出せていなかった。
「……さあ、食事を続けましょう。デザートのカロリーが価格に見合っているか、厳格に審査しなくてはなりませんから」
「……ああ、手加減なしで頼むよ。僕のパートナー」
二人の夜は、甘い言葉ではなく、鋭い分析と共鳴の中で更けていく。
リーナの心に、初めて「計算不能な変数」が入り込もうとしていた。
王都の外れ、知る人ぞ知る高級レストラン『ラ・ポテンシャル』。
リーナは席に着くなり、懐中時計をパチンと閉じた。
対面に座るカイルは、少しだけ呆れたように、しかし口角を上げて彼女を見つめている。
「時間を守るのは信頼の基本だからね。……さて、リーナ。今夜は仕事の話は抜きだ。まずはこの、最高級の赤ワインを楽しもうじゃないか」
「……待ってください。この銘柄、昨年の不作の影響で市場価格が二割高騰しているはずですわ。レストランの仕入れ価格にサービス料を上乗せすると……。カイル様、一杯飲むごとに銀貨三枚を喉に流し込んでいるのと同じですわよ? 栄養価に対するコストが著しく悪いですわ」
「……君は、最高の雰囲気の中で『コストパフォーマンス』を語るのかい?」
「当然です。無駄に高いアルコールは判断力を鈍らせ、明日の労働生産性を低下させます。……ですが、今日はカイル様の全額奢りという契約でしたわね。ならば、この支出は私の資産には影響しません。……いただきますわ」
リーナは優雅な動作でグラスを回し、一口だけ含んだ。
その仕草は、どんな高貴な令嬢よりも美しく、完璧だった。
カイルは思わず見惚れそうになるが、彼女が次に口にしたのは甘い言葉ではなかった。
「……ふむ。タンニンの強さから見て、保存状態は良好。この店、地下倉庫の湿度管理にかなり投資していますわね。固定資産税の割当を確認したくなりますわ」
「……頼むから、今は税金の話はやめてくれないか。せっかく二人きりなんだ」
カイルは苦笑しながら、身を乗り出した。
キャンドルの炎が彼の整った顔立ちを照らし、大人の色気を醸し出している。
「リーナ。君は、自分の才能がどれほど恐ろしいものか自覚しているかい? 我が国の重鎮たちが、君のソロバン一つに怯えている。……そして、僕も。君という未知の資産をどう扱えばいいか、毎日頭を抱えているんだ」
「扱い……? 簡単ですわ。私を『高利回りの金融商品』だと思えばよろしいのです。適切な環境と予算を与えれば、私は必ずそれ以上の利益(リターン)をカイル様にもたらしますわ」
「僕が求めているのは、数字上の利益だけじゃないと言ったら?」
カイルの声が少しだけ低くなる。
彼はそっとリーナの手に、自分の手を重ねようとした。
だが、その手が触れる直前、リーナは電光石火の速さでメニュー表を盾にした。
「……カイル様。今、私のパーソナルスペースを侵食しようとされましたわね? 心理的距離の短縮による交渉の優位性確保……いわゆる『ハロー効果』を狙った接触(コンタクト)かしら。残念ですが、その手法に私の脳は屈しませんわ」
「……ははっ。降参だよ。本当に隙がないな」
「隙を作る時間は、損失と同義です。……それより、カイル様。一つお聞きしたいことがありますの」
リーナはメニューを置き、真剣な瞳で彼を見つめた。
「カイル様は、私に対して『好意』という名の投資を行おうとしておいでですか? 恋愛感情というものは、非常に変動率(ボラティリティ)が高く、維持費も馬鹿になりません。プレゼント、イベントの催行、感情のフォロー……。これらを全て計上した場合、最終的な『愛の純利益』は赤字になる可能性が極めて高いですわよ?」
「愛を純利益で計算する令嬢なんて、世界中で君一人だろうね。……だが、リーナ。リスクが高いからこそ、リターンが大きいとは考えないかい? もし、僕と君が完璧なパートナーシップを結べたなら……。この国どころか、大陸全体の経済を支配できる。これ以上のハイリターンな投資がどこにある?」
カイルの言葉に、リーナの眉がピクリと動いた。
彼は彼女の弱点……「巨大な利益への知的好奇心」を的確に突いてきたのだ。
「……大陸全体の、経済支配。……それは、興味深い提案ですわね」
「だろう? だから、これは『恋の経費』じゃない。二人で未来を買い占めるための『共同出資』だ。……そう思えば、この食事代も安く感じないかい?」
リーナはしばらく沈黙し、脳内で凄まじい速度のシミュレーションを行った。
カイル・ド・ヴァラン。
若くして商務卿に登り詰め、自分と同じ視点で世界を見ている男。
彼との「共同出資」は、確かにアッシェン公爵家を継ぐよりも、王子の妃になるよりも、遥かに高い収益性が見込める。
「……分かりましたわ。カイル様、貴方を『暫定的な特別提携候補者』として認定します。ただし、正式な契約の前に、デューデリジェンス(資産査定)を行わせていただきますわよ。貴方の人間性、健康状態、そして何より、私の自由をどれだけ損なわないか。……厳しくチェックさせていただきます」
「……厳しいな。だが、受けて立とう。君に査定されるなら本望だ」
カイルは満足げにワインを飲み干した。
結局、雰囲気もロマンスも数字に飲み込まれてしまったが、彼はかつてないほど充実した時間を過ごしていた。
リーナはリーナで、自分の胸の奥がわずかに熱くなっていることに気づいていた。
それを彼女は「ワインによる血流量の増加と、想定外の提案に対する代謝の向上」と分析したが、その頬が微かに赤い理由までは、計算式で導き出せていなかった。
「……さあ、食事を続けましょう。デザートのカロリーが価格に見合っているか、厳格に審査しなくてはなりませんから」
「……ああ、手加減なしで頼むよ。僕のパートナー」
二人の夜は、甘い言葉ではなく、鋭い分析と共鳴の中で更けていく。
リーナの心に、初めて「計算不能な変数」が入り込もうとしていた。
あなたにおすすめの小説
悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています
かきんとう
恋愛
王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。
磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。
その中心に、私は立っていた。
――今日、この瞬間のために。
「エレノア・フォン・リーベルト嬢」
高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。
誘拐された公爵令嬢ですが、なぜか皇帝に溺愛されています』
富士山麓
恋愛
舞踏会で王太子から婚約破棄を告げられそうになった瞬間――
目の前に現れたのは、馬に乗った仮面の皇帝だった。
そのまま攫われた公爵令嬢ビアンキーナは、誘拐されたはずなのに超VIP待遇。
一方、助けようともしなかった王太子は「無能」と嘲笑され、静かに失墜していく。
選ばれる側から、選ぶ側へ。
これは、誰も断罪せず、すべてを終わらせた令嬢の物語。
聖女様と間違って召喚された腐女子ですが、申し訳ないので仕事します!
