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数年後。グランディエ公爵邸、メインオフィス(旧・執務室)。
かつて埃と赤字にまみれていたその部屋は、今や大陸一の巨大コングロマリット『グランディエ・ホールディングス』の中枢として、洗練された空間に生まれ変わっていた。
「……よし。隣国との関税撤廃交渉、妥結しました」
イロハは、山のような書類の最後の一枚にサインをし、パタンとファイルを閉じた。
彼女の指には、大粒のダイヤモンド(かつてシルヴィスが贈ったもの)と、シンプルな結婚指輪が輝いている。
「お疲れ様、イロハ。相変わらず仕事が早いな」
背後から、シルヴィスが温かい紅茶を差し出した。
彼は数年前と変わらぬ美貌を保ちつつ、その表情はずっと穏やかで、余裕に満ちたものになっていた。
「ありがとうございます、あなた。……ですが、これは私の仕事ではありません。本来なら国王陛下(カイル君の弟)がやるべき案件です」
「仕方あるまい。陛下はまだ12歳だ。我々が『経営指導』をしてやらねば国が傾く」
「指導料はしっかり請求していますけどね」
イロハは紅茶を一口飲み、窓の外を見下ろした。
そこには、美しく整備された庭園と、その向こうに広がる活気に満ちた領地が見える。
「見てください。あの物流センターの稼働率、先月より5%向上しています。ゴルド商会(現・グランディエ物流)の連中、いい働きです」
「ああ。元スパイたちも、今や優秀な『市場調査員』として世界中を飛び回っているしな」
「適材適所です。無駄な人間などいない。いるのは『使い所を間違えられた人間』だけです」
イロハは満足げに微笑んだ。
この数年で、彼女は公爵家の借金を完済したどころか、国の経済を裏から牛耳る『影の女帝』と呼ばれるようになっていた。
公爵領は独立こそしなかったが、経済特区として独自の発展を遂げ、王都以上の繁栄を誇っている。
「そう言えば、カイルたちから手紙が来ていたぞ」
シルヴィスが封筒を渡す。
「あら、『パン屋・王冠』の30号店出店のお知らせですか?」
「いや、『マリア・ウォーカー』の新作発表会の招待状だそうだ」
封筒の中には、幸せそうなカイルとマリアの写真が入っていた。
カイルは少しふっくらとして貫禄がつき、マリアは職人らしい凛とした顔つきになっている。
『イロハ様! 兄上! 今度の新作ブーツは、なんと「空を飛べる靴(低空飛行限定)」です! 転ぶ前に浮くので絶対に安全です! カイル様が実験台になって少し屋根に激突しましたが、元気です!』
「……相変わらずですね」
イロハは苦笑した。
「空を飛ぶ靴……。安全性(リスク)の検証が必要ですが、軍事転用できれば高値で売れそうです」
「お前はすぐに商売に結びつけるな」
「当然です。彼らは重要なビジネスパートナーですから」
イロハは写真を大切に引き出しにしまった。
その引き出しの中には、あの『魔導演算機』も鎮座している。今でも現役バリバリの愛機だ。
「さて、イロハ。仕事は終わりか?」
「ええ。本日の予定(タスク)はすべて消化しました」
「なら、私の時間だ」
シルヴィスはイロハの椅子をくるりと回し、自分の方へ向けた。
そして、膝をついて彼女の手を取る。
「結婚記念日のディナーを予約してある。……今夜は、数字の話は抜きだぞ?」
「分かっています。プライベートの時間(オフタイム)の充実は、翌日の生産性を高めますから」
「素直に『楽しみだ』と言えんのか」
「……楽しみですよ、とても」
イロハは少し頬を染めて、シルヴィスの髪に触れた。
「だって、あなたが選んだ店なら、コストパフォーマンス(味と雰囲気)は最高でしょうから」
「くくっ、そこか」
シルヴィスは立ち上がり、イロハを優しく抱き寄せた。
「イロハ。……幸せか?」
唐突な問いに、イロハは目を瞬かせた。
そして、いつものように冷静に、しかし万感の思いを込めて答えた。
「ええ。計算してみました」
「ほう? 結果は?」
「私の人生における『幸福度指数』は、過去数年で右肩上がりの上昇トレンドを描いています。特にあなたと結婚してからは、ストップ高(値幅制限上限)が続いていますね」
イロハはシルヴィスの胸に顔を埋めた。
「資産も増えましたが、それ以上に……あなたという『最強のパートナー』を得た利益は計り知れません。私の人生、完全な黒字(大勝利)です」
「そうか。……私もだ」
シルヴィスは彼女の背中を強く抱きしめた。
「お前がいるだけで、私の世界は輝いている。……愛しているぞ、イロハ」
「はいはい。私も愛していますよ」
イロハは顔を上げて、ニッコリと微笑んだ。
「貴方の資産価値的な意味でも、経営手腕的な意味でも……そして、私の夫としての魅力的な意味でも、ね」
「最後のが聞ければ十分だ」
二人は夕日が差し込むオフィスで、静かに唇を重ねた。
その背後の壁には、グランディエ公爵家の『売上推移グラフ』が貼られており、その赤い線は天井を突き破らんばかりに上昇していた。
悪役令嬢イロハの華麗なる請求書。
その支払いは完了し、彼女の手元には『愛』と『富』という、莫大なお釣りが残ったのであった。
