悪役令嬢、婚約破棄に即答する、この王子〇〇すぎて私が悪女に見えるだけでは?

恋の箱庭

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翌朝。

ランカスター侯爵家の朝食の席で、チェルシーは真剣な表情でナイフとフォークを動かしていた。

ただし、皿の上にあるのはソーセージではなく、サイラスから届いた手紙である(比喩ではなく、実際に横に置いて凝視している)。


「……解せないわ」


「いかがなさいましたか、お嬢様。ソーセージの焼き加減がお気に召しませんか?」


給仕をしていたセバスチャンが問うと、チェルシーは首を振った。


「いいえ、ソーセージのメイラード反応は完璧よ。問題はこの手紙の『追伸』です」


チェルシーは手紙の一文を指差した。


『追伸:君の部屋のカーテンの色は何色がいい? それと、寝室の枕の硬さは? 一生を共にするのだから、君の睡眠環境は最優先事項だ』


「……宰相閣下は、もしや極度の『健康オタク』なのでしょうか?」


「はい?」


「見てください、この質問量。枕の素材(羽毛か低反発か)、マットレスのスプリング強度、さらには加湿器のアロマの好みまで聞いてきています。これは明らかに、睡眠の質(クオリティ・オブ・スリープ)を極限まで高めようとする研究者の姿勢です」


チェルシーは顎に手を当てて分析する。

一般的に見れば、新妻を迎える夫がウキウキしながら新居の準備をしているだけの微笑ましい文面だ。

だが、チェルシーの脳内変換機能は「ロマンス」を「サイエンス」に自動翻訳してしまう。


「なるほど……。宰相閣下は、私の脳機能を最大限に発揮させるために、リカバリー環境の整備を最優先課題としているのですね。さすがは国のトップ、人的資源管理(HRM)の観点が鋭い」


「……あー、左様でございますか(お嬢様、それは愛です)」


セバスチャンは心の中でツッコミを入れたが、あえて口には出さなかった。

ここで「愛されていますよ」と言っても、「愛? それはドーパミンの過剰分泌による判断力低下のことですか?」と返されるのがオチだからだ。


その時、玄関ホールの方が騒がしくなった。

メイドの一人が血相を変えて食堂に飛び込んでくる。


「お、お嬢様! 旦那様! 大変です!」


「廊下は走らないで。転倒リスクがありますよ」


「そ、それどころではありません! 宰相サイラス公爵閣下が! 玄関にいらしてます!」


「……アポイントメントの時間は午後のはずですが」


チェルシーが懐中時計を確認すると、現在は朝の八時。

予定より六時間も早い。

父である侯爵がコーヒーカップを置いて苦笑した。


「『善は急げ』と言うが、あの鉄仮面も随分と気が短いらしい。……チェルシー、通してやれ」


「承知しました。契約交渉の前倒しですね。合理的です」


チェルシーがナプキンで口を拭い、玄関へ向かう。

そこには、朝日を背負って立つサイラスの姿があった。

昨夜の夜会服ではなく、ビシッとした執務用のスーツ姿。

その手には、なぜか大きな花束と、分厚いファイルが抱えられている。


「おはよう、チェルシー嬢」


「おはようございます、閣下。予定より二万一千六百秒早い到着ですが、何か緊急事態(トラブル)でも?」


「いや。……居ても立っても居られなくてな」


サイラスは少しバツが悪そうに視線を逸らした。

本当は「一刻も早く君に会いたかった」と言いたいのだろうが、相手はチェルシーだ。

彼は咳払いを一つして、表情を引き締めた。


「緊急事態と言えばそうだ。君との契約内容に、重大な不備が見つかったので修正に来た」


「不備? 昨夜の口頭合意に齟齬がありましたか?」


チェルシーの目が鋭くなる。

契約の穴は見過ごせない。

サイラスは真顔で頷き、持参した花束をチェルシーに押し付けた。


「まずはこれを受け取ってくれ。……契約成立の、手付金代わりの『現物支給』だ」


「薔薇、ですね。市場価格で一輪あたり銀貨二枚……これだけの束なら金貨一枚相当。悪くないレートです」


チェルシーは花束を「資産」として受け取った。

サイラスは肩を落としかけたが、すぐに気を取り直してファイルを開く。


「不備というのは、福利厚生の面だ。昨夜、君は『残業代』と『休日』のみを要求したが、それだけでは私の管理責任が果たせない」


「と、言いますと?」


「君は放っておくと、食事も忘れて仕事に没頭するタイプとお見受けする。よって、以下の条項を追加したい」


サイラスは指で条文を示した。


『甲(サイラス)は乙(チェルシー)に対し、一日三食の栄養管理された食事を提供し、その摂取を義務付ける。なお、食事中は業務の話を禁止し、リラックス効果のある会話(雑談)を行うものとする』


