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三章 還鶴玄楼と狼の贄王子

至上の花

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 あの日の事は今でも思い出せる。祖父につれられ故郷離れた時はまるで身を引きちぎられる思いで一杯だった。たどり着いた土地は石で囲まれ、まるで巨大な鳥かごのように見えた。
(帰りたい。故郷の、どこまでも広がる草原に)
 祖父はすぐになれる、と笑って私をよく知人の子ども達を紹介してくれた。でも、土や風の匂いのしない子ども達はなんだか怖いと思っていた。向こうも自分達とは違う匂いのする子どもが怖いのか、話すらできなかった。

(帰りたい。でも、あの山を越えるなんて大人でも難しいのに……)
 そして、次第にこう思うようになった。
 15歳になったら出ていこう、と。15歳までに何とかしてあの山を越える段取りをつけよう、と。15歳になれば、体も大きくなって、剣の腕前だって磨けるはず。5歳になった時から、剣の稽古を始めて、私はどんどん強くなっていった。祖父から剣を譲ってもらったときは天にも上るような気になったものだ。

 それから時が過ぎて、私は8つになった。
(あともう7年。待てば私はこの国から出ていける。もう少し、頑張ろう)
 その日、祖父に連れられ、どこぞの貴族の屋敷に連れてこられた。祖父は私を置いてさっさと中に入ってしまう。祖父について行こうとすると、手で止められた。
「遊んでおいで、ここの庭は広いぞぅ」
「…………はい」
「宴はすぐに始まるから、楽の音が聞こえてきたら戻っておいで」
 祖父が笑って見送るので、私は重い足取りで庭に出てみた。広いけれど、故郷の草原ではなく、人の手で作られた池や、植えられた木々が広がっている。
「……あ」
 冬の名残がまだ残り、冷たい夕昏の風の中、その男の子はいた。
「お前、誰?」
「………」
 ずっと同じ年の子どもたちと遊ぶことを避けてきたから、私は思わず固まってしまった。この子も、私の事を怖がるだろう、嫌うだろう、逃げるだろう、そう思っていると男の子は私の腰に差さっている短剣に目を向けた。
「あぁ、そういえば」
「そういえば?」
「確か、ここに……」
 少し考えるように首を傾げた男の子は、ふと何かを思いついたようで、急に自分の懐を漁りだした。私は何をするのだろう、と男の子から目を背けずにいると、男の子は黒い棒のようなものを取り出した。あとあと聞いてみると、それは笛と呼ばれる物らしい。笛を小脇に抱え、男の子は庭の隅の小さな長椅子を指さした。
「ここ、どうぞ」
 男の子に促され、椅子に腰かけると男の子は私のすぐ隣に座った。拳一つ分は空いているけれど、急に座るものだからびっくりした。
「誰かが来る前に、少ししか吹けないけど」
 早口で呟いたから、その後の言葉は分からなかった。男の子は笛に口をつけると、つぃと音を出す。この国に来てから、宴には何度か連れてこられ、楽を聴いたことはあるけれど、男の子の奏でる音は初めて聴いたものだった。 高くしなやかで、そして優しい音。
 まるで、それは。
(あの草原の風のような―――)
 私の目の前に、心の底から望んでいた光景が広がった。傾いた日を受け、金色に広がる草原に、高く響く鳥の声。草の葉が磨れる音、そして馬のいななきも。
「その曲は何?」
 私は思わず口に出して聞いた。演奏を止められた男の子は少し驚いた表情をしていたけれど、くすっと笑う。人懐っこそうな、いたずらっ子のような笑顔。
「ひみつにしてて」
 そういうなり、男の子は誰かに呼ばれたようでさっと笛をしまうと走り去っていった。私はぽかんとして、その背中を見つめていた。

 その日の宴で、私は全く同じ曲を聴いた。
「あの曲、聴いたことがあるわ」
 その言葉を聴いたその家の家令は御冗談を、と笑った。
「この曲は殿中曲です。黒陵将軍をもてなすため、特別に陛下よりお許しを頂いているのです。この場限りの曲ですよ、お嬢様」
「でも……同じなんだもの」
「似た曲はありますから、聞き覚えがあるのでしょうね。殿中曲が殿中以外で奏でられるなど、あってはならないのですから」
 幼い子どもの勘違いだと家令は思いこんでいるようだった。でも、もし、あの少年が奏でたものが殿中曲なら、なぜあの場で奏でたのだろう。
「明英、本当にこの曲なのか?」
 祖父は私の頭を撫でながら問う。私はこくりと頷くと、祖父はそうか、と笑った。
「この曲はな。我らの故郷を歌う曲だからな。お前に聴かせた相手は、もしかするとお前を歓迎するために奏でたのだろうな」
(あの子が?)
「黒陵将軍! ありえませんよ! 当家にそのような大それたことをするものなど、おりません!」
 目を向いてあわてだした家令に祖父は笑って返していく。
(歓迎………初めてだわ)
 祖父とともに宴に出たときは、みんな口をそろえて祖父を呼ぶ。誰一人として私に目を向けてくれた人などいなかった。私を見る人達の目は、あまり友好的とはいえなかった。だから、どうしても気になった。
(私を歓迎してくれたのは、どうしてなんだろう)
 その問いを発することなく、私は15を過ぎた今でもこの国にとどまっている。その答えを訊くのが、少し怖かったからだ。でも、訊かずにこの国を去るのは、もっと気がひけた。

