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三章 還鶴玄楼と狼の贄王子

秘された書状

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  書記室に足を踏み入れるのは始めての事だ。澄はというと、“教坊だけでも畏れ多いのに殿中の中核に入れません”と固辞したので淳と2人で入った。
 書記室と言うからには書物の山とばかり思っていたが、なかはすっきりと片付けられている。
「意外って顔してるな」
「そうだな。嶺さんの作業部屋とは大違いだ」
「あはは。そういう人達だよ。姉上たちは絵に取り掛かったり、何か調べたりするときは他の事にかまっている暇がないんだ」
 羽の背丈の二倍はあるかという書棚はあるけれど、上の方まで積み上げられていることは滅多になく、奥に見える蔵も整えられているような雰囲気があった。かび臭さを減らすためなのか、窓を開けているし、気を落ち着かせるような香まで焚かれている。実家の蔵とは偉い違いだ。
 羽は書記室の中をきょろきょろと見渡した。そして、違和感を口にする。
「あれ、お前だけ?」
「あぁ、他の人達は今玄国側の使者と会談をしているんだ。高官の方と、互いの国の情報をやり取りするんだ」
「じゃあ、俺必要ないな」
 帰ろうとした羽の首根っこを淳がつかんだ。冗談のつもりだけれど、そういうおちゃらけた事は今回無しのようだ。こんな淳を初めて見た気がする。
(いつもはよく分からんことを言っているのにな)
 思えば、淳とこうして顔を突き合わせるのも久しぶりのような気がする。子どもの頃、塾に通っていた頃は毎日のように顔を突き合わせていたけれど、互いに14になった頃、淳が科挙に通り仕事を始めるようになってからは加速度的に会わなくなってしまった。
「か・え・る・な」
「分かった分かった。で、例の書状っていうのは?」
「…………これだよ」
 暗い表情をした淳が、机の上に置かれた文箱を開けて一通の書状を見せた。折りたたまれ、中身が見えない状態でも分かる。これは少なくとも20年以上昔に書かれたもので、しかも状態もよくない。劣悪な状態にあったと言っても過言でもないかもしれない。虫食いもひどく、赤黒い染みも見られるがそれ以上に焦げたような跡が見られた。
「触ってもいいか?」
「そっとだぞ。もし破れたら、俺は父上に叱責される」
「分かってる」
 羽は最大級の緊張を持って書状に触れてみた。思った通りだ。見た目以上に劣化が進んでいる気がする。大きさは一般的な書状の大きさだというのに、小さく見える。
「どこに広げようか」
「それならこっちに検分台がある」
 箱を抱え淳が机を離れ、初期室の奥の方にある窓のない部屋に羽を連れてきた。父から昔聞かされたことがある。書記室は時に綸旨の発行所となる事があって、綸旨の内容が外に漏れないよう、窓のない部屋がしつらえてあると。
「ここでなら外部に知られることもないだろう」
「それくらい重要なもの、なんだな。それこそ、二国間に渡るほどの」
「あぁ。頼む」
 書状の扱いは淳に任せ、羽は広げられていく書状を眺めることした。ここに明英がいれば書状から匂いを辿れる気がしなくもないが、これほどまでに劣化が進んでしまえば紙の臭いや墨の匂いは辿れないだろう。
「黒陵将軍の名前が無いな」
 ざっと斜め読みしてみても、劉黒陵の名はどこにもなかった。
「当たり前だろ。玄国の字なんだから。俺達とは違う文字さ。それに、黒陵将軍の名はここにある」
 そう言って、淳は書状の末尾に書かれている署名を指さした。羽の知識が正しければハルバトル、と読める。だが、黒陵ではない。
「別人じゃないか? 名前が違うじゃないか」
「そりゃ、玄国での名前だからな」
「は?」
「玄国と辰国では言葉は同じでも使っている文字が違うからな。玄国の人間が辰国で生活する場合を考えて、名前を変えるんだよ。ハルバトル、というのは黒陵将軍の玄国での名前、本名だ」
「そう、だったのか」
「お前、知らずに黒陵将軍の家に行ってたのかよ。じゃあ、を知らないんじゃ」
「………」
「お前、それでよく許嫁とか言えるな」