「……食事の義務化ですか。確かに、低血糖は思考速度を鈍らせます。合理的ですね」


「だろう? 次だ」


『乙の睡眠時間は最低七時間を確保する。そのための環境整備として、寝室は甲と同室とし、甲が乙の安眠を監視……いや、見守るものとする』


「……同室? それはセキュリティコストの削減という意味で?」


チェルシーが首を傾げると、サイラスは一瞬詰まったが、力強く頷いた。


「そ、そうだ! 別々の部屋を警備するより、一箇所にまとめた方が警備人員を半減できる。君もコスト削減は好きだろう?」


「大好きです。採用しましょう」


あっさりと陥落した。

後ろで控えていたセバスチャンが「チョロい……」と呟いたが、誰にも聞こえていない。


「あと、これも重要だ」


『定期的なメンタルケアとして、一日一回以上のスキンシップ(握手、抱擁、その他)を推奨する。これはオキシトシン分泌によるストレス軽減を目的とする』


「オキシトシン……幸せホルモンですね。科学的根拠(エビデンス)に基づいた提案、素晴らしいです。閣下がここまで健康経営に配慮されているとは」


「あ、ああ。全ては君の……いや、業務効率のためだ」


サイラスの耳が少し赤い。

だが、チェルシーはそれを「朝の気温上昇による血管拡張」と処理した。


「異存ありません。全ての追加条項を受け入れます」


「よし! ではここにサインを!」


サイラスは勢いよくペンを差し出した。

その書類のタイトルは『婚姻届』となっていたが、チェルシーにとっては『終身雇用契約書』と同義である。

サラサラとサインを終えると、サイラスはそれを宝物のようにファイルに収めた。


「これで契約成立だ。……荷造りは済んでいるか?」


「はい。必要最低限の荷物はまとめてあります」


「結構。では行こうか。私の屋敷……いや、我々の『職場』へ」


サイラスが手を差し出す。

チェルシーはその手を取り、エスコートされて馬車へと向かった。

その背中は、新婚旅行に向かうカップルというよりは、これから戦場(ビジネス)に向かう戦友のようだった。


***


一方その頃、王城では。


「おい! この書類はどうなっているんだ! 承認印がないぞ!」


エリオット王子の怒鳴り声が執務室に響いていた。

机の上には、山のように積まれた未決裁の書類。

隣にいるのは、おろおろと涙目になるミナだけ。


「え、えっと……その書類、難しくて漢字が読めなくて……」


「読めないなら辞書を引け! チェルシーなら一瞬で終わらせていたぞ!」


「ひどい……エリオット様、またお姉様の話……」


「うるさい! 現に仕事が終わらないんだ! おい、誰か! チェルシーを呼べ! 『今すぐ戻れば許してやる』と伝えろ!」


エリオット王子は従者に怒鳴りつけた。

だが、従者は青ざめた顔で首を振る。


「そ、それが……殿下。先ほど、宰相府から通達がございまして」


「なんだ、サイラスか? あいつも手伝ってくれるのか?」


「いえ……その……『本日付でチェルシー・ランカスター嬢と婚姻契約を結び、彼女を宰相補佐官として独占契約した。よって、今後彼女への接触は、我が国への業務妨害とみなし、法的措置をとる』と……」


「は?」


エリオット王子の思考が停止した。


「け、結婚? サイラスと? あの鉄仮面と、あの氷の女が?」


「はい。さらに追伸がありまして……『なお、未払いの慰謝料と残業代については、本日午後より我が公爵家の法務部が強制執行手続きに入る。首を洗って待たれよ』とのことです」


「ひぃっ!?」


エリオット王子の悲鳴が城に響き渡る。

チェルシーという「最強のOS」を失った王城という名のPCが、フリーズするまであと数時間。

そして、最新鋭のサーバー(サイラス)と接続したチェルシーが、その真価を発揮し始めるまで、あとわずか。
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