かつて埃と赤字にまみれていたその部屋は、今や大陸一の巨大コングロマリット『グランディエ・ホールディングス』の中枢として、洗練された空間に生まれ変わっていた。
「……よし。隣国との関税撤廃交渉、妥結しました」
イロハは、山のような書類の最後の一枚にサインをし、パタンとファイルを閉じた。
彼女の指には、大粒のダイヤモンド(かつてシルヴィスが贈ったもの)と、シンプルな結婚指輪が輝いている。
「お疲れ様、イロハ。相変わらず仕事が早いな」
背後から、シルヴィスが温かい紅茶を差し出した。
彼は数年前と変わらぬ美貌を保ちつつ、その表情はずっと穏やかで、余裕に満ちたものになっていた。
「ありがとうございます、あなた。……ですが、これは私の仕事ではありません。本来なら国王陛下(カイル君の弟)がやるべき案件です」
「仕方あるまい。陛下はまだ12歳だ。我々が『経営指導』をしてやらねば国が傾く」
「指導料はしっかり請求していますけどね」
イロハは紅茶を一口飲み、窓の外を見下ろした。
そこには、美しく整備された庭園と、その向こうに広がる活気に満ちた領地が見える。
「見てください。あの物流センターの稼働率、先月より5%向上しています。ゴルド商会(現・グランディエ物流)の連中、いい働きです」
「ああ。元スパイたちも、今や優秀な『市場調査員』として世界中を飛び回っているしな」
「適材適所です。無駄な人間などいない。いるのは『使い所を間違えられた人間』だけです」
イロハは満足げに微笑んだ。
この数年で、彼女は公爵家の借金を完済したどころか、国の経済を裏から牛耳る『影の女帝』と呼ばれるようになっていた。
公爵領は独立こそしなかったが、経済特区として独自の発展を遂げ、王都以上の繁栄を誇っている。
「そう言えば、カイルたちから手紙が来ていたぞ」
シルヴィスが封筒を渡す。
「あら、『パン屋・王冠』の30号店出店のお知らせですか?」
「いや、『マリア・ウォーカー』の新作発表会の招待状だそうだ」
封筒の中には、幸せそうなカイルとマリアの写真が入っていた。
カイルは少しふっくらとして貫禄がつき、マリアは職人らしい凛とした顔つきになっている。
『イロハ様! 兄上! 今度の新作ブーツは、なんと「空を飛べる靴(低空飛行限定)」です! 転ぶ前に浮くので絶対に安全です! カイル様が実験台になって少し屋根に激突しましたが、元気です!』
「……相変わらずですね」
イロハは苦笑した。
「空を飛ぶ靴……。安全性(リスク)の検証が必要ですが、軍事転用できれば高値で売れそうです」
「お前はすぐに商売に結びつけるな」
「当然です。彼らは重要なビジネスパートナーですから」
イロハは写真を大切に引き出しにしまった。
その引き出しの中には、あの『魔導演算機』も鎮座している。今でも現役バリバリの愛機だ。
「さて、イロハ。仕事は終わりか?」
「ええ。本日の予定(タスク)はすべて消化しました」
「なら、私の時間だ」
シルヴィスはイロハの椅子をくるりと回し、自分の方へ向けた。
そして、膝をついて彼女の手を取る。
「結婚記念日のディナーを予約してある。……今夜は、数字の話は抜きだぞ?」
「分かっています。プライベートの時間(オフタイム)の充実は、翌日の生産性を高めますから」
「素直に『楽しみだ』と言えんのか」
「……楽しみですよ、とても」
イロハは少し頬を染めて、シルヴィスの髪に触れた。
「だって、あなたが選んだ店なら、コストパフォーマンス(味と雰囲気)は最高でしょうから」
「くくっ、そこか」
シルヴィスは立ち上がり、イロハを優しく抱き寄せた。
「イロハ。……幸せか?」
唐突な問いに、イロハは目を瞬かせた。
そして、いつものように冷静に、しかし万感の思いを込めて答えた。
「ええ。計算してみました」
「ほう? 結果は?」
「私の人生における『幸福度指数』は、過去数年で右肩上がりの上昇トレンドを描いています。特にあなたと結婚してからは、ストップ高(値幅制限上限)が続いていますね」
イロハはシルヴィスの胸に顔を埋めた。
「資産も増えましたが、それ以上に……あなたという『最強のパートナー』を得た利益は計り知れません。私の人生、完全な黒字(大勝利)です」
「そうか。……私もだ」
シルヴィスは彼女の背中を強く抱きしめた。
「お前がいるだけで、私の世界は輝いている。……愛しているぞ、イロハ」
「はいはい。私も愛していますよ」
イロハは顔を上げて、ニッコリと微笑んだ。
「貴方の資産価値的な意味でも、経営手腕的な意味でも……そして、私の夫としての魅力的な意味でも、ね」
「最後のが聞ければ十分だ」
二人は夕日が差し込むオフィスで、静かに唇を重ねた。
その背後の壁には、グランディエ公爵家の『売上推移グラフ』が貼られており、その赤い線は天井を突き破らんばかりに上昇していた。
悪役令嬢イロハの華麗なる請求書。
その支払いは完了し、彼女の手元には『愛』と『富』という、莫大なお釣りが残ったのであった。
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