「別に、辰国での名前があいつにとっての名前なら知らなくてもいいだろ」
 とっさに強がりを言ってしまった。知らなかった、と一言いえばいいのに、なぜか言えなかった。誰もそんなことを教えてくれなかった。
(明英の本当の名前、か)
 考えたところで、玄国の言葉がそうすらすらと出てくるわけがない。羽は楽士であっても学者じゃないから。
「まぁ、いいか。この件とは全く関係のない事だ。羽にはこの場で読んでもらえたら最高なんだけど、だめそうだったらこっちに模写してほしい」
「そうだな。どうやら花とか草とか、簡単な単語はどこにもなさそうだしな」
 何度か目をいったり来たりさせてみても、知っている単語は全くと言っていいほどない。それどころか、急いで書いたものなのが分かるくらい筆の線が歪んでいて、黒陵将軍の印象からもかけ離れている。あの豪快で熊のような老将がこんな今にも消えてしまいそうな文字を書くものだろうか。
「あ」
 ふと、目に留まった文字が気になった。書状のちょうど真ん中あたりにある文字で、はっきりとした文字だったからだ。
「なにか分かったか?」
「この言葉なら書き写せそうだ、ここと、ここもそうだ」
「よし、書け!」
「おう!」
 淳から手渡された手記用の小さな紙に羽は見たままを書き写す。そこからは、時間が止まったような気がする。ただ、書きうつしていくたびに心臓がぎゅっと掴まれているような気がしてきた。まるで踏み入れてはいけないところに踏み入れたような。
 似ている。
 あの時の感覚に近づいてきている。
(そうか、あの時に似ているんだ)
 あれは、いつだったか。
(いや、今は目の前の事に集中しよう)
 蘇りそうになった記憶に蓋をして、羽は書状に向き合う。と言っても、一行丸ごと写すことは困難に思えた。なにせ、赤黒い染みが飛び散っており、書状の右上部分はほとんど読めない状態になっていたからだ。
 弱弱しい略された文字を何とか正しい文字に戻し、羽は書き続けた。書状一つ訳すのにどれだけ時間をかけた事だろうか。時折淳が書記室の隣にある宿直室から茶を汲んできていた。それでも羽の作業が終わらないので、淳は検分台の近くに小さな移動式の机を持って来て、自分の仕事を始めた。
 そうして、気が付いたころにはもう昼の太陽が一番輝くころだった。
「俺が分かる所は全部書いてある。あとは書記官の人達で読んでくれ」
「相変わらず字だけはうまいよな」
「うるさい」
「えぇっと。大部族会議クリルタイ、…族、合意、決裂、…日後、再び……」
「大部族会議って読むんだな、それ。大部族会議の会期中に出された書状って事なんじゃないか?」
「さぁ、そこまでは」
「でも、穏やかじゃないな。合意決裂って」
 大部族会議では、会議室ですべてが決定しているわけではない。各部族がそれぞれ水面下での話し合いを進め、会議室ではさしたる議論もなく”満場一致”になる事が多いと聞く。
「別に不思議な話じゃない。場合によってはに強硬手段に出る部族もいると聞いた」
「なぁ、黒陵将軍に直接聞けはしないのか?」
「おい、それ本気か? じゃあ、どうぞどうぞー」
 片手で促され、羽は首を激しく横に振る。黒陵将軍の事だ、自分が書いた書状の内容を喋るよりもまず先に、書状が出てきた経緯について語気を荒げるに違いない。
(陛下が気づかれるよりも先に気づけ! って怒られそうだな)
「……」
「なんだよ、急に黙りやがって」
「羽、大手柄だ。今度肉をおごってやるよ」
「お、そうかよ」
 どんな内容か、と聞こうとしたが淳は首を振った。
「まさか、口から出たでまかせが本当になるとは思わなんだ」
「はぁ?」
「まぁ、ここから先は文官の領分だ。楽士殿は今晩の宴に向けて調律と支度に精を出してくれ」
 そういうなり、羽の背中を押しぐいぐいと書記室から追い出す。釈然としない顔を見せながら去っていく友人の背を見て淳は暗い表情を浮かべた。
「あぁ、策義兄上の心配していた通りだ。姉上に早く伝えよう。例の作業を進めてほしいって」
 書状に書かれた一行が頭にこびりついていた。
 ――――― ”還鶴玄楼にて王子が待つ”と。
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