碧桜
恋愛
私は花園美月。20歳。派遣期間が終わり無職となった日、馴染の古書店で顔面偏差値高スペックなイケメンに出会う。さらに、そこで美少女が穴に吸い込まれそうになっていたのを助けようとして、私は古書店のイケメンと共に穴に落ちてしまい、異世界へ―。実は、聖女様として召喚されようとしてた美少女の代わりに、地味でオタクな私が間違って来てしまった!
落ちたその先の世界で出会ったのは、私の推しキャラと見た目だけそっくりな王(仮)や美貌の側近、そして古書店から一緒に穴に落ちたイケメンの彼は、騎士様だった。3人ともすごい美形なのに、みな癖強すぎ難ありなイケメンばかり。
オタクで人見知りしてしまう私だけど、元の世界へ戻れるまで2週間、タダでお世話になるのは申し訳ないから、お城でメイドさんをすることにした。平和にお給料分の仕事をして、異世界観光して、2週間後自分の家へ帰るつもりだったのに、ドラゴンや悪い魔法使いとか出てきて、異能を使うイケメンの彼らとともに戦うはめに。聖女様の召喚の邪魔をしてしまったので、美少女ではありませんが、地味で腐女子ですが出来る限り、精一杯頑張ります。
ついでに無愛想で苦手と思っていた彼は、なかなかいい奴だったみたい。これは、恋など始まってしまう予感でしょうか!?
*カクヨムにて先に連載しているものを加筆・修正をおこなって掲載しております
本の通りに悪役をこなしてみようと思います
Blue
恋愛
ある朝。目覚めるとサイドテーブルの上に見知らぬ本が置かれていた。
本の通りに自分自身を演じなければ死ぬ、ですって?
こんな怪しげな本、全く信用ならないけれど、やってやろうじゃないの。
悪役上等。
なのに、何だか様子がおかしいような?
追放された宮廷花師が辺境の荒野に花を咲かせたら、王都の庭園だけが枯れ続けているようです
歩人
ファンタジー
「花を飾るだけの令嬢は不要だ」——王城の庭園を十年守った伯爵令嬢フローラは追放された。
翌月、王城の庭園が一夜にして枯れ果てる。さらに隣国への外交花束を用意できず国際問題に——
フローラの花束に込められた花言葉が、実は外交メッセージそのものだったのだ。
一方、辺境の荒野に降り立ったフローラが地面に触れると花が芽吹き始める。
荒野を花畑に変えていくスローライフの中で、花の感情が色で見える加護が目覚めて——。
世継ぎは他の妃が産めばいい——子を産めない私ですが、帝の寵愛を独占して皇后になりました
由香
恋愛
後宮に入る女の価値は、ただ一つ。
——皇子を産めるかどうか。
けれど私は、産めない。
ならば——
「世継ぎは他の妃に任せます。私は、陛下に愛される女になります」
そう言い放ったその日から、すべてが狂い始めた。
毒を盛られても、捨てられず。
皇子が生まれても、選ばれたのは私だった。
「お前は、ここにいろ」
これは、子を産めない女が
ただ一つの武器“寵愛”だけで頂点に立つ物語。
そして——
その寵愛は、やがて狂気に変わる。
恋詠花
舘野寧依
恋愛
アイシャは大国トゥルティエールの王妹で可憐な姫君。だが兄王にただならぬ憎しみを向けられて、王宮で非常に肩身の狭い思いをしていた。
そんな折、兄王から小国ハーメイの王に嫁げと命じられたアイシャはおとなしくそれに従う。しかし、そんな彼女を待っていたのは、手つかずのお飾りの王妃という屈辱的な仕打ちだった。それは彼女の出自にも関係していて……?
──これは後の世で吟遊詩人に詠われる二人の王と一人の姫君の恋物語。