婚約破棄、できないなんて聞いてないんですけど?

恋の箱庭

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豪華な刺繍が施された天蓋付きのベッド。


帝国の太陽と謳われるレオンハルト殿下と結婚して、はや数年。

私は今、最高に「悪逆非道」な朝を過ごしておりました。


「……ふふふ。見ていなさい、レオンハルト様。今日はあなたを、絶望のどん底に叩き落として差し上げますわ!」


私は隣で安らかに眠る夫の顔を、意地悪く見下ろした。


本日の嫌がらせ、その一。

「王子の朝食を、私が勝手に食べてしまう作戦」!


いつも私のために用意される最高級のオムレツ。それを、彼が起きる前に私が全部平らげて、彼は空腹のまま公務に向かうのです。

これぞ、夫を蔑ろにする稀代の悪女の所業!


私は寝室に運び込まれていた銀のトレイに飛びついた。


「パクッ……もぐもぐ……ふふ、美味しいですわ。殿下、残念でしたわね! あなたの分はありませんわよ! オーッホッホッホ!」


私が空になった皿を掲げて勝ち誇っていると、背後から温かな腕が回された。


「おはよう、マリア。朝から食欲旺盛だね。僕のために用意したオムレツを、そんなに美味しそうに食べてくれるなんて……。ああ、朝からなんて幸せなんだ」


耳元で囁かれる、甘い、甘すぎる声。


「……へ? 殿下、起きていらしたの? それに、これ、あなたの分ですわよ!? 私はあなたの食事を奪ったのですわよ!」


レオンハルト様は私の肩に顎を乗せ、蕩けるような笑顔で私を見つめた。


「知っているよ。君が僕の健康を案じて、毒見をしてくれたんだろう? それとも、僕に『もっと美味しいものを食べさせてあげたい』という無言の催促かな? マリア、君の食いしん坊なところ、本当に愛しているよ」


「違います! 単なる強奪ですわ!」


「ははは。じゃあ、お返しに僕も君の『愛』を奪わせてもらおうかな」


そう言って、彼は私の額に深いキスを落とした。

……負けました。結婚して数年経つのに、この人のポジティブ変換スキルは衰えるどころか、神の領域に達しています。


私たちは着替えを済ませ、執務室へと向かった。

私は、次なる作戦「書類をバラバラにする嫌がらせ」を実行しようと、殿下のデスクに忍び寄った。


「あら、殿下。この山積みの書類、邪魔ですわね! こうして差し上げますわ!」


私はわざとらしく腕を振り回し、積み上がっていた公文書を床にぶち撒けた。


「どうです!? 整理整頓が趣味のあなたにとって、これは耐え難い苦痛でしょう!? さあ、私を叱ってくださいまし!」


私は腰に手を当てて、ふんぞり返った。

そこへ、廊下から胃薬の瓶を振る音と共に、ケイン様が入ってきた。


「……おや、マリア様。また派手にやりましたね」


「ケイン様! 見てください、私は殿下の仕事を盛大に邪魔いたしましたのよ!」


「ケイン! 見てくれ、マリアがまた奇跡を起こしたぞ!」


レオンハルト様が、床に散らばった書類の一枚を興奮気味に拾い上げた。


「……は?」


「この、マリアが弾き飛ばした拍子に偶然重なった二枚の書類……。見てごらん、隣国の通商条約と、我が国の農地改革案が重なって、新しい物流ルートの形になっている! これだ! これこそが、帝国が抱えていた輸送問題を解決する唯一の正解だったんだ!」


「…………え?」


「マリア、君は……君は僕が三日三晩悩んでいた問題を、一瞬の『ひらめき』で解決してくれたんだね! なんという知略だ! やはり君は、帝国の知恵袋だ!」


「違います! 私はただ、書類を散らかしただけの無能ですわ!!」


「謙遜しなくていい。ケイン、今すぐこのルートで予算を組め! タイトルは『マリアの福音(ふくいん)ルート』だ!」


「……承知いたしました。マリア様、もう諦めてください。あなたの『無能』は、この主君の前ではすべて『神の啓示』に変換されます。……まあ、おかげで私の仕事が一つ片付きましたが」


ケイン様は乾いた笑いを浮かべ、書類を回収して去っていった。


私は、執務室の窓際で、崩れ落ちるように膝をついた。


「(……どうして。どうして、何をやっても『最高の結果』になってしまうの……?)」


私の隣に、レオンハルト様が優しく跪いた。

彼は私の手をとり、その甲に誓いのキスをする。


「マリア。君は今日も、僕を驚かせ、助け、そして愛してくれた。……僕が君を捨てて、自由にするなんて、そんな残酷なこと、死んでもできないよ」


「……殿下。私は、あなたに嫌われたいだけなのですわ。それが、無能な私にできる、唯一の恩返し……」


「恩返しなら、もう十分もらっている。君が僕のそばで、一生懸命に『悪女』を演じようと空回りしている、その姿そのものが……僕にとっては、どんな宝石よりも輝いて見えるんだ」


レオンハルト様の瞳は、出会った頃と変わらない、一点の曇りもない誠実さに満ちていた。


「マリア、これからもずっと、僕を困らせておくれ。君が僕を困らせるたびに、僕は君をさらに深く、狂おしいほどに愛すと誓うよ」


「……それ、一生終わらない無限ループではありませんこと?」


「ああ。永遠に続く、僕たちの幸せの形だ」


私は、夫の広くて温かな胸の中に閉じ込められた。


悪役令嬢になろうとして、聖女と呼ばれ。

無能を証明しようとして、賢妃と崇められ。

婚約破棄を狙って、世界一の愛を手に入れてしまった。


「(……もう、いいですわ。私は一生、この誠実すぎる王子の『愛の監獄』で、幸せな悪役を演じ続けて差し上げますわ!)」


私は、夫の首に腕を回し、精一杯の「悪女らしい不敵な笑み」を浮かべて、彼に口づけを返した。


帝国の歴史には、後にこう記されることになる。


『稀代の賢妃マリア。彼女は生涯、自分を「無能」と称して慎ましく暮らし、その奔放な行動のすべてが帝国を救う奇跡となった。そして、彼女を盲目的に愛したレオンハルト皇帝との仲睦まじいエピソードは、千年の後まで語り継がれる愛の神話となったのである』


……もちろん、その「奔放な行動」の正体が、すべて「婚約破棄のための嫌がらせ」だったという真実を知る者は、今も昔も、この夫婦と一人の胃痛持ちの側近だけである。
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