婚約破棄、清算しましょう。真実の愛は非効率!?

恋の箱庭

文字の大きさ
28 / 28

28

しおりを挟む
数年後。グランディエ公爵邸、メインオフィス(旧・執務室)。

かつて埃と赤字にまみれていたその部屋は、今や大陸一の巨大コングロマリット『グランディエ・ホールディングス』の中枢として、洗練された空間に生まれ変わっていた。

「……よし。隣国との関税撤廃交渉、妥結しました」

イロハは、山のような書類の最後の一枚にサインをし、パタンとファイルを閉じた。

彼女の指には、大粒のダイヤモンド(かつてシルヴィスが贈ったもの)と、シンプルな結婚指輪が輝いている。

「お疲れ様、イロハ。相変わらず仕事が早いな」

背後から、シルヴィスが温かい紅茶を差し出した。

彼は数年前と変わらぬ美貌を保ちつつ、その表情はずっと穏やかで、余裕に満ちたものになっていた。

「ありがとうございます、あなた。……ですが、これは私の仕事ではありません。本来なら国王陛下(カイル君の弟)がやるべき案件です」

「仕方あるまい。陛下はまだ12歳だ。我々が『経営指導』をしてやらねば国が傾く」

「指導料はしっかり請求していますけどね」

イロハは紅茶を一口飲み、窓の外を見下ろした。

そこには、美しく整備された庭園と、その向こうに広がる活気に満ちた領地が見える。

「見てください。あの物流センターの稼働率、先月より5%向上しています。ゴルド商会(現・グランディエ物流)の連中、いい働きです」

「ああ。元スパイたちも、今や優秀な『市場調査員』として世界中を飛び回っているしな」

「適材適所です。無駄な人間などいない。いるのは『使い所を間違えられた人間』だけです」

イロハは満足げに微笑んだ。

この数年で、彼女は公爵家の借金を完済したどころか、国の経済を裏から牛耳る『影の女帝』と呼ばれるようになっていた。

公爵領は独立こそしなかったが、経済特区として独自の発展を遂げ、王都以上の繁栄を誇っている。

「そう言えば、カイルたちから手紙が来ていたぞ」

シルヴィスが封筒を渡す。

「あら、『パン屋・王冠』の30号店出店のお知らせですか?」

「いや、『マリア・ウォーカー』の新作発表会の招待状だそうだ」

封筒の中には、幸せそうなカイルとマリアの写真が入っていた。

カイルは少しふっくらとして貫禄がつき、マリアは職人らしい凛とした顔つきになっている。

『イロハ様! 兄上! 今度の新作ブーツは、なんと「空を飛べる靴(低空飛行限定)」です! 転ぶ前に浮くので絶対に安全です! カイル様が実験台になって少し屋根に激突しましたが、元気です!』