「なぁ、明英」
 玄国の使者のための宴の準備が佳境に入った頃、玄国側の人間として招かれている明英に羽は声をかけた。使者の縁者、という枠で入って来ているからか、いつものような武者のような格好ではなく、年ごろの娘の格好をしている。だというのに、短剣が腰に刺さっているのはどうなのだろう、と羽は思っている。
(剣さえ下げてなきゃ、普通の女の子なのにな)
 武将の孫だからと言って、剣に生きる必要はどこにもないのに。
「私に質問なんて、そんな暇がどこにあるのよ」
「お前、玄国側の席につかないのかな、って。黒陵将軍もそうだ」
 本来なら玄国の側につくべきだが、黒陵将軍が頑として受け入れず、辰国側の席についている。明英もそれにならっているから、先程黒雷将軍の腹心が苦い顔をしているのを見かけた。
「おじい様はね、自分の黒狼族以外の大八部族に対して、あまりいい感情はないの」
「大八部族………黒狼族と金狼族以外の部族って事か?」
「と言っても、もう大八部族ではないけれど……」
「?」
「玄国の話はいいの。さっさと楽器の調整をする! 澄だって、他の楽士と最後の合わせをしているらしいじゃない」
 あんたも、と言いかけ、明英は口を閉ざした。羽が明英から顔をそむけたからだ。
「……」
「まさか、また宴で奏でられないとかないわよね?」
「…………」
「玄国と辰国の会談よ? その一日目の宴よ?」
「………」
「周家の御曹司として、これ以上ない舞台じゃないの?」
 そこまで言われ、羽は大きなため息とともに明英に向き合う。
「ぐうのねも出ない。周家からは子牙兄ちゃんが出ることになってる。あと宴の曲目は父上が担っているし、他にも弟子が何人か出るって」
 視線をそらした羽の顔にはあきらめと気まずさの色が塗りたくってある。とどのつまり、今夜の羽は単なる置物。曲がりなりにも周家の御曹司なのだから、そのお披露目として今回の宴に出てもよさそうなのに、なぜか今回も出るなと言われた。
(やっぱり、大叔父上の件で俺がいらないことをしたからか?)
 要らないこと、ではないはずだ。もしかすると、あのまま澄はあの洞窟で衰弱していたかもしれないし、大叔父も虚栄の沼でもがき苦しむ羽目になっていたかもしれないのだ。
「まぁ、あんたは別に奏でなくっても、御曹司の肩書のままそこら辺に突っ立ってても誰も文句は言わないわ」
「それが嫌なんだよ。俺は――――」
「あらあら、明英様。こんなところにいらっしゃるのね?」
 しゃなり、と明英の後ろの方から艶やかな声が聞こえてきた。宴の会場の方から来たらしい、妙齢の女性は傍らの侍女を一歩下がらせて笑みをこぼす。
「黄花……姫姉様……」
「まぁ、わたくしを姫姉様、だなんて。懐かしい響きね。まだその呼び方をしてくれるのは、明英様だけよ」
(黄花姫!? 玄国の使者の代表じゃないか!)
 羽はどきりとした。明英に声をかけた女性は、確かに使者の列の中、一番目立つところにいた女性だ。
「あら、あなたが明英様の許嫁の方かしら?」
「は、はい。周家当主周権が長子、周羽と申します。あなたは玄国の使者の黄花姫ですね?」
「はい。わたくしが黄花ですわ。明英様はわたくしにとって本当の妹同然。ですから、あなたはわたくしの姉、ということですわ」
 ふと笑った顔に、羽は緊張で言葉を失う。町中がわくのも分かる。絶世の美女、という言葉をそのまま表したような女性だった。
「姫姉様、どうしてこのような所に? 宴の会場に行かれたのではないのですか?」
「ええ。もちろんすぐにいきますわ。でも、その前に一つどうしても聞きたいことがあってまいりましたの」
 そう言ってすっ、と羽と視線を合わせる。その視線は先ほどまでの穏やかなものとは真逆の鋭い狩人のようなものに変わっていた。
「わたくしの部下があなたが書記室に入っていくところを見かけたと言っていましたの」
「ええ、確かに私は友人に頼まれ書記室に入りましたが……」
「あなた、そこで何を見ましたの?」
「………」
「姫姉様? どうされたのですか? 羽が書記室に??」
「あなたは楽士でしょう。文官ではないはず。それなのに、なぜ書記室に行ったの?」
(あぁ、そういうことか)
 羽も黄花姫に合わせるようににこりと笑う。
「何故と問われましても、友人に会いに行くのに理由が必要でしょうか?」
 平然と言ってのける。おそらくこの女性はあの書状を隠した本人だろう。わざわざ羽に尋ねる理由がまだ分からないけれど、答えを言うのはいささか浅慮だ。
 黄花姫に気づかれないよう、羽は息を吸い言葉を繋げる。
「書記室には周家にゆかりのある文官の書物もあります。私は周家を継ぐものとして、それらにも通じる必要があるのです。時折、書記室で資料を借り受けることもあるのです。不可解に思われるかもしれませんが、本当の事なのです」
 間違いは言っていない。借りに行くことはないけれど、前半部分は真実。
「そう、わたくしの思い違いだったのね。まぁいいわ。明英様、宴の会場までお話しながらいきましょう?」
「あ、はい! 姫姉様!!」
 明英が慌てて黄花姫の後をついて行く。子犬のように跳ねていくものだから、せっかくきれいに整えてもらった髪が少し乱れている。
(あの書状、内容を聞くべきだったかな)
 そう思ったけれど、淳が泣きながら首をふるのが分かるのでやめることにした。
(あの目、怖かったな……)
 命を取りに行くような目だった。さながら蛇に睨まれた蛙の気もちを味わう羽目になるとは思わなかったが。
(やっぱり、あいつの近くが落ち着くな)
 美姫だの、至上の花だともてはやされている黄花姫より、いつもそばにいる明英の方が落ち着いていられる。

 宴は日没とともに行われた。広い会場の席を二分割にして、中央に楽士やら芸人が呼ばれていく。玄国側の黄花姫は中央近くに座り、多くの人の関心を引いていた。そのすぐそばに各部族の代理、そして隅に明英のきょうだいがいた。辰国側は皇后と皇女、そして上級貴族が並んでいる。明英はと言うと、黄花姫に呼ばれ、近くで居心地が悪そうにしている。黒陵将軍の姿はまだ見えない。
「陛下の病は本当なんだな」
 居並ぶ貴人を見て羽はつぶやいた。
「ええ、宴に出られないと今朝がた紫宸殿より通達がありました。皇子様も政務で抜けられない、とも」
 楽士たちの集まっている控えに羽と子牙はいた。澄は他の二つ名持ちと共に出て、それは見事な曲を奏でている。宴のはじまりに相応しい、華やかな楽だった。
「子牙兄ちゃんの出番はもうすぐだよな」
「ええ、少し手が震えます」
「大丈夫! だって、兄ちゃんはいつだって見事に弾いているだろ? 今回だって、いつも通りやればいいんだって!」
「あはは。羽に励まされる日が来るなんてね。羽はこれから厨房かい?」
「いや、今回の宴の指揮は父上が仕切ってて、俺は貴族の方々に顔と名前を売り込んで来いって、そればっかりさ」
「ご当主様らしい」
「笑うなよ。本当だったら、ここで楽の一つや二つ………」
「できる?」
「………分からねぇ」
 あれから人前で奏でる練習は続けているけれど、まだまだと言ったところだ。そんなんだから、父もまだ許してくれないのだと思うとへこんでしまう。
「なんか、変じゃないか?」
 へこんでしまった従弟を慰めようと子牙が手を上げたとたん、羽が呟いた。
「はい?」
「なんか、騒がしいような……」
 幕の奥、宴の会場でざわめきが起こっている。宴で気分が高揚した人達の笑い声ではなく、困惑に満ちたため息や独り言のような雰囲気だった。
「なにかおこったのでしょうか?」
「見てくる、兄ちゃんは出番が近いんだから!」
 羽は子牙にそう言うと、宴の会場に向かった。そこで、羽は息をのんだ。黒陵将軍が宴の会場の中央に連れてこられ、その目の前に黄花姫が立っていたからだ。黒陵将軍は両脇を金狼族の武人に固められ、罪人のように膝をついている。
(何があったんだ??)
 あの剛力無双と名高い彼がこんなことになるなど、誰が思うだろうか。黄花姫は困惑の表情を浮かべる周囲などお構いなしに、作りの良い剣を黒陵将軍に向ける。
「将軍、もう一度尋ねますわ」
「吾輩は何も存じないと、再三再四申し上げました」
「ええ、ですから。お答えを頂くまで、何度も尋ねますわ」
 あの時羽に向けた冷たい表情のまま、黄花姫は口を開いた。
「あなたが20年前に大部族会議から盗んだ天狼族ククチヌの宝を差し出しなさい」
(天狼族……それって、あの、天狼族?)
 黄花姫の言葉に羽は更に困惑した。彼女が口にしたのは、もうこの世に存在しない部族の名前だったからだ。
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