婚約破棄?望むところですわ!やっと、おやつが食べられますわ!

恋の箱庭

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翌朝。宰相執務室は、かつてないほどの緊張感……ではなく、奇妙な空気に包まれていました。


「……閣下。先ほどから、書類が全く進んでおりませんが。どこか体調でも?」


有能な補佐官が怪訝そうに問いかけますが、ゼノスは無言でペンを握りしめたまま、窓の外の一点を見つめていました。


彼の脳裏には、昨夜食べた「海のゴミ」ことマグロのカマの味が、鮮明に焼き付いて離れないのです。


(あの、溢れ出す脂の濃厚さ。岩塩の塩気が引き立てる、魚本来の力強い旨味……。そして、あの娘の、何一つ隠し立てしない豪快な食いっぷり……)


ゼノスは、これまで数々の王侯貴族による「洗練された」晩餐会に出席してきました。

しかし、そのどれもが、政治的な駆け引きのスパイスで味が濁った、冷めた料理ばかりでした。


あんなに「ただ、美味い」という感情だけで満たされた食事は、人生で初めてだったかもしれません。


「……いや、何でもない。ただ、少しばかり、国家の食料自給率について考えていただけだ」


「それは重畳なことで。ところで閣下、ジュリアン殿下がお見えです。かなりお怒りのご様子で」


補佐官の言葉と同時に、執務室のドアが乱暴に跳ね上がりました。


「ゼノス! 聞いたか! あのチューナの女、裏庭で魚の死骸を焼いてどんちゃん騒ぎをしていたらしいじゃないか!」


ジュリアン王子が、真っ赤な顔をして飛び込んできました。

その後ろには、ハンカチを口元に当てて「信じられませんわ」と嘆いてみせるメアリーの姿もあります。


「殿下。公爵邸のプライベートな時間まで干渉されるとは、随分と暇をお持ちのようですな」


ゼノスは努めて冷静に、昨夜の脂っこい記憶を心の奥底に押し込みました。


「暇だと!? あいつは公爵令嬢なんだぞ! 婚約破棄されて自暴自棄になったのか知らんが、あんな下品な真似をされては、元婚約者である私の面目が丸潰れだ!」


「……殿下。チューナ様は、私が差し上げた『ゴミ』を、あろうことか使用人たちと一緒に召し上がったのです。あれは、殿下や私に対する当てつけに違いありませんわ!」


メアリーが目に涙を浮かべて訴えます。


(……いや、あれは百パーセント、純粋に食欲から来る行動だ。当てつけにしては、美味そうに食いすぎていた)


ゼノスは心の中でツッコミを入れましたが、それを口にするわけにはいきません。

もし自分が「実は私も一口いただいたが、絶品だった」などと言えば、この場は別の意味で爆発するでしょう。


「それで、殿下。私に何を求めておられるのですか?」


「決まっている! あいつに、公爵令嬢としての自覚を取り戻させるための『再教育』を命じろ! 明日の午餐会に呼び出し、貴族の作法を徹底的に叩き直してやる。ゼノス、お前が立会人だ!」


「午餐会、ですか。……分かりました。手配しましょう」


ゼノスは、表情一つ変えずに承諾しました。

しかし、彼の内側では、別の期待が頭をもたげていました。


(再教育、か。……あの娘のことだ。ただで起きるはずがない。今度はどんな『毒味』をさせてくれるのか……)


一方、その頃のグラッセ公爵邸。


私は、昨夜のマグロの余韻に浸りながら、キッチンで新たな実験に勤しんでいました。


「お嬢様、何ですか、その真っ黒な塊は。……まさか、またゴミを拾ってきたのですか?」


アンナが怯えたように、ボウルの中の黒い液体を見つめています。


「失礼ね、アンナ。これは昨日の『苦渋の茶』……コーヒー豆を細かく砕いて、お砂糖とミルクで固めた『特製コーヒーゼリー』よ!」


「ぜりー……?」


「そう! ぷるぷるとしていて、喉越しが良くて、苦味と甘みのハーモニーが絶妙なの! さあ、これを冷やして……」


そこへ、王宮からの公式な呼び出し状を持った執事が現れました。


「お嬢様。明日、王宮にて開催される午餐会への出席要請です。……ジュリアン殿下とメアリー様もご同席とのことです」


「午餐会! なんて素敵な響きかしら!」


私は、呼び出しの理由が「再教育」であることなど露ほども思わず、ただ「王宮の昼食」という単語に目を輝かせました。


「アンナ、聞いた!? 明日は王宮のシェフが腕を振るった料理が食べられるのよ! 嫌がらせのお茶や魚の頭もいいけれど、たまには王道のフレンチも悪くないわね!」


「お嬢様……。絶対に、何か罠がありますよ。殿下がただの食事に誘うはずがありません」


「罠? ああ、もし『激辛料理攻め』だったらどうしましょう。……それはそれで、胃袋が刺激されて楽しみだわ!」


私は、明日のメニューに思いを馳せ、喜びのあまりキッチンでワルツを踊り始めました。


ターゲットを泣かせようと牙を剥く王子。

そのターゲットが、牙を「食べるための道具」としてしか認識していないことに気づかないまま。


そして、一番近くでその攻防を見届けることになる宰相は、こっそりと自分の胃腸薬を用意し始めるのでした。
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