「……相変わらずですね」

イロハは苦笑した。

「空を飛ぶ靴……。安全性(リスク)の検証が必要ですが、軍事転用できれば高値で売れそうです」

「お前はすぐに商売に結びつけるな」

「当然です。彼らは重要なビジネスパートナーですから」

イロハは写真を大切に引き出しにしまった。

その引き出しの中には、あの『魔導演算機』も鎮座している。今でも現役バリバリの愛機だ。

「さて、イロハ。仕事は終わりか?」

「ええ。本日の予定(タスク)はすべて消化しました」

「なら、私の時間だ」

シルヴィスはイロハの椅子をくるりと回し、自分の方へ向けた。

そして、膝をついて彼女の手を取る。

「結婚記念日のディナーを予約してある。……今夜は、数字の話は抜きだぞ?」

「分かっています。プライベートの時間(オフタイム)の充実は、翌日の生産性を高めますから」

「素直に『楽しみだ』と言えんのか」

「……楽しみですよ、とても」

イロハは少し頬を染めて、シルヴィスの髪に触れた。

「だって、あなたが選んだ店なら、コストパフォーマンス(味と雰囲気)は最高でしょうから」

「くくっ、そこか」

シルヴィスは立ち上がり、イロハを優しく抱き寄せた。

「イロハ。……幸せか?」

唐突な問いに、イロハは目を瞬かせた。

そして、いつものように冷静に、しかし万感の思いを込めて答えた。

「ええ。計算してみました」

「ほう? 結果は?」

「私の人生における『幸福度指数』は、過去数年で右肩上がりの上昇トレンドを描いています。特にあなたと結婚してからは、ストップ高(値幅制限上限)が続いていますね」

イロハはシルヴィスの胸に顔を埋めた。

「資産も増えましたが、それ以上に……あなたという『最強のパートナー』を得た利益は計り知れません。私の人生、完全な黒字(大勝利)です」

「そうか。……私もだ」

シルヴィスは彼女の背中を強く抱きしめた。

「お前がいるだけで、私の世界は輝いている。……愛しているぞ、イロハ」

「はいはい。私も愛していますよ」

イロハは顔を上げて、ニッコリと微笑んだ。

「貴方の資産価値的な意味でも、経営手腕的な意味でも……そして、私の夫としての魅力的な意味でも、ね」

「最後のが聞ければ十分だ」

二人は夕日が差し込むオフィスで、静かに唇を重ねた。

その背後の壁には、グランディエ公爵家の『売上推移グラフ』が貼られており、その赤い線は天井を突き破らんばかりに上昇していた。

悪役令嬢イロハの華麗なる請求書。

その支払いは完了し、彼女の手元には『愛』と『富』という、莫大なお釣りが残ったのであった。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

悪役令嬢の末路

ラプラス
恋愛
政略結婚ではあったけれど、夫を愛していたのは本当。でも、もう疲れてしまった。 だから…いいわよね、あなた?

裏切りの先にあるもの

マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。 結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。

悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。
恋愛
王国の侯爵令嬢ルゥナ=フェリシェは、些細なすれ違いから突発的に家出をする。本人にとっては軽いお散歩のつもりだったが、方向音痴の彼女はそのまま隣国の帝国に迷い込み、なぜか牢獄に収監される羽目に。しかし無自覚な怪力と天然ぶりで脱獄してしまい、道に迷うたびに騒動を巻き起こす。 一方、婚約破棄を告げようとした王子レオニスは、当日にルゥナが失踪したことで騒然。王宮も侯爵家も大混乱となり、レオニス自身が捜索に出るが、恐らく最後まで彼女とは一度も出会えない。 ルゥナは道に迷っただけなのに、なぜか人助けを繰り返し、帝国の各地で英雄視されていく。そして気づけば彼女を慕う男たちが集まり始め、逆ハーレムの中心に。だが本人は一切自覚がなく、むしろ全員の好意に対して煙たがっている。 帰るつもりもなく、目的もなく、ただ好奇心のままに彷徨う“無害で最強な天然令嬢”による、帝国大騒動ギャグ恋愛コメディ、ここに開幕!

10年間の結婚生活を忘れました ~ドーラとレクス~

緑谷めい
恋愛
 ドーラは金で買われたも同然の妻だった――  レクスとの結婚が決まった際「ドーラ、すまない。本当にすまない。不甲斐ない父を許せとは言わん。だが、我が家を助けると思ってゼーマン伯爵家に嫁いでくれ。頼む。この通りだ」と自分に頭を下げた実父の姿を見て、ドーラは自分の人生を諦めた。齢17歳にしてだ。 ※ 全10話完結予定

〘完結〛わたし悪役令嬢じゃありませんけど?

桜井ことり
恋愛
伯爵令嬢ソフィアは優しく穏やかな性格で婚約者である公爵家の次男ライネルと順風満帆のはず?だった。

村娘になった悪役令嬢

枝豆@敦騎
恋愛
父が連れてきた妹を名乗る少女に出会った時、公爵令嬢スザンナは自分の前世と妹がヒロインの乙女ゲームの存在を思い出す。 ゲームの知識を得たスザンナは自分が将来妹の殺害を企てる事や自分が父の実子でない事を知り、身分を捨て母の故郷で平民として暮らすことにした。 村娘になった少女が行き倒れを拾ったり、ヒロインに連れ戻されそうになったり、悪役として利用されそうになったりしながら最後には幸せになるお話です。 ※他サイトにも掲載しています。(他サイトに投稿したものと異なっている部分があります) アルファポリスのみ後日談投稿しております。

悪役令嬢と言われ冤罪で追放されたけど、実力でざまぁしてしまった。

三谷朱花
恋愛
レナ・フルサールは元公爵令嬢。何もしていないはずなのに、気が付けば悪役令嬢と呼ばれ、公爵家を追放されるはめに。それまで高スペックと魔力の強さから王太子妃として望まれたはずなのに、スペックも低い魔力もほとんどないマリアンヌ・ゴッセ男爵令嬢が、王太子妃になることに。 何度も断罪を回避しようとしたのに! では、こんな国など出ていきます!

処